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ワンマン宰相へ「100人の弔辞」 立場を超え寄せられた“追悼” 1967(昭和42)年・吉田茂元首相国葬
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/34
国民が大反対する安倍晋三元首相の「国葬」を巡り、その前例とされたことで改めて足跡が見直されたのが吉田茂元首相だ。占領期日本のかじ取りを担う一方、失言が招いた「バカヤロー解散」など多くの挿話に富む昭和の“ワンマン宰相”を人々はどう見送ったのか。
〈世間では吉田さんが辞めないならば極右であれ、極左であれ、ブスリとやってもらったほうがよい、という声すらも聞えるのであります〉と物騒な物言いを本誌『サンデー毎日』1954(昭和29)年3月7日号が取り上げている。舞台は同年2月22日の衆院予算委員会。当時の改進党代議士で後に首相となる中曽根康弘氏が“テロ”の恐れまで持ち出し、吉田茂内閣の総辞職を求めた場面である。
国会は与党自由党の議員から逮捕者を出した「造船疑獄」など相次ぐ汚職事件で揺れていた。吉田首相自身、48年10月の第2次内閣発足から連続在任期間が5年を超えて過去最長。中曽根氏は「もはや人心が離れている」と断じたが、当時の本誌も「吉田辞めろ」の大合唱だ。同号は著名人らに「首相だったら」どうするかと聞く記事を載せた。元『毎日』主筆の政治評論家・阿部真之助氏(後のNHK会長)は〈答は簡単明瞭だ。あくまで権勢にカジリつく。あらゆる権力と金力をつくして、事件のもみ消しに努力する〉と皮肉った上でこう述べる。〈だが「私がもし、吉田以外の首相であるなら」という問であるなら答は当然別にならざるを得ない。第一私が首相なら、三年も前に辞職していたであろう。(中略)国が独立すれば、政治も民心も、一新されなければならなかった。それには、まずガン首の総理大臣から人を替える必要があった〉
3年前とは51年の交戦国との講和(単独講和、サンフランシスコ平和条約締結)を指す。国の独立回復に尽くした功績を称(たた)えつつ、政権に恋々としたと考える人は多かった。元来〈人の好き嫌いが激しく、人見知りで(中略)そのうえ気が短い〉(麻生和子『父 吉田茂』新潮文庫)という首相は“ワンマン”で鳴らした。53年2月には国会で野党議員の質問に興奮し「ばかやろう」と発言してとがめられた。懲罰動議の可決、さらに不信任案も可決され、吉田首相は衆院を解散。世にいう「バカヤロー解散」だ。宰相の暴言を報じる本誌同年3月15日号では評論家の浦松佐美太郎氏が〈これは恐らく吉田茂の持っている優越感のせいではないだろうか。(中略)人間の尊厳などということを、どんなに文字で憲法に書いてみても、他人をバカヤローと軽蔑する人間がいる限り、どうにもならないではないか〉と糾弾している。
“曲学阿世”南原繁「感想は遠慮」
吉田首相は54年12月、退陣した。原因の一つは前述の造船疑獄だ。捜査の手は自由党幹事長の佐藤栄作、政調会長の池田勇人という政権の要に伸びた。吉田首相は同年4月、犬養健法相に指示し、検察庁による佐藤幹事長の逮捕許諾請求を止めさせた(指揮権発動)。
政権末期に汚点を残したが、晩年はむしろ“吉田ブーム”が起きた。吉田元首相は67年10月20日に死去、同31日に国葬が営まれた。追悼特集を組んだ本誌11月5日号に「よい政治」をした首相は誰かを尋ねた統計数理研究所の世論調査が載る。吉田氏は60年以来、8年連続1位で、67年の調査では53%(2位は池田勇人氏の26%)が名前を挙げた。
同号は併せて「100人の弔辞」を載せた。マルクス経済学者の向坂逸郎(さきさかいつろう)氏が〈考え方が正反対だったが、戦争中から、軍やファシズムに抵抗したことはりっぱだ〉と言えば、革新系の美濃部亮吉東京都知事も〈保守主義者でもシンはリベラリストですよ〉と立場を超えて弔った。ただし単独講和を批判し、吉田氏に「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」とけなされた南原繁元東大総長は〈個人としてはごめい福を祈っていますが感想は遠慮させていただいております。あしからず〉とだけ回答している。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など。