ロシアと戦争を理解する映画6本 対ドイツ、チェチェンに表れる反戦の思いと軍隊賛美=鴻野わか菜
ロシアのウクライナ侵攻は出口がみえない無謀な戦争となっている。この戦争を理解するための二つの重要な戦争は、第二次世界大戦とチェチェン戦争である。プーチン大統領はウクライナ戦争に際して、「ナチスとの戦い」という根拠のない発言を重ねている。第二次世界大戦でソ連が戦闘員、民間人を含めて約2700万人の犠牲者(戦死、餓死等を含む)を出しながらナチス・ドイツに勝利したことは、たしかに現在のロシア人にとっても重要な意味を持つ歴史である。しかし、プーチン大統領はこの集団的な記憶を利用し歪曲して、ウクライナ侵攻を正当化しようとしている。
もう一つがチェチェン戦争である。1999年8月16日のプーチン首相誕生のわずか10日後に開始された第2次チェチェン戦争は、ロシア国内の戦争で、非ヨーロッパ人を対象としていたこともあり、現在のウクライナ侵攻ほどの強い国際的批判を浴びることはなかった。政権の座につくと同時に戦争を開始したプーチン氏の好戦的な姿勢は、現在のウクライナ侵攻にもつながっている。
「雪どけ」で変わった対ドイツ戦争映画
ここでは、第二次世界大戦のナチス・ドイツとの戦いとチェチェン戦争を描いた映画を取り上げて、ロシアの人々の戦争観や映画との関わりを考えたい。
対ドイツ戦争映画の代表作といえる「誓いの休暇」と「僕の村は戦場だった」は、50年代後半から60年代前半の「雪どけ」(文化統制の部分的な緩和政策)の期間に製作された。戦争で苦しむ人々の姿に光を当てた作品であり、それ以前の戦争を正義とし、権力者を称揚する従来のソ連の戦争映画とは大きく異なっている。
「誓いの休暇」 グリゴーリイ・チュフライ監督
「誓いの休暇」は、第二次世界大戦中に短い特別休暇をもらって母親のもとを訪ねる心優しい青年兵士の「最後の旅」を通じて戦争の悲劇性を描いた作品である。ほぼ全編が、青年が故郷へ向かう列車が舞台で、負傷兵たちの苦悩と同時に、青年の淡い恋も描かれている。
監督のチュフライ氏は、41年から45年までスターリングラード(現ボルゴグラード)やウクライナで従軍した後、46年に全ソ国立映画大学に入学した。
チュフライ監督の映画大学在学期間はソ連映画史上もっとも検閲が強化されたスターリンの晩年期と重なり、国内で製作された長編映画の本数が51年には9本にまで落ちこむほど映画界が低迷した。しかし、チュフライ氏が映画学校を卒業した53年に最高指導者だったスターリンが死去すると映画界にも活気が戻った。チュフライ氏が「誓いの休暇」を製作した59年には、108本の長編映画が国内で作られている。映画の内容にも変化が生まれ、ハッピーエンドで「正義」の戦争を描く従来の猛々しいソ連戦争映画とは異なる、新しいタイプの戦争映画が生まれた。
「誓いの休暇」では、戦争で亡くなった兵士たちをたたえるナレーションを不自然に挟み込むことなどで検閲に対応している。文化統制下での表現の可能性を極限まで追求した記念碑的な作品である。「雪解け」期は短かったが、戦争に対する批判的な言論は後世にも引き継がれた。その一例が、チュフライ氏の息子のパーヴェル・チュフライ監督の代表作「パパってなに?」(原題「泥棒」、1997年製作)などである。
「僕の村は戦場だった」 アンドレイ・タルコフスキー監督
「僕の村は戦場だった」は、ウラジーミル・ボゴモーロフの小説『イワン』を原作に、ドイツ軍に両親と妹を殺されて戦災孤児となった12歳の少年イワンの苛酷な戦争体験を描く。イワンは敵地を偵察する任務を自ら志願し、ソ連軍のもとで働いている。戦争前のイワンの幸福な幼年時代の回想シーンと、敵の砲弾にさらされる危険な前線の状況が交互に映し出され、「映像の詩人」と呼ばれたタルコフスキー氏らしい詩的な映像が、登場人物たちの内面を映し出している。ソ連軍によるベルリン陥落の場面も描いているが、戦勝の祝祭性とは無縁で戦争の悲しみがより印象的になっている。
この映画は、62年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。タルコフスキー氏は、後に検閲をめぐって国家と対立し、80年代初頭にヨーロッパに亡命している。
