週刊エコノミスト Online サンデー毎日
本誌が伝えた〝これが戦争だ〟 拡大版ワイド・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル29=ライター・堀和世
終戦から77年、人間でいえば喜寿である。だが素直に祝えるほど内外の様子は穏やかでない。非戦の誓いはなぜ、立てられねばならなかったか。十五年戦争にまつわる五つの挿話を通じて改めて考えたい。「戦後」の寿命を延ばすことが今を生きる者の義務だからだ。(記事の引用は現代仮名遣い・新字体で表記)
1931(昭和6)年・満州事変 美談による「嘘」の上書きの始まり
満州事変が勃発した1931(昭和6)年は、日本初の完全トーキー(映像にせりふなど音声を合わせた映画)として松竹キネマが蒲田撮影所で製作した「マダムと女房」が公開された年だ。ヒロインは無声映画時代から松竹蒲田の看板女優だった田中絹代(当時21歳)だ。初めて聞く下関なまりの肉声にファンは大喜びしたというが、その声を遠く大陸でこの一言に重ねた将兵もいたことだろう。
〈満州出征の方々よ、安心して御国のためにつくして下さい。皆さん、感謝しましょう。慰めて上げましょう。(中略)後顧の憂いなからしめて、日本男児の意気を示して戴きましょう〉
本誌こと『サンデー毎日』同年12月27日号に田中が寄せた「感謝の言葉」と題する一文だ。同号は「在満同胞慰安号」をうたい、人気女優による「北満の勇士を想う」という特集を組んだ。新派劇の水谷八重子は〈万歳々々の歓声で皆様をお送り申すことは、国民熱誠の現れとしてさもあるべきことでございますが(中略)はやし立ててしまうようで、何だかすまぬような気持さえもいたします〉と率直に述べ、日露戦争時、与謝野晶子が書いた詩になぞらえた「君病み給うことなかれ」という言葉を送った。
同年9月18日、中国東北部の奉天(現・瀋陽)郊外で日本の関東軍が自ら満鉄線を爆破、中国軍の仕業だと偽って軍事行動を起こした(柳条湖事件)。本誌創刊から半世紀の歩みをたどる『週刊誌五十年』で著者の野村尚吾(元本誌記者)は当時の国民の反応をこう書いている。〈満州におけるわが権益を守るために関東軍が常駐しているぐらいは知っていても、その権益とは、満鉄以外にどんなものが実在しているか、ほとんどの者は何も知らなかった。(中略)日本の運命を決する大戦争の前兆と思った者は、関係者以外はだれ一人としていなかった〉
だが、関東軍の戦線拡大は着々と進行していた。翌32年の本誌1月24日号に、関東軍参謀の板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐ら同軍幕僚部を交え、現地で行われた「新満蒙建設座談会」が載る。底意を探る記者に、軍幹部がこう言って釘(くぎ)をさす場面が興味深い。〈断って置きますがね、際どい質問をされますからヒントを与えますから、あとは諸君の第六感で想像して下さい〉
情報を一手に操る「軍」という権力のまがまがしさではあろう。ともあれ、この席上で板垣、石原両参謀は「独立国家」樹立が満州事変直後からの最小限の要求だと明言。事実、同年3月1日に「満州国」建国が宣言されると、本誌は「満州建国と上海事件」と題した『満州事変画報第四集』を4月1日付で発行した。
「上海事件」(上海事変)は同年1月、排日運動が起きていた上海で、日本人僧侶が中国人に襲われた事件を機に日本海軍陸戦隊が出動、中国軍と衝突した事案だ。これも関東軍が絡む謀略であり、いわば満州事変が飛び火した形だ。画報には上海事変の「廟行鎮の戦闘」で散った3人の工兵一等兵、世にいう「爆弾三勇士」の遺影が載る。敵陣への突撃路を開くため、爆弾筒を抱えて身もろとも鉄条網を爆破した逸話は当時、最上級の美談とされた。
本誌はさらに同年6月、臨時特別号「日支事変忠勇美談集」を発行、講談風にしつらえた「江南の花・爆弾三勇士」を掲載した。同美談集には、満州事変に出征した陸軍中尉の夫の「後顧の憂い」とならぬよう、21歳で自刃して果てた若妻の実話も載っている。記事の見出しは「武人の妻の鑑(かがみ) 死のはなむけ」だ。
