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占領期、「国葬」が政治的論点となった貞明皇后逝去 社会学的皇室ウォッチング!/43=成城大教授・森暢平

大喪儀本番の5日前、馬車列の予行演習(護国寺前で1951年)。「予行」であっても多くの人が沿道を埋めた
大喪儀本番の5日前、馬車列の予行演習(護国寺前で1951年)。「予行」であっても多くの人が沿道を埋めた

 戦後日本で「国葬」が最初に議論になったのは1951(昭和26)年、貞明皇后(大正天皇の皇后、当時は皇太后)が亡くなったときである。戦前と異なり、国葬の一義的な主催者は政府(内閣)となる。日本国憲法下の最初の議論から、国葬は「政治」とは無縁ではなかった。

 貞明皇后が亡くなったのは51年5月17日午後3時半。66歳とまだ活躍する余地がある年齢だったが、突然の悲報であった。

 戦前、国葬令が存在した。天皇、皇后、皇太后が亡くなれば大喪(たいそう)儀となり、それは国葬であった。皇太后の葬儀(皇太后大喪儀)の喪主は天皇である。ところが、国葬令は敗戦後失効し、皇太后の葬儀について定めたものはなくなっていた。

『昭和天皇拝謁記』(以下、『拝謁記』)によると、田島道治(みちじ)宮内庁長官は5月17日夜、「占領治下の為(ため)国葬を望まぬ」という吉田茂首相の意向を知った。

 日付が変わり、5月18日午前1時半、大橋武夫法務総裁(現在の法相)、佐藤達夫法制意見長官の2人が田島を訪問した。2人は、国葬令が失効したため法制上の国葬なるものは存在しないと述べた。一方、「皇太后様の御身位はprivateのみとは申し難く、公的の面もありの事故(ゆえ)、宮廷費支弁でわるくない」と説明した。

 内閣予算での国葬にはしないが、皇室の私的予算(内廷費)扱いの私的な葬儀にもしない。皇室の公的予算である宮廷費から葬儀費を支弁する「皇室行事」とする折衷案を提案したのである。田島には不満の気持ちもあったが、内廷費の私的行事にならないことにはホッとした。日が明けた5月18日午前9時、田島から報告を受けた昭和天皇は「已(や)むを得ない」と述べた。10時40分、岡崎勝男官房長官が宮内庁を訪ねた。国葬にはしないものの、宮廷費扱いの準国葬的行事とする方針を正式に伝えた。

 この間、議論を主導したのは、天皇でも宮内庁でもなく、吉田官邸である。新憲法のもとで、天皇は国政に関する権能を持たない。国葬をするなら所管は内閣となり、天皇や宮内庁が注文を付ける権限はない。それが憲法の建て付けである。

亡くなる4年前の貞明皇后(1947年)。後方、馬車上に昭和天皇が見える。
亡くなる4年前の貞明皇后(1947年)。後方、馬車上に昭和天皇が見える。

吉田の「天皇利用」

 ところが、この日夕方になって不可解な動きが起こった。松井明首相秘書官が田島を訪ね、「内閣は国葬をお願いしたが、陛下の考えで国葬にしないことになったと説明したいので了解してほしい」という趣旨の官邸からの要請を伝えにきたのである(『拝謁記』5月18日条)。

 事実としては、昭和天皇は母への孝道の点で国葬でないのは十分でないかもしれないと考えていた。このため田島は、松井の要請を毅然(きぜん)として断る。一方で「吾国(わがくに)の国情に鑑み可成(なるべく)質素に行うやうとの御思召」があるとの説明までは容認した。吉田への配慮だった。

 吉田官邸が妙なことを言い出したのはなぜか。おそらく国会での議論を封じるためだ。吉田は論理的に詰めて結論を導いたわけではなく、政治的直観で動いた。だから国会で議論されたくない。さらに、その年の秋には、サンフランシスコでの講和会議も控えている。占領軍に忖度(そんたく)しているという批判も招きたくない。「とりあえず私的な葬儀(密葬)にして、独立回復後に国葬を実施しようとも考えたが、天皇が遠慮した」という言い訳、つまりは「天皇の御意向」を政治利用して、議論をしのごうとしたのである。これに対し、昭和天皇は「国葬を政府がするとの申出を私が及ばぬといへる筋合のものではない」と田島に述べた(『拝謁記』5月18日条)。憲法上の天皇の立場を踏まえたまっとうな意見である。

 このとき、衆院の野党第1党だった国民民主党は国葬法案を出す動きまで見せ、与党である吉田・自由党も、野党が法案を提出するならと別案で対抗しようとした(『拝謁記』5月23日条)。吉田を牽制(けんせい)したい野党、野党に先を越されたくない与党が、国葬法案を競い始めたのである。戦後の国葬議論ははじめから政治の渦中に巻き込まれた。

 しかし、国葬法案作成への動きは尻すぼみに終わる。おそらく、「誰を対象に国葬を行うか」を定めるのが困難だったからであろう

 戦後憲法のもとでの国葬を考えた場合、「誰を対象に」の問題を論理的に詰める必要がある。戦前、これは明確であった。皇族および「国家に偉功ある者」が対象である。後者の国葬は、勲功者に対し、天皇が「賜(たま)う」(与える)ものであった。島津久光、三条実美、毛利元徳(もとのり)、島津忠義、伊藤博文、大山巌、山県有朋、松方正義、東郷平八郎、西園寺公望、山本五十六……。戦前の国葬は、明治維新の勲臣、元老、名将を、政治から超越した立場にある天皇が選び、国葬という名誉を与えるものだった。

 しかし戦後、天皇は象徴となった。内閣の決定に従うべき存在であり、国の行事である国葬を主催するわけにはいかない。「対象」を選択する主体が、天皇ではなく内閣になれば、その決定は必然的に「政治」となる。戦前と同様、「国家に偉功ある者」と定めたとしても、政党政治のなかで、「政治」という文脈を離れて選ぶことは困難である。

内閣の思いつき

 皮肉なことに、貞明皇后の逝去から16年後(1967年)に吉田が亡くなったとき、戦後初の「国葬」が行われた。ワンマン吉田の国葬に、野党社会党は国費支弁の側面から反対した。

 衆議院決算委員会(68年5月9日)で、社会党の田中武夫議員は「なるほどこの人ならば(国葬を)やるべきである、こう思う人に(国葬を)やるべきであって、(略)基準がなく、言うならば、そのときの内閣の思いつきによってやられるということには賛成しかねる」と指摘した。

 これに対し、水田三喜男蔵相は、「国葬儀につきましては、御承知のように法令の根拠はございません。(略)私はやはり何らかの基準というものをつくっておく必要があると考えています」と答えた。このときの「基準づくり」も答弁だけに終わっている。「全国民」が死を悼む国家イベントが国葬である。安倍晋三元首相の国葬には賛否が拮抗(きっこう)する。そうしたなかで実施される国葬にはやはり、違和感を覚えざるを得ない。

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日8月21・28日合併号」表紙
「サンデー毎日8月21・28日合併号」表紙

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