チェチェン戦争で分かれた描き方
プーチン政権下の2000年代は、チェチェン戦争を主題とする映画も数多く制作された。戦争の悲惨さをロシアへの批判をこめて描き出す映画がある一方、チェチェン人を「敵」として差別的に描くことでロシアを称揚するプロパガンダ的な映画も多い。
「コーカサスの虜」 セルゲイ・ボドロフ監督
「コーカサスの虜(とりこ)」は、ロシアの文豪トルストイの原作小説の舞台を第一次チェチェン戦争に置き換え、ロシア人捕虜とチェチェン人の友情を描いた作品である。徴兵によって前線に送られたワーニャ、職業軍人のサーシャの2人がチェチェン人の古老アブドゥルの捕虜となる。アブドゥルがロシア軍の捕虜となった教師である息子との捕虜交換を計画する中で、ロシア人捕虜とチェチェン人の間に心の交流が生まれていく……。
ボドロフ監督はチェチェン戦争を明確に反戦的な立場で映像化し、ロシア軍の腐敗や戦争の負の連鎖、独自の文化や伝統を持つチェチェン人の生活が戦争でいかに破壊されたかを描き出す。また、この映画では、ワーニャの母親が息子を守るためにロシア軍の将校に敢然と立ち向かう。現在のウクライナ侵攻でもロシア兵の母親たちが実際にこうした行動をとっている。
「チェチェンへ アレクサンドラの旅」 アレクサンドル・ソクーロフ監督
家族の葛藤を通じて世界や人間の危機を描いてきたソクーロフ監督が、ロシア人の祖母と兵士の孫の関係を通じてロシア軍に破壊されたチェチェンの生活を映し出す。チェチェンに単身やってきたひとりのロシア人女性の決意と行動は、戦地の人々の心に静かに波紋を広げていく。「男たちは憎みあうが、女たちは最初から姉妹」だと言って、アレクサンドラを受け入れたチェチェン人女性の言葉には友愛による和解へのひそかな望みが託されている。音楽監督はロシアの世界的指揮者ワレーリー・ゲルギエフ氏が務めている。
「ロシアン・ブラザー」 アレクセイ・バラバーノフ監督
第1次チェチェン戦争帰りの若い復員兵ダニーラを主人公とする、ロシア版「ランボー」ともいうべき作品。ダニーラは除隊後、故郷の田舎町へ戻るが、無職の厄介者として蔑まれ、兄を頼ってサンクト・ペテルブルクに上京するものの、兄は殺し屋になっていた。自分も殺し屋になる道を選んだダニーラは、ペテルブルクの裏社会を支配するチェチェン人の殺害計画を着々と進めるかたわら、新しい町で自分の居場所を見つけようとする。
この映画は公開とともにロシア映画界で空前の大ヒットとなり、殺し屋でありながら純粋で正義感あふれる青年として描かれたダニーラを「新しい英雄」として崇める若者が続出して社会現象になった。当時、第1次チェチェン戦争によって排外主義が高まる中で、チェチェン難民が各地であつれきを引き起こしていたロシアでは、映画の中での主人公が行う人種差別も、一部の若者の共感を呼んだ。完成度の高い娯楽作品であるだけに、社会に大きな負の影響を及ぼした。
「12人の怒れる男」 ニキータ・ミハルコフ監督
米国人シドニー・ルメット監督の「12人の怒れる男」(57年)の舞台を現代のロシアに移し、チェチェン問題を描いた作品である。両親をチェチェン戦争で亡くしたチェチェン人の少年が、養父となったロシア軍将校を殺害した罪に問われて裁判にかけられ、12人のロシア人陪審員に少年の運命が委ねられる。
近年いっそう愛国主義に傾いているミハルコフ監督だが、映画ではあからさまにロシア軍の将校たちが賛美され、そのことでチェチェン戦争やロシアの司法制度に対する批判性が低くなっている。極めてプロパガンダ的な映画であり、そのプロパガンダ性を隠蔽するためにこそ、ハリウッド映画のリメイクという大がかりな装置を必要としたのかもしれない。
テレビドラマも国家の介入“当たり前”
ロシアでは2000年代に、チェチェン戦争や第二次世界大戦を主題とする軍隊・戦争映画やドラマが大流行した。ブームの直接的な背景は「大祖国戦争60周年記念」という国家的な祝祭だったが、この時期の戦争映画・ドラマの多くが、政権の管理下にあるテレビ局の資本で作られた。このことを念頭に置くと、国家によるメディア統制や、制作者側の自己規制によって戦争映画が後押しされ、その結果、「強いロシア」を目指すプーチン体制や武力鎮圧の礼賛につながる作品が生まれてきたことが、自ずから理解される。