嘘から始まった戦争が美談で上書きされ、再生産される構図は終戦まで続く。
1941(昭和16)年・真珠湾攻撃 海軍が隠した「九軍神」の〝生き残り〟
1941(昭和16)年12月8日未明(現地時間7日朝)、日本海軍はハワイ・オアフ島の米艦隊基地を奇襲、日本海軍は米戦艦アリゾナなど21隻を沈没・損傷させた。この真珠湾攻撃には航空部隊に加え、海中から魚雷を仕掛ける「特殊潜航艇」が出撃していた。
本誌42年3月22日号に作家の吉川英治と大本営海軍報道部の平出英夫課長(大佐)との対談記事が載っている。写真の吉川は唇をかみ、視線をさまよわせている。特殊潜航艇が、もとより生還を拒否した〝特攻〟であった事実を平出大佐に詳しく聞かされ、懸命に言葉を探している顔なのだ。
同年3月6日、大本営は潜航艇による〝戦果〟と、9人の隊員を「九軍神」として発表。その翌日、二人の対談が行われた。「護国の神〝特別攻撃隊〟を讃う」と題した記事の中にはこんなやり取りがある。
〈吉川 これは精神の高さにおいても非常なものですね。刹那(せつな)に、完全に身命を抛(なげう)つというショックや勇気は、これは日本人なら、もう皆の心にあるところのものだと思うのです。しかし、自分の命を価値高く捨てるということに日々苦心しておったということは、全く容易でないと思います。
平出 実際容易じゃありません。われわれの思うのはそこです。瞬間に命を捨てるのなら、今まで何十人、何百人捨てたか知れません。しかし何ケ月かに亘(わた)って、自分は必ず死ぬということを目標にして、やっていたんです〉(一部改変)
9人は全員独身だった。筆頭の大尉(当時27歳)には許婚者がいたが、「武人のたしなみ」から一切の係累を絶つとして婚約を解消した。平出大佐からそう教えられた吉川は〈それはまた佳話ですね……いいですね。劇にも小説にも詩にもなりますね〉と感動した口ぶりで答えている。
ところが、「軍神」から漏れた搭乗員がいた。
〈私の乗った特殊潜航艇は蓄電池で動く全長二十四ヤード、重さ三〇トン、速力二〇ノット、航続距離約四百マイルの二人乗り豆潜水艦で無電機と魚雷二本を積み、操縦室はせまくて辛うじてはい込む程度という貧弱なものでした〉
戦後の本誌49年1月16日号で、特攻に加わった一人だった元海軍少尉の酒巻和男さん(当時31歳)が直撃取材に答えている。〈そりゃ今から考えればずいぶん無茶な事をやったものだと思いますが、あのころは死は生なりと教えられ、私自身もそういうものかと決めてかかり、何となくあすこまで行ったんですよ〉
二等兵曹と乗り組んだ酒巻さんの艇は湾を3時間潜航したが爆雷を浴びるなどして浸水、座礁。酒巻さんは岸に打ち上げられ、そのまま米軍の捕虜となった。
吉川との対談で大本営の平出大佐は「生き残り」の存在に一切触れていない。誌面には「尽忠報国」を誓い、隊員が生前に名を墨書した「軍神の寄せ書き」の写真が載るが、酒巻さんの名前はない。海軍中佐としてハワイ奇襲を陣頭指揮した淵田(ふちだ)美津雄が手記に裏話を記している。〈(当局は)艇長五人の寄せ書から酒巻少尉の署名を消したり、さまざま苦労して酒巻少尉が捕虜になったことをひた隠しに隠した〉(中田整一編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』)
輝かしい「特攻第1号」が「捕虜第1号」でもあったことは不都合な真実だった。2人乗りの5艇が出撃したのに〝九軍神〟では数が合わない――そんな素朴な疑問を公に口に出せる世相ではもとよりなかった。
1943(昭和18)年・山本五十六戦死 国葬で示された「短期決戦論者」の〝遺志〟
〈図面を焼けといわれた時私は反対したんですよ。……日本の文化を世界に宣伝するという意味で、残したいということを申出たんです。ところがどうしても焼けという命令を下された〉
