戦前と戦後を結ぶ日本初の株価指数が誕生 開発者2人に聞く「144年をつないで見えたもの」
日本で初めて株式市場が誕生したのは1878年(明治11年)。以来日本はこれまで144年の株式市場の歴史を持つが、明治・大正・昭和戦前期の株価データベースが整備されておらず、歴史的な株式市場の趨勢はつかめなかった。そこで明治大学の株価指数研究所が投資教育会社のI-Oウェルス・アドバイザーズ(東京・渋谷)と共同で、1878年から1951年に至る株価指数を算出し、8月2日に公表した。この指数を戦後の東証株価指数(TOPIX)とつなげ、140年超にわたる日本の株式市場を指数で一貫してみることが可能になった。産学共同で指数の開発を進めたI-Oウェルス・アドバイザーズの岡本和久社長と、明治大学株価指数研究所代表の三和裕美子商学部教授に開発の苦労や、指数の歴史歴な意義、今後の展開などを聞いた。
(聞き手・金山隆一、桑子かつ代)
―― 戦前の株価指数を作ろうと思い立ったきっかけは。
岡本 証券界に入って長い期間海外で仕事していましたが米国などでは古いデータや資料がきちんと揃っています。日本でも1878年から株式取引所ができています。しかし我々の目に触れるデータは戦後、証券取引所が再開された1949年5月以降のものしかない。これはおかしいと思っていました。やはり海外では長期のデータがあることで投資家のスタンスが変わってきている。機関投資家だけではなくて個人投資家も「株というものは、途中で上下に変動はあっても長く持っていることで大きな収益が得られる」と言うことが目に見える形で証明されているわけです。日本でなかなか長期投資が根付かないのは、戦前と戦後で区切ってしまって本当に長期の株価の動きが分からないところにもひとつの原因があるのではないかと思い、その問題意識を明治大学の三和教授に話しました。株価指数研究所そのものは私の寄付で2016年に設立し、6年かけて株価データを集めて修正し、東証株価指数(TOPIX)につなげられるデータベースを構築しました。
◆「戦前」が存在しなかった日本株式
株価指数は、株式市場の全体、平均的な動態を示すための代表的な指標。米国株式市場を対象とした株価指数ではダウ平均などがあり、1880年代初頭から現在に至る長期的な株価指数の算出がおこなわれている。一方、日本では日経平均は1950年9月から算出を開始、東証株価指数(TOPIX)は1968年7月から算出開始し、いずれも1949年5月までさかのぼって算出できるが、戦前までさかのぼれる株価指数はなかった。
明治大学株価指数研究所は1878年から1951年の長期清算取引(個別株の先物取引にあたる定期取引)の株価データをもとに「三和・岡本日本株価指数」を算出し、公表した。1878年9月を100とする月次ベースの指数で、物価上昇は反映していない。1951年以降はTOPIXを利用することで戦前と戦後の株式市場の趨勢を一気通貫で把握できる指数を完成させた。
―― どんな苦労がありましたか。
三和 戦前の金融制度の特徴として実物取引と複数の先物取引があり、どの株価を集めてきたらいいのか、問題になりました。
結果的に一番取引高が多い長期清算取引(個別株の先物取引)の株価データを集めてくるわけですが、株価が掲載されている『株界20年』、『東株統計月報』、あるいは朝日新聞など、どこに何が掲載されているかをまず特定し、見つけるのが大変でした。見つけた雑誌も古い資料なのでボロボロです。ページをめくると崩れてしまうような状態なので、きれいにめくって写真を撮って学生さんがデータを打ち込んでと言う作業です。
さらに指数を作るにあたって時価総額加重平均を採用しています。資本移動、株式分割、戦前期特有の分割払込制度という制度もあり、それらを何月にやったかを特定しないといけない。各企業の今で言う有価証券報告書のような営業報告書を見つけて1社1社特定していくと言う作業もありました。しかも旧漢字なのでデータを読み込む学生が読めないと言うこともあり、旧漢字の辞典を入手したり、そんなこともありました。
戦前の特有な制度に他社株割り当てとか変態増資と言うような、今で言うと株主割当増資や第三者割当増資、他社の株式を割り当てるとか、すぐに理解できない制度もあり、それらをどう修正するか、戦前特有の金融制度の難しさとデータ取得の難しさなどの苦労がありました。
