週刊エコノミスト Online

追悼「影の総理」石原信雄元官房副長官 〝ミスター官僚〟の危機管理への遺言 ジャーナリスト・鈴木哲夫

石原信雄・元内閣官房副長官(2001年撮影)
石原信雄・元内閣官房副長官(2001年撮影)

「官僚トップ」と言われる内閣官房副長官として7政権に仕えた石原信雄さんが1月死去した。享年96。危機管理のエキスパートとも知られた「ミスター官僚」。親交のあった本誌連載陣の一人によるレクイエムであり、危機管理のために委ねられたであろう故人の「遺言」を記す。

「今までになかった危機管理の組織を作りたい。『クライシスマネジメント協議会』に参加してほしい」

 2010年、旧知の元経団連職員の長田逸平氏が私に言ってきた。当時BS11の報道局長だったが、聞くと画期的なものだった。

 自然災害の多い日本の危機管理は、政府や地方自治体だけでは限界がある。官民挙げて対応すべき時期に来たが、行政が音頭を取るわけでもない。1995年の阪神・淡路大震災、その後も新潟県中越地震や豪雨災害で多くの犠牲が出ていた。

 協議会は危機管理を政治・行政だけで考えるのではなく有識者、消防や自衛隊、マスコミ、そして経済界も加わって構築していくという。そして、防災はビジネスと位置づけて財界に積極参加を促し、学んだことを新規事業や商品開発につなげる狙いもあった。

 私も新たな防災番組の開拓やネットワーク作りにつながると考え、理事として参加した。並んだ役員の肩書を見れば、いかに広く参加したかが分かる。一度ホームページを見てほしい。

 協議会は10年9月に発足した。そして、初代会長は長田氏が必死で口説いた石原信雄さんだった。

「組織をまとめられるのは石原さんしかいない。危機管理の経験で右に出る者はいない」(長田氏)

 石原さんは1926年群馬県生まれ。東大法学部卒業後、地方自治庁(現総務省)に入庁。84年に自治事務次官となるが、存在感を増したのは、その後だ。

 87年の竹下登内閣で官房副長官に登用されて以来、村山富市内閣の95年まで、実に7人の首相の下で官房副長官を務めたのだ。しかも、後半は自民党が初めて下野して誕生した細川護熙政権や、再び自民党も加わった自社さ政権と、保革が入れ替わって理念も政策も色合いが激変した。だが、首相たちは一貫して石原さんを官房副長官に指名した。何より危機管理で手腕を発揮してきた実績を買われ、異例の任期となった。「影の総理」との異名もあった。95年2月で退官したが、長田氏の協議会構想に賛同して会長職を受けていた。

阪神・淡路大震災での神戸市長田区の火災の様子
阪神・淡路大震災での神戸市長田区の火災の様子

「現地にもう一つの政府を作る」

 名前は聞いていたが、一対一での取材はなかった。協議会が発足すると、会合などで度々顔を合わせるようになる。そこで、私がキャスターをしていた番組で、危機管理について石原さんから「ぜひ話を聞きたい」となり、出演が実現した。

 そこでは特に退官直前に起きた阪神・淡路について、当時の官邸や政府の秘話を明かしてくれた。一つ一つに驚くと同時に、これこそ語り継ぎ、教訓や参考にすべき政治・行政の「危機管理の本質」と痛感した。

――私も現地で取材していた。政府の初動は遅かった。当時の村山首相が危機管理に未熟だったことなどが被害を大きくした。

石原「あの時は、初動体制は非常に遅れました。まだ世の中が朝早くて動いていないし、現地から正確な情報がなかなか入ってこなかった。批判が相当ありました。その遅れをどうやったかというと、まず内閣として指揮命令系統を単純化したんです。県や省庁間であらゆることが即ストレートに伝わるようにしました」

 驚くべきことに当時、阪神・淡路のような大災害に対し、政府や国の機関が直接被災地の状況を把握する機能もシステムも整備されていなかった。村山首相は偶然見ていたテレビニュースで知ったというお粗末さ。自衛隊への災害派遣要請も当時、可能なのは都道府県知事のみで大幅に遅れた。

石原「遅れに対してどうすべきか。現場第一主義を徹底しようと村山総理と決めました。そして、小里(貞利衆院議員、自民党)さんを担当相に任命し、現地に行ってやってもらったんですが、その時に重要なことがありました。村山総理が小里さんに『あなたが現地に行って必要と考えたものはどんどんやってください。内閣が全責任を負います。財政がどうとか、法律がどうとか全く考えなくていい。現地で現地の人たちの話を聞いて即断即決でやってください。責任は全て私が取ります』と言って送り出した。村山総理は初動で『どうしていいか分からない』的な失言もあり、批判されましたが、ある意味、自分の非力さを素直に認める勇気があった。だからこそ、その後に強さと覚悟が出てきた。『全て責任は取る』とはなかなか言えません。責任とは、つまり首相の座などに恋々としていないということ。村山さんはそう言って送り出した」