海軍艦政本部で戦艦「武蔵」の建造に携わった元技術大佐が、敗戦直後に設計資料の焼却命令を受けた時の様子を語っている(本誌49年10月23日号「超弩級戦艦〝武蔵〟の一生」)。
武蔵は44年10月、レイテ沖海戦に出撃したが、米軍機の攻撃を受け沈没した。そもそも建艦に反対したのが〈砲戦が行われる前に飛行機の攻撃によって撃破されるから、今後の戦闘では戦艦は無用の長物になる〉(同号)と見抜いた山本五十六・連合艦隊司令長官だった。だが彼自身、43(昭和18)年4月18日に南太平洋のラバウル基地から前線視察に向かう飛行機が撃墜され、死亡した(当時59歳)。遺骨を乗せて帰ったのが同年2月に連合艦隊の旗艦となった武蔵だった。
ところで、武蔵の乗組員がそれを知ったのは、横須賀帰港の前日、5月21日だった。同日、山本長官の戦死が大本営発表と同時にラジオ放送された。〈「山本の死」はしばらくは伏せられていた。国民への影響があまりにも大きいということからであった〉(保阪正康『山本五十六の戦争』)
確かに〝山本五十六〟人気は群を抜いていた。太平洋戦争開始の翌年新春、本誌が始めた連載「藩精神を探る」の第1回が山本長官の故郷、旧「長岡藩」だったことからもうかがえる。
戦死を一報した本誌43年6月6日号では、その新潟・長岡時代の同級生が思い出を語っている。〈寡黙で自分の才能や学力を誇示したりすることを嫌う実力派であったようだ。指名されれば、何の学科でも、実に堂々とやってのけた。そして常にコツコツ勉強して準備を整えておくので、試験当日など他人が、血眼になっている時も、悠然としていた。だが、一番、二番になるという点取虫ではなかった。だから、私が冗談に「君は名前通りにいつも五番か六番だな」というと「そうか」と事もなげに笑っている。この当時から、司令長官になってからの調子が、顔にも言葉にも出ていた〉
同20日号には山本長官の人柄をしのばせるエピソードが載る。〈大好きな煙草をぷっつりやめたのは部下思いからだ。海軍次官時代、本省の一少佐が非常な愛煙家で、そのため頭を痛めたことを知った元帥は「お前が煙草を吸って身体を悪くするのは、国家のためまことに惜しい。お前が煙草をやめなければ俺がやめる」と言われて、この支那事変以来やめたのである〉
同記事によると、山本長官は日中戦争勃発以来、内ポケットに一冊の手帳を忍ばせていた。手帳は猛訓練で殉職した部下の「遺名録」だった。〈事変になって戦死した勇士たちは、靖国神社に祀(まつ)られて護国の人柱として全国民の感謝と祈念を受けているが、それに比して平素の訓練中に殉職した部下たちは寂しい。せめて自分だけでも時時思い出して英霊を慰めてやるのだ〉と語っていたという。
記事は〈嗚呼!この提督にして、はじめて曠古(こうこ)の大戦果が挙げられたのだ〉と感慨無量だ。そんな国民的英雄を失ったマイナスを軍部は逆手に取ったふしがある。43年6月5日、山本長官は皇族、華族以外では初めて「国葬」により送られた。日米開戦時から短期決戦と講和を目指していたとされる山本長官の〝遺志〟は、結果として別の言葉で代弁されることになる。
〈この日、日比谷葬場に進む葬列を見送る市民の大群の誰も彼もが、大空と怒濤(どとう)のなかになお叱咤(しった)する元帥の雄姿をありありと見たのである。米英撃滅の拳を揮(ふる)って居られる姿を見た。そして誰も彼もが米英撃滅への拳を握りしめたのである〉
本誌6月27日号は力んだ筆遣いで伝えている。
1945(昭和20)年・東京大空襲 気高き「大量殉職」を招いた〝非科学〟
「痩せましたな」というのが戦時中にはやったあいさつの一つだったという。無論、食糧事情悪化のせいだが、本誌44年12月3日号でコラム子は〈今まで二、四〇〇カロリーを摂(と)っていた人が二、〇〇〇カロリーしか摂れなくなれば、身体の方でこれに合せて六〇㌔から五〇㌔へ減ってくれる。こういう瘠(や)せ方を健康的瘠せ方というのである。また決戦的瘠せ方といってもいいだろう〉と書く。文字通りの〝痩せ我慢〟がまだ通用したということか。