戦争映画やドラマについての国家の介入は、当時、ロシアの国内メディアでも取り上げられた。04年10月22日のロシアの大手新聞『イズベスチヤ』には戦争ドラマの流行についての記事が掲載された。記事では、ロシアのテレビ局責任者がメディアに対する国家の介入を容認する発言をし、「ドラマによって視聴者の興味を作りだすことができる」と発言している。
軍を美化し青年を誘う
ロシアの軍事部隊の人間模様を全208話にわたって描いたテレビドラマ「兵士たち」(セルゲイ・アルラノフ監督、04~07年)は、ロシアで大ブームをひきおこした。その一方で、軍隊の友愛を美化して描き、青年を徴兵に誘うプロパガンダ作品として批評家たちの批判を浴びた作品である。
06年11月9日の『イズべスチヤ』で、当時の副首相兼国防省長官、セルゲイ・イワノフ氏がこの人気ドラマの背景にある戦争映画ブームに触れて、「映画は軍隊の権威を高める潜在的な可能性を持っている」と発言している。こうした国防省長官の映画界に向けたラブコールは、ロシアにおいてもなお、ソ連時代と同様に、映画が愛国主義の宣伝として期待されていることを示している。視聴者の若者を軍隊に誘うというプロパガンダの成果にもつながったとみられる。
反戦にも根強い伝統
ソ連崩壊以後、映画界やテレビでは、興行成績、視聴率という商業的要素が強い意味を持つことになった。万人受けするエンターテイメント的作品が必要とされるという状況のもとに、ここで取り上げたプロパガンダ的なチェチェン戦争に関わる映画も生まれてきた。しかし、それと並行して、監督と権力との相克の歴史であるロシア映画史のなかで、「雪どけ」期から現在に至るまで、反戦映画の根強い伝統が受け継がれてきたことも確かである。ウクライナ侵攻で言論統制が強まる現在のロシアでも、文学や美術と同様に映画の分野でも、反戦の表現の可能性は追求されていくだろう。(鴻野わか菜・早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
《作品データ》
■「誓いの休暇」(原題「兵士についてのバラード」)
グリゴーリイ・チュフライ監督 59年製作
スターリン没後の「雪どけ」時代の反戦映画。ロシア人青年兵士の休暇中の恋、戦争で傷ついた人々の苦悩を描く
■「僕の村は戦場だった」(原題「イワンの幼年時代」)
アンドレイ・タルコフスキー監督 63年製作
敵地偵察をする12才の戦争孤児の苛烈な体験、対ドイツ戦争勝利も悲しく描く。監督は後年、検閲をめぐり国家と対立し、亡命した
■「コーカサスの虜」
セルゲイ・ボドロフ監督 96年製作
トルストイ原作をチェチェン戦争で表現。ロシア兵とチェチェン人の友愛を描く
■「チェチェンへ アレクサンドラの旅」(原題「アレクサンドラ」)
アレクサンドル・ソクーロフ監督 07年製作
チェチェン戦争を恥じるロシア軍将校の孫と祖母の葛藤を描く
■「ロシアン・ブラザー」(原題「ブラザー」)
アレクセイ・バラバーノフ監督、97年製作
チェチェン戦争の復員兵が主人公の大ヒット映画、チェチェン人への人種差別意識を高めた
■「12人の怒れる男」(原題「12」)
ニキータ・ミハルコフ監督 07年製作
チェチェン人少年の裁判に関わるロシア人陪審員12人、ロシア人の愛国主義がにじみ出る
(筆者略歴)こうの わかな 1973年生まれ。東京外国語大学卒業、国立ロシア人文大学大学院、東京大学人文社会系研究科博士後期課程修了(博士)。千葉大学文学部准教授を経て、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専門はロシア文学、ロシア東欧美術・文化。イリヤ&エミリア・カバコフの作品展「カバコフの夢」(越後妻有 大地の芸術祭)など、展覧会の企画や監修にも関わる。編著書に『カバコフの夢』(現代企画室)、訳書にレオニート・チシコフ『かぜをひいたおつきさま』(徳間書店)など。