 現地は避難所の確保や物資が届かないこと、寒さ、医療体制、消防隊や自衛隊の応援、避難住民の心の問題……予期せぬことが噴出した。対応に必要なのは従来のルールに縛られず、現場が必要なものを最優先で手当てしていくことだった。

石原「有事の際のリーダーとして正しかったと思います。だから、小里さんは自信を持って知事や市町村長らの現地の声を聞き、すぐにいろんなことを上げ、必要なことを実現させていきました。加えて、私がやったことは、小里さんが現地に行く時に各省庁の実力者を傍らに付けたんです。現地で即断即決できる態勢を役所(霞が関の省庁)側からも人を出して一緒に作ったんですね。災害現場にもう一つの政府を作ったということ。そこが、現場が、必要なものを決める。救済も復旧もそれが一番早くいく。政府主導とか官邸主導ではダメ。リーダーは勘違いしてはいけない」

 正に危機時のリーダーのあるべき一つの姿だった。

石原「村山総理は小里担当相にだけではなく、全ての閣僚に持ち場持ち場の権限を与えました。『現場で今、何が必要か考えてどんどんやってくれ。責任は私が負う。心配するな』と。そうやって、何が起きたかというと、内閣が本当に一体になりました。各閣僚が逆に責任感を強く持って一生懸命考えて仕事をしました。そこに、官僚たちも動かしてしっかり付ける。それが私の役目でした」

 実は、この年の4月には東京都知事選が控えており、石原さんは与野党推薦の「オール与党」で出馬を準備していた。本来なら年明け早々にも退官し、選挙準備に入るはずだった。だが、阪神・淡路が起きた。当時の自民党都連幹部は「危機管理に心血を注いできたのに『選挙のために投げ出すなんて考えられない』と石原さんは我々に伝えてきた。そのため退官や出馬表明はギリギリになってしまった」と語っていた。

 選挙運動は間に合わず、名前も有権者に浸透せず、都知事選は青島幸男氏に完敗した。先の幹部は「各党から石原さんの身の振り方に批判も多かった。私は『たとえ選挙に不利になっても(災害対応を優先)』という官僚の矜持(きょうじ)を感じた」と話していた。

石原さんは東日本大震災でもアドバイスを求められていた
石原さんは東日本大震災でもアドバイスを求められていた

「官邸は被災自治体の『補足』を」

 クライシスマネジメント協議会が発足した翌年の2011年の3月11日に東日本大震災が起きた。もう私は石原さんと災害のたびに一対一で取材するようになっており、いの一番に取材した。実は、発生から2週間後、当時の民主党政権・菅直人首相が石原さんを官邸に呼び、アドバイスを求めていたのだ。

石原「阪神・淡路の経験に基づき、これからどうしていけばいいかと。私が官邸の後輩たちに聞いたところ、今回は指揮命令系統が複雑で、場合によっては同じ内容の指示がバッティングしたり、非常にちぐはぐになっていました。そこは、私も強く総理に申し上げました。阪神・淡路の時は初めからすっきりした組織を意識して作ったと」

 津波被害だけではなく、原発事故も起きた。「いっそのこと、中央に専従の所管する組織が必要ではないか。危機管理庁や復興庁のようなものを」(当時の民主党政調幹部)といった声も出てきた。石原さんはきっぱり否定した。

石原「例えば関東大震災の時に帝都復興院ができました。総裁は内務大臣の後藤新平。当時は中央集権時代で内務省全盛期。でも時代が根本的に違う。東京で大震災があれば都知事が第一責任者としてやる。岩手だって宮城だって福島だってみんな同じこと。今は地域主権の時代なんです。地方のことは地方に任せ、国はバックアップに徹する。有事の際はそのほうが、被災者の痛いところにこまやかに手が回り、復旧は進む」

 どうすべきだったか。

石原「私は官邸がやるべきことは、被災地の県や市町村を『補足』するということだと思います。例えば国家公務員もどんどん派遣する。とにかく自治体の県を強くする。そして(阪神・淡路の)小里さんのように権限を持った責任者も(政府は)現地に送り込むべきだったのに、それをやりませんでした。被災地は相当不安だったと思いますよ」

 菅首相は官邸中心に体制を増強していった。民主党議員らを次々と補佐官に任命して対応させた。広範囲かつ多種多様な問題に緊急の対応が迫られる中、責任者を増やすことは分からなくもない。しかし、石原さんはこの補佐官体制もキッパリと否定した。