客観情勢は厳しかった。折しも本誌同号は11月24日の米爆撃機B29による初の「帝都空襲」を伝えた。日本軍は同年7月、サイパン島で玉砕。次いでグアム島、テニアン島を失った。米軍はこれらを拠点に日本本土への長距離爆撃を始めた。翌45(昭和20)年2月16~17日には延べ1600機の空母艦上機が関東各地に飛来するなど空襲は激化した。「本土侵襲の醜敵を撃て」(同年2月25日号)といった勇ましい見出しが空元気だったと分かるのが、B29の無差別爆撃を許した3月10日の東京大空襲だろう。
被害を直接伝える記事や写真は本誌にはないが、警視庁消防課長や一線の警察署長、消防署長らの座談会「官防空陣の敢闘」(4月8日号)から惨状が読み取れる。大空襲では約10万人が死亡したが、警察官や消防官の殉職も多かった。ある警察署では庁舎が火事になり、留置人を解放した。ところが2人の看守が留置人から預かった金品を守る責任があるとして庁舎に戻り、殉職した。また火が迫ってくる中、故障したポンプを懸命に直していた消防官がいた。部下が避難を勧めても「我々が避難しては町はどうなる、誰が守る」と聞かず、修繕する姿のまま息絶えていたという。
〈バケツをもって川から水を汲(く)んで避難民にかけて、避難民は助けたけれども、自分は溺死したというのがあります。こういう例はとても数限りないのです〉と消防課長は話す。一方、ある警察署長は殉職した警察官の奮闘ぶりをこう語る。
〈死体の発掘処理をいたしました現場を見ましても(中略)必ず民衆の上におおいかぶさっています。待避壕(たいひごう)に入るにしても、入口におるのです。即ち最後に入っているのです。民衆を先にして、自分をあとにしたのです。そのため路上に倒れているのもあります。如何(いか)に最後まで頑張ったかということはわかるのです〉
務めを全うし、身をなげうって市民を守ろうとする気高さは今も昔も同じだ。戦時下の記事だからといって、全てをためにする美談として読むのは誤りだろう。ただ当時、法律で住民は空襲時に逃げることを禁じられ、消火活動の義務があった。その結果〈火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれた〉(東京大空襲・戦災資料センターのウェブサイト)という。強いられた〝逃げおくれ〟が大量の殉職を生んだと見ることもできる。
東京大空襲に続き、硫黄島守備隊の玉砕が3月21日に大本営発表され、4月1日には沖縄本島に米軍が上陸を開始した。「本土決戦」が叫ばれる一方、国民生活はいよいよ逼迫(ひっぱく)してきた。本誌6月3日号は挙げて食糧問題を特集している。終戦後に『毎日』主筆になる永戸政治(まさじ)は〈食糧問題の解決なくして勝利なし〉と訴えた。痩せ我慢が説かれたわずか半年後のことだ。
1945(昭和20)年・宮城事件 「玉音盤」を巡る放送人と陸相の覚悟
「終戦」がいつだったかという問いに答えるのは意外と難しい。昭和天皇が読み上げた終戦詔書がラジオで流れた1945(昭和20)年8月15日でもちろん正解だが、日本が連合国に対する降伏文書に調印した9月2日と見ることもできる。
もっとも、正式には同勅書が官報により公布され、同時にポツダム宣言の受諾が連合国に通告された8月14日午後11時とされる。そしてまた、歴史の歯車がずれていたら「8・15」は日本人にとって、ただお盆の一日だったかもしれない。
同年8月15日未明、ポツダム宣言の受諾、すなわち「無条件降伏」は受け入れられないとする陸軍将校らが、偽の命令書を使って近衛師団(皇居を守護する部隊)を動かし、皇居を占拠した。同10日、昭和天皇は御前会議で宣言受諾の「聖断」を下し、14日には重ねての聖断に併せ、国民に自ら敗戦を告げるラジオ放送のため、終戦詔書の録音を済ませていた。反乱将校らはこの録音盤の奪取を図った。「玉音」が電波に乗ってしまえば〝徹底抗戦〟はもはや無理だからだ。
