週刊エコノミスト Online サンデー毎日
「ビキニ」から芽生えていた原発政策のゆがんだ〝底流〟 1954(昭和29)年・第五福竜丸被爆事件
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/31
長崎原爆忌の8月9日、岸田文雄首相は平和祈念式典で「長崎を最後の被爆地とし続けなければなりません」と述べた。ただし、核の犠牲者は長崎が最後ではない。第五福竜丸など日本漁船が遭難した「3・1」ビキニ事件は、半世紀余を経た「3・11」へつながる。
本誌こと『サンデー毎日』1954(昭和29)年4月4日号に「春眠覚醒戦術」と題したコントが載る。妻がどんな言葉で夫を起こすか。商人は「アナタッ! 督促状よ」の一声で跳び起き、社長夫人なら「逮捕状よ」と言ってたたき起こす。たわいのない話だが、続く2行の〝オチ〟は今時、どう耳に響くだろう。〈アナタッ! 原子マグロよ……魚屋の妻〉〈アナタッ! 赤紙よ……一般人の妻〉
「赤紙」とは無論、召集令状のことだ。朝鮮戦争勃発を契機にGHQの命令で警察予備隊が作られ、保安隊を経て54年7月、自衛隊が発足した。平和憲法下で進む再軍備は〝逆コース〟と呼ばれ、戦争の記憶を生々しく呼び覚ました。
一方、日本に再軍備を促した東西冷戦は米ソの核軍拡競争をあおった。同年3月1日、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験により第五福竜丸の乗組員が放射能を含んだ「死の灰」を浴びた(ビキニ事件)。水揚げされた「原子マグロ」の多くは廃棄されたが、一部は市中に出回り、消費された。風評も加わって食卓から一斉に魚が消えた。
自衛隊の誕生と第五福竜丸の遭難が同期した当時の世相をコントはよく映している。ただ、全く笑えないのは今も昔も同じだろう。
〈三月四、五日 同船上ではこのころから乗組員のだれかが〝かゆい〟といい出した。そして大半の人の顔や手がふくれて、火傷のようになってきたので〝これはおかしいぞ〟と鏡を見ると、みんな真っ黒に焼けている顔を発見した。(中略)ひどい者は頭の毛が抜け、耳と目から膿汁のようなものが流れ出した〉
本誌同年3月28日号は第五福竜丸の水爆実験遭遇後の様子をドキュメントで伝える。3月14日、同船は静岡県の焼津港に帰港。検査の結果、乗組員23人は全員が「原子病」と診断された(被爆半年後、元無線長の久保山愛吉さんが死去)。記事は続ける。〈世論は沸き上がった。これを反映した国会では〝米側の損害賠償〟〝水産界の危機〟が叫ばれ、〝死の灰〟問題は怒とうのような波紋を描いて全世界に広がって行った〉
湯川秀樹が口にしていた「不満」
ビキニ事件が核兵器廃絶運動の機運を高めたことはよく知られる(翌年8月6日、広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催)。半面、元乗組員の苦しみは続いた。1年2カ月の入院生活を終え、200万円の見舞金を得た。本誌84年3月18日号が被爆30年後の彼らを取材している。〈焼津市内の給与所得者の月給が1万5000円前後であった時代。乗組員へのねたみも生まれ、「オレも死の灰を浴びればよかった」という言葉まで漁師仲間から出たほどだ。(中略)「お茶を出しても、手をつけずに帰るお客さんがいたり…、いやな気持ちがした」とは家族の話だ〉と記事は書く。
元乗組員への見舞金は、日米両政府が事件を棚上げし、政治決着を図るために米国が日本に支払った手切れ金の一部でもあった。核の被害を巡って人々が分断されるさまを私たちは福島原発事故で見ている。
一方、事件直後の54年4月、初の原子力予算が成立した。国民の反核、反米世論の高まりを「原子力の平和利用」という美辞で丸め込む仕掛けに原発の導入が利用された。本誌同年5月30日号で物理学者の湯川秀樹氏はこう述べる。〈学者の側として一番不満に思ったことは、原子炉という将来の原子力問題の出発点になるところのものを、学者に相談もせずに簡単に(予算を)出して、ぽかっときめられたということです〉
日本の原発政策は出自からして筋目が違う。57年後の3・11につながる底流だろう。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など