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定員割れ学部が続出の京大 10万人「門前払い」の大混乱 1987(昭和62)年・東大、京大「ダブル合格」
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/52
総合型や学校推薦型など大学入試の選抜方法が多様化しても、春の風景はいつもほろ苦い。だが、そんな感傷どころではない年があった。東大・京大「ダブル合格」を可能にした一方、大量の受験生が門前払いされた1987(昭和62)年度入試の大混乱を振り返る。
〈東大が巨人で、京大が阪神ということですわ。やっぱり阪神は巨人に弱い。それが今年は具体的に証明されたわけですよ〉
本誌『サンデー毎日』87年4月12日号の記事で、関西の予備校幹部は自虐めいた口調でそう話す。プロ野球〝伝統の一戦〟といっても力の差があるように、旧帝大ツートップの序列が可視化されたということだ。
国立大入試は同年度から共通1次試験(後のセンター試験、共通テスト)を経て、AとBの日程グループに分けられた大学を続けて受ける仕組み(連続方式)に変わった。現在の分離・分割方式と違い、AグループとBグループの受験結果をそれぞれ見届けた上で、入学手続きができる。そのためAグループの京大とBグループの東大に「ダブル合格」を果たした受験生が約1500人に達し、約1300人が京大を蹴って東大に進学したとされる。
中でも面目丸潰れなのが京大の看板といえる理学部だ。本誌同号によると、合格者465人のうち東大とのダブル合格は318人。入学辞退した受験生は過半数の235人に上り、〈大半は東大理Ⅰ、理Ⅱ、理Ⅲ、各大学の医学部、または医科大に流れた、というのが予備校関係者の一致した見方である〉という。
京大は全学の定員約2700人に対し、約4100人を合格させた。50%を超す〝水増し〟だ。この対策のため担当者が大手予備校を回ってデータを収集。さらに〈共通一次が終わった後、東大と情報交換したんです。共通一次の時の志望状況や得点分布、居住地などを見ながら具体的に(水増し率を)詰めた〉という京大関係者の声を記事は拾うが、それでも9学部中5学部が定員割れした。前出の予備校幹部はこう話す。
〈京大の場合、文系では文学部、理系では理学部をそれぞれ第一志望にして、東大を第二志望にする生徒がかなりいたわけです。それが実際にダブル合格してしまうと、親とか親せきがいろいろ言うでしょ。(中略)東大中心の学歴主義はまだまだ根強いですから〉
「機会の複数化」は机上の空論に
AとBのグループ分けは当時使われた表現によれば「箱根山を境に東の旧帝大をB、西の旧帝大をAにする」と決め、他大学はそれを眺め回して日程を選ぶ大ざっぱな方法だった。本誌6月21日号は各大学のダブル合格者の動向を追った。例えば東大・文Ⅰと大阪大・法に合格した18人のうち阪大入学者はゼロ。一方、大阪大・法と広島大・法のダブル合格者で広島大に進んだのは2割に過ぎない。
連続方式は大学間格差を増幅したとも言えるが、もともとは「受験機会の複数化」がうたい文句だった。ところがそれ自体、机上の空論だった。志願者数の激増に対し、大学側は共通1次試験の点数で受験者を絞り込む2段階選抜を実施。その結果、59国公立大に志願した延べ約9万9600人が門前払いされ、中にはA、B日程とも受けられず受験を終えた人もいた。
そしてダブル合格を果たした受験生も表情は必ずしも明るくない。東北大と大阪大に受かった男性がこう話す。〈たまたま二校とも合格したけど、この混乱で志望を下げたからこうなっただけ。もし昨年通り一校受験なら別の大学を受けていただろうし、そう思うと心残りだ〉(4月12日号)
混乱の背景には、共通1次の自己採点を基に受験校を決める前年までの方法から事前出願制に変えたことがある。〈偏差値による輪切り傾向が強く、個性ある学生が集まりにくい、というのが大学側の改革の狙いだった〉と3月22日号は伝えるが、今に続くその難問を解けぬまま連続方式は96年度(国立大)で廃止された。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など