―― 1878年に上場企業は何社あったのですか。
三和 1878年末までに4社。東京株式取引所、東京蠣殻町米商会所、東京兜町米商会所、第一国立銀行(現みずほ銀行)です。株式取引所と言いますが、当初は株式ではなく国債が取引されていました。
◆維新後の武士階級を食わせるために始まった株式市場
岡本 補足しますと明治政府が掲げた1番大きな問題は武士階級をどうするかと言う問題だった。江戸幕府や諸藩が抱えていた人たちで、彼らに給料、禄を払っていた。それが突然幕藩体制がなくなって大量の失業者が出てしまった。明治政府としてそれらの人を放って置くわけにはいかない。といって明治政府もお金がないですから国債を発行し、それを秩禄公債や金録公債と言う形で武士階級に分け与えた。「あなた方、この金利で生活をしていきなさい」と。しかし実際にはとても金利で生活できるようなレベルではなかった。多くの人たちが生活に困って債券を豪商、当時、生まれ始めていた財閥に売るのですが、ものすごく値をたたかれる。苦しいから売却資金で武士の商法でいろいろ始めるのですが、大体失敗していく。とにかくもっと公正な値段をつけるようにしなきゃいけないと言うことで始まったのが株式取引所です。
なぜ「株式」取引所という名前になったか分からないのですが、当初は秩禄処分による債券の取引所だった。最初に上場された債券以外の株式が東京株式取引所、つまり取引所自体の株です。それから少しずつ基幹産業が入ってきて、だんだん民間企業の株式が増えていった。やっぱり日清・日露戦争、第一次大戦、それぞれ戦争が終結するたびにブーム的な状態があって、資金調達の場として利用されるようになってきた。
―― 最終的に何社のデータを指数化した。
三和 指数で取り扱った企業の数は1878年~1951年の合計で510社です。同じ企業でも新株と旧株という戦前特有の区別があり、それぞれ異なった値段がついていたので、これを勘案すると722銘柄となります。
―― やはり国策産業が多かった?
三和 それが興味深く、各時代の国策があって、それが輸送、電力・ガス、繊維産業となる。私たちの作った指数は、単純平均ではなく時価総額平均でとっているので、その時代の産業を反映したものが指数に現れてくる。指数自体にも歴史的な価値があると思います。
◆敗戦を予言していた株式市場
岡本 非常に面白いのは1945年7月、つまり敗戦の1カ月くらい前、内需の銘柄が動き出し、製粉、紡績、人絹(化学繊維)の会社が買われるようになってきた。大暴騰ではないけれども少しずつ上がってきている。当時は公式には内需株と言っていましたが、一般的には平和株。平和という言葉は禁句でした。つまり戦争に負けると言う意味です。平和株と言えないから内需株と言っていた。「どうも平和は近そうだ」。要するに負けると言う事です。それが近そうであるということがマーケットの中ではちゃんと株価に現れている。極端に統制された経済の中にあっても、それなりに時々の世相をきちんと反映した株価形成がなされていたことに感動します。
―― 戦争はもう終わりだと投資家は見抜いていたわけですね。
岡本 すごいですよね。誰かひとりではなく、総体としての国民の予測力という感覚がちゃんとマーケットの中に現れていたと。それはおそらくどの局面でもそういう事はあったのだと思います。
―― 指数を作ったことで見えてきたものはありますか。
岡本 学問的に言えば非常に長期で見た場合の株式のリスクプレミアムがどれぐらいであったか、債券と株式の間の相関関係、日米の指数にお互いにどんな影響があったか、など様々なことがわかってくると思います。それは長期的な資産運用を考えたときにものすごく重要なデータになる。私自身15年以上、年金運用をやってきた中でこのようなデータがあることを非常に心強いものだと思います。
また、一般的な人たちもこのグラフを見てもらうと、やはり戦争、震災、統制経済、国家総動員などいろいろな歴史があったけれど、ずっと見ると右肩上がりで上がっている、株というのは何代にもわたってずっと持っているとだんだん上昇していくんだな、とそういう確信が生まれてくると思います。