〈暗闇から「その車止れッ!」と再び声がかかった。同時に下士官を先頭に兵八名が銃剣を突きつけて駆け寄った。「全員下車しろ」「録音盤を持っているだろう」「いや、持っていない……」「身体検査だッ」〉
14日深夜までかかった録音を終えた後、皇居を出ようとして捕まったのは、下村宏情報局総裁と大橋八郎会長をはじめとする放送局(NHK)の面々だった。
本誌46年8月11・18日合併号は敗戦1周年企画として、この「宮城(きゅうじょう)事件」(8・15事件などともいう)で緊迫する一夜を誌面上に再現した。筆を執るのは、39年の大相撲春場所、横綱双葉山の連勝が69で止まった一番の仕切り前、「今日まで69連勝。果たして70連勝なるか。七十は古希、古来まれなり」と実況し、名アナウンサーとして知られた和田信賢だ。45年8月15日正午からの玉音放送では進行役を務め、終戦詔書を復唱。国内外に戦争終結を知らせたのが和田である。
〈九日来放送局に缶詰にされ、一種の興奮と沈痛な敗戦感とで毎日ロクロク眠れなかった。十五日の暁方、午前四時半ごろである。会館の二階にある放送員室の入口から、サーベルの音と、軍靴のドカドカいう音が交錯し、怒号と喚声が聞えてきた。私は起き上った。「来たな!!」〉(一部改変)
皇居に保管されていた録音盤は探索を免れたが、一方で反乱将校らは東京・内幸町にあった放送局を乗っ取り、終戦反対の声明を全国放送させるよう、ピストルを片手に要求した。
〈二・二六事件以来、放送局員としては若(も)し原稿を放送せよと拳銃をつきつけられ強要されるような場合にはどうすべきかを平素から研究していたので、ようし放送を迫られたら、大もとのスイッチを切って放送してやれと覚悟を決めた〉と和田は書く。手記によるとちょうどその時、前夜から出ていた警戒警報が空襲警報に変わった。局員が〈空襲警報になると放送局からは電波が出ません。九段の東部軍の防空作戦室からでないと電波が出ない〉と言って切り抜けた、という。
ところで、国民への終戦の知らせは詔書が公布された14日夜に行われる可能性もあった。それを止めたのが最後まで戦争継続を主張した阿南惟幾(あなみこれちか)陸相だ。当時の鈴木貫太郎政権で内閣書記官長を務め、終戦詔書草案を作った迫水(さこみず)久常は阿南陸相が「最後のお願い」として述べた言葉を著書『大日本帝国最後の四か月』で記している。〈国内向けの発表は、夜が明けてからにしてほしい。もし、この詔書の内容を深夜に発表したら、国民全体はもとより、ことに軍の衝撃は大きくふくれあがり、不測の事故が発生しないとも限らない〉
阿南陸相は15日未明、割腹自殺を遂げた。一度始めた戦争は、それを終わらせるのにも血が流される。
1943(昭和18)年 「サンデー毎日」は「週刊毎日」に
〈本誌は次号から週刊毎日と改題いたします〉
本誌1943(昭和18)年1月31日号に載った告知である。22(大正11)年の創刊から掲げてきた「サンデー毎日」の看板を本誌は一度下ろした。『週刊誌五十年』で野村尚吾は〈敵性国語の使用を忌諱(きき)する当局の意向に従って、改題に踏切った〉と解説している。ちなみに、23年創刊の『エコノミスト』も「経済毎日」に改題した。
改題された2月7日号には「米英音盤の禁止」という記事が載る。〈情報局と内務省では、決戦下の文化、思想の面から米英的分子を撃滅する第一歩として、まづ音楽部門から米英色を一掃するため、ジャズ・レコードの発売と演奏を禁止することとなった〉
また同年4月4日号は、ラグビーを闘球、ゴルフを打球、ホッケーを杖球(じょうきゅう)などとするスポーツ界の敵性語排除を取り上げた。野球ではセーフを「よし」とした言い換えが有名だ。記事はまた打席途中での投手交代が禁じられたことも紹介。〈撃ちてし止まむの精神からすれば、そう容易に交代さすべきではない〉と記している。どこまで本気で書いているかは分からない。
題字が元の「サンデー毎日」に戻ったのは46(昭和21)年1月6日号である。
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など