週刊エコノミスト Online サンデー毎日
日本人唯一の乗客を襲った理不尽な非難と名誉の回復 1980(昭和55)年・タイタニック号「遭難手記」
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/50
今から111年前、「不沈」と称された世界最大の豪華客船タイタニック号が氷山と衝突し、北大西洋に消えた。船体の探索作戦が行われた1980年代、本誌はただ一人の日本人として乗船し、生還後にいわれなき非難にさらされた男性の「遭難手記」を掲載した。
〈夢現(ゆめうつつ)ノ時船ガ何カニ突キ当リタル心地セルモ別段気ニ止メズ、間モナク船停止ス。オカシキト思ヒナガラ大事件ノ発生セルトハ、思ハズ平気ニ眠リシニ……〉
便箋の表裏をびっしりと埋めた文字は1912(明治45)年4月14日深夜に起きた「大事件」こと、初航海中のタイタニック号が、カナダ沖で氷山と衝突した時のありさまをそう記す。
手記の主は鉄道院官僚だった細野正文氏(当時41歳)だ。ロシアでの研究勤務を終えて帰国するため、唯一の日本人として乗船していた。夜の海を救命ボートで漂流し、やっと拾い上げられた船上で書かれただけに筆遣いは生々しい。〈四時頃東ノ方白ミ四面見ユルト共ニ種々ノ物品ノ浮ベル様ヨク見ヘ更ニ凄キ心地ヲ催セルガ、此時マデモ叫ベル人声ハ漸(ようや)ク消ヘテ聞ヘザルハ恐ラク寒気ノ為ニ弱リテ水底ニ沈ミ行キシナラン〉
タイタニック号沈没事故では約2200人の乗客・乗員のうち約1500人が犠牲になった。本誌『サンデー毎日』80(昭和55)年9月14日号は「大特集タイタニック号」と題する記事を組み、手記原文を一挙掲載した。折しも映画「レイズ・ザ・タイタニック」の日本公開が控え、同年7月には米コロンビア大の専門家らが加わるチームが音波探知機で沈没海域の捜索を試みている(実際の船体発見は85年9月、海洋学者ロバート・バラード博士による)。当時の〝ブーム〟を意識した誌面作りだろう。
もっとも手記掲載にはそれ以上の意味があった。というのも、細野氏には死後も長らく〝ひきょう者〟のレッテルが貼られていた。女性と子どもが優先された救命ボートに無理やり乗った――生還した細野氏を激しい非難が迎えた。本誌同号によると〈大正初めに出版された女学校用の修身の教科書に〈女、子供が先というのに男のくせに助かった。日本人の恥さらしだ〉という趣旨のことが書かれた〉という。女を装ってボートに潜り込んだ日本人がいたとの風聞も伝わった。
死後3年書斎で眠っていた手記
だが、細野氏はデッキ上での出来事を詳しく記していた。〈生命モ本日ニテ終ルコトト覚悟シ別ニアワテズ、日本人ノ恥ニナルマジキト心掛ケツツ尚機会ヲ待チツツアリ。(中略)ボートニハ婦人連ヲ最先ニ乗ス。其数多キ故右舷ノボート四隻ハ婦人丈ニテ満員ノ形ナリ。其間男子モ乗ラントアセルモノ多数ナリシモ、船員之ヲ拒ミ短銃ヲ擬(ぎ)ス〉
ピストルで脅される〝紳士〟たちをよそに細野氏はむしろ強く自制している。そもそも救命ボートの数が圧倒的に足りない中、建前論では語れない命の選別を目にしたに違いない。そしてたまたま一隻のボートが舷側を下降する時、「ツー・モア(あと2人乗れる)」との声に意を決して飛び移り、九死に一生を得る。
手記をもとに名誉回復に奔走したのが、中央大教授などを務めた次男の細野日出男氏だ。記事は「脱出した父は卑怯(ひきょう)ではなかった」と題し、日出男氏の〈父のとった行動は〝日本人ノ恥ニナルマジキ〟という覚悟を決して裏切ったものではない、と確信しています〉という談話を載せている。
汚名がすすがれたのは97年、映画「タイタニック」公開を機に、乗客の遺品管理などを担っていた米財団が来日調査し、遭難手記を〝再発見〟したことによる。
細野氏は生前、バッシングにあえて反論をしなかった。〈家族はそれを気にしたが、「俺が今ここにこうして生きているんだから、いいじゃないか」と笑ってとり合わなかった、という〉と本誌記事は伝える。手記は一度夫人の目に触れたきり、細野氏の死去(39年)の3年後に見つかるまで、書斎の奥で眠っていた。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など