グラフをよく見てもらうと大きなトレンドの中に小さなギザギザ(株価の変動)がありますが、多くの人たちは株価が上がったり下がったり、みんなその小さなギザギザのところで売ったり買ったりして儲けようとしている。そうではなく、長い目で見ると、右肩上がりになっている。日本の生活水準がより良くなっていく。それを実現しているのが民間企業です。世界や世の中に対して企業が生み出した価値が投資のリターンの源泉になっている、それを長期的に見ることができる。投資家自身に対して発するメッセージもずいぶん変わってくるのではないかと思います。
◆「戦前」と「戦後」をつなげる意味
―― ウクライナ戦争というこの時期に戦前期の指数ができたと言う意義はありますか。
岡本 個人投資家に対しても(株式投資に対する)長期目線の重要さを、確信を持ってもらえるのではないでしょうか。「小さい上げ下げでもうけたり損したり」ではなく、長期に保有してもうけると言うことです。今回この歴史的指数ができたことで我々の認識が戦前と戦後でつながった。明治維新の10年後に株式市場できた。市場が開設されたのは西南戦争(1877年)の翌年です。日銀の創設や帝国憲法の発布よりも早い。そこからずっとつながって今日まで来ている。その間に日清・日露戦争、第一次大戦、関東大震災、昭和恐慌、太平洋戦争、いろんなことがあった。その時々にどんな相場だったか。それを見ていくことによって、もっと歴史的な近現代全体の視野が生まれるのではないかと思います。
その視点で今のウクライナの問題を考えたときに、戦前の日本の行動などと、どんな類似点があるのかとか、そういう思いを広げていくことができるのではないか、私はそれがすごく大きいと思います。
みんな今、戦後しか見ていない。そうではない、つながっているんです。
三和 私は歴史の研究者ではないのですが、ある歴史家から「金融市場の関係者は未来しか見てない。将来のキャッシュフローがいくらで、それを割り引いて現在価値を求めるという未来の予測しかしていない。証券会社も含めて過去を見るなんてハズレものだ、という認識だ」と言われたのは、とても印象的でした。
いまウクライナ戦争と言う日常でリアルに国と国が戦う戦争が起きている、戦争って本当にこんな風に起こるんだと言う体験をしている。こういうグラフを作ると、戦争の時も株価がついている、日常の中で戦争が起き、経済、株価、株式会社の価格もすべて戦争を反映した価格形成がなされている。そのことをこのグラフの中で感じて、私たちが今生きている事自体が歴史なんだろうなという気がしました
―― 指数の使い方や今後の展開は。
三和 指数は、一切の修正を施さない価格指数PI(プライス・インデックス)、戦前期に特有な金融制度や増資権利落ちなどを勘案した修正株価指数API(アジャステッド・プライス・インデックス)、配当の再投資効果を反映した配当込修正株価指数TRI(トータル・リターン・インデックス)の3指数で構成されます。
TRIは株式分割払込制度や株主割当額面発行増資などの影響を修正することで、より実態に近い投資収益率を計測できます。配当の再投資効果を考慮することで、株式投資におけるトータルリターンも明らかになり、市場参加者の投資成果や企業業績などを反映した長期的な株式市場の動向を分析できます。
今後は、企業への歴史的株価情報の提供や、指数や株価データの商業利用化を進め、産学協同プロジェクトとして日本と世界に発信していきます。
岡本和久(おかもと・かずひさ)
1946年生まれ。東京都出身。慶應義塾大学経済学部卒業後、日興證券入社。ニューヨーク勤務中、グローバルな証券アナリスト資格(CFA)を取得。外資系年金運用会社社長を経て2005年、投資教育会社、I-Oウェルス・アドバイザーズ株式会社を起業、生活者のための投資教育を続ける。16年に明治大学に株価指数研究所を創立、三和裕美子教授のもと戦前期からの株価指数開発を支援。また、19年にプロの専業アドバイザーを育成、認定、支援するNPO法人「みんなのお金のアドバイザー協会~FIWA」を設立。
三和裕美子(みわ・ゆみこ)
1965年岐阜県生まれ。84年岐阜県立大垣北高卒。88年南山大学卒。88年から91年野村証券勤務。93年同志社大学大学院アメリカ研究科修士課程修了。96年大阪市立大学(現大阪公立大学)大学院経営学研究科博士後期課程単位取得退学。96年から明治大学商学部専任助手、専任講師、助教授を経て05年同教授。研究分野は、機関投資家とコーポレートガバナンス、ESG投資など。現在、エーザイ株式会社、ピジョン株式会社の社外取締役も務める。