週刊エコノミスト Online サンデー毎日
実弟に泣いた「昭和の歌姫」 「一卵性母娘」が貫いた意地 1973(昭和48)年・美空ひばり〝紅白落選〟
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/28
1973(昭和48)年暮れ、それまで10年連続で紅組のトリを取ってきた昭和歌謡の女王こと美空ひばりが「紅白歌合戦」に〝落選〟した。実弟が暴力団絡みの事件を起こしたことが影響した。以来、ひばりはNHK出演を拒否。長年にわたる両者の冷戦が勃発した。
〈ひばりさんは、絶対に前歌さん(前座の歌手)を使わない。スターになってから〝あいつはひばりの前歌だった〟といわれるのが気の毒だというわけです〉
本誌『サンデー毎日』73年2月18日号で、レコード会社のディレクターが美空ひばりをそう評している。天才少女と称される半面、「笠置シヅ子の物まね」と見下されもした中を〝女王〟の座にのし上がったひばりの負けん気がうかがえる挿話だ。そして同ディレクターはこう続ける。〈だから衣装の着替えや、つなぎにどうしても(前座役として)弟が必要なんですよ〉
「弟」とはひばりの実弟、かとう哲也だ。57年に歌手デビューし、ひばり主演の舞台や映画に出ていたが、賭博や銃砲所持などで何度も検挙。山口組系暴力団の舎弟頭を名乗ったことが問題となり、73年初頭から全国の公会堂や市民会館で、かとうとの共演をやめない限り「ひばりショー」をボイコットする、という動きが起きたのだ。それでもひばりは弟をかばい続けた。
ひばり自身、山口組3代目の田岡一雄組長を「田岡のおじさん」と呼ぶなど、暴力団との因縁はよく知られる。本誌同号は64年6月、小林旭との離婚発表の記者会見を仕切る田岡組長の写真を載せ、〈かつて地方興行の折りには、多くの芸能人が、ヤクザのお世話になったはずだ〉と興行界全体の〝体質〟として指摘した。
その矛盾が一点で噴き出したのが73年暮れだ。NHK「紅白歌合戦」の出場者リストから美空ひばりの名が消えた。17回出場は当時最多、63年からは紅組トリを一度も譲っていない。本誌12月9日号は〈やはりかとう哲也君のことと、結びつけられたとしか考えられません〉というレコード会社幹部の声を拾っている。
NHK本部長との〝直接対決〟も
同号記事には、出場者を選ぶ準備小委員会(歌番組のチーフプロデューサーで構成)はひばりを推したが、識者らで作る「ご意見を伺う会」から否定的な意見が出た、とある。当時の小幡泰正・実施本部長は〈国民感情を尊重せざるをえない(中略)。NHKの姿勢としては、入れよう、出そうということで固まっていた〉と釈明。一方、ルポライターの竹中労氏はこう断言した。〈〝世論の支持〟というが「世論」こそはデモクラチック・ファシズムのかくれみのである。すべてはお膳立てされていたのである。NHKは初めからひばりを出す気はなかった〉
73年の紅白は郷ひろみが「男の子女の子」で、森昌子が「せんせい」で初出場するなど10代の活躍が目立った半面、視聴率は72年の80・6%から75・8%へ下落(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。ひばり落選の影響は定かでないが、「町ぐるみで紅白を見ない運動」をやる、という抗議電話があったと同号は伝える。
紅白落選を境にNHK出演を拒否したひばり側と、同局の対話を取り持ったのが本誌だ。74年6月2日号は前出・小幡氏と、ひばりとは〝一卵性母娘〟と呼ばれ、マネジャー役でもあった母親の加藤喜美枝さんとの「大激論3時間」を掲載した。〈歌謡番組は、年間五、六百本出してるが、それのひとつの特集番組として(紅白は)始まったんです。もっと気楽に考えてほしいな〉と話す小幡氏に対し、喜美枝さんはファンの心を無視してNHKがバッシングに便乗したとして、こう反論した。〈やっぱり人間には意地ってもの、根性ってもの、プライド傷つけられた、それは一朝一夕に消えるものじゃないです〉
ひばりは79年、第30回の記念大会に藤山一郎と共に特別出演したが、89年に死去するまで「紅白は卒業した」という筋を曲げなかった。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など