石原「総理を正に補佐する役目ですが、私は有事の時には、補佐官は意思決定には一切関わらない、危機対応の時はラインには入らないことを徹底しました。決めるのは総理、各大臣、次官、局長。官邸に人が多く集まり過ぎてはダメ。一般の政策なら、それでもいいでしょう。しかし、非常事態は官邸の意思決定部門が少人数で決めるべきです。今、死にかかっている人がいる。そんな時はシンプルに決めてシンプルにやる。それが危機管理です」

 官僚の立場から、危機管理のあるべき体制は。

石原「私は政治主導を否定しません。官僚組織は政治が決めたことを待ち、動けばいいというのは正しいと思います。でも危機への対応は違う。待っていてはダメ。私が阪神・淡路の時、差し出がましくも村山総理に詰め寄り、『現地にもう一つ政府を作ろう』『官僚を付けますよ』『じゃあ、政治家は誰ですか』と。そうやって政治家と官僚が一体になって動かなければならない。極端に言えば、官僚は指示待ちなんてせず、勝手に動けばいい。政治主導と危機管理対応をごちゃごちゃにしないよう、官邸も官僚もぜひ過去の大災害から学習してほしい」

1986年11月15日に噴火した伊豆大島の三原山。同22日までに島民と観光客の約1万3000人が離島した
1986年11月15日に噴火した伊豆大島の三原山。同22日までに島民と観光客の約1万3000人が離島した

「一気に広げ徐々に狭めていけ」

 石原さんが危機管理の第一人者として尊敬していたのが政治家・後藤田正晴氏だった。後藤田氏は内務省出身。危機管理のエキスパートでもあり「カミソリ後藤田」と称された。石原さんは後藤田自治相時代に仕えて以来の関係なのだが、石原さんは私と懇談している時にこう話してくれた。

石原「危機管理という点では後藤田さんは迷いませんでしたね。三原山の噴火(1986年、後藤田官房長官)の時には全島避難をいち早く決めました。住民に『今すぐ島を捨てろ』ということですが、責任は全て自分が取るから『やれ』という決断でした」

 東日本大震災では福島の原発事故に直面した。これについても「後藤田さんだったら」と聞くと……。

石原「福島原発で官邸は小刻みに避難区域を広げていきましたが、後藤田さんが常々言っていたのは『災害の危機管理はまず一気に最大限広げて避難させ、それから徐々に狭めていけ』と。それから原発は長年国がやってきた。後藤田さんは『国の仕事を常に明確にしろ』と言っていました。もし、後藤田さんなら『原発は国がやってきたこと。事故対応は当然国がやる。東京電力などという一民間企業の責任じゃない』と言って、全面的に国が出て(対応に)当たったはずです」

 阪神・淡路の時も後藤田氏は官邸に村山首相や石原さんを訪ね、「地震そのものは、人間はどうしようもできない。そこから先のことは全て政治の人災だ」「やれることは何でもやれ」と檄(げき)を飛ばしに来た。

石原「後藤田さんのような形で政権を支える政治家がいない。後藤田さんは行政や官僚の仕組みが完全に頭に入っていたから、どのボタンを押せば役所がどう動くかが分かっていました。今、災害だけでなく安全保障や経済など全て国難。官僚を動かせばいいんです」

 石原信雄さん――危機管理のエキスパートがまた一人、この世を去った。だが、私に説いた数々の「遺言」は今なお貴重な教訓だ。

 すずき・てつお

 1958年生まれ。ジャーナリスト。テレビ西日本、フジテレビ政治部、日本BS放送報道局長などを経てフリー。豊富な政治家人脈で永田町の舞台裏を描く。テレビ・ラジオのコメンテーターとしても活躍。近著『戦争を知っている最後の政治家 中曽根康弘の言葉』『石破茂の「頭の中」』

「サンデー毎日3月5日増大号」表紙
「サンデー毎日3月5日増大号」表紙

 2月21日発売の「サンデー毎日3月5日増大号」には、ほかにも「『ニッポン防衛』5つの疑問 岸田首相は歴史に学ばなければならない 石破茂が説く『国防の心得』」「2023年入試速報・第1弾 東大『推薦』京大『特色入試』合格者出身高校一覧 大学合格者高校別ランキング」「防犯連続企画『家を守る』上 あなたの家は大丈夫? 強盗に狙われない自宅改造!」などの記事も掲載しています。

インタビュー

週刊エコノミスト最新号のご案内

週刊エコノミスト最新号

4月30日・5月7日合併号

崖っぷち中国14 今年は3%成長も。コロナ失政と産業高度化に失敗した習近平■柯隆17 米中スマホ競争 アップル販売24%減 ファーウェイがシェア逆転■高口康太18 習近平体制 「経済司令塔」不在の危うさ 側近は忖度と忠誠合戦に終始■斎藤尚登20 国潮熱 コスメやスマホの国産品販売増 排外主義を強め「 [目次を見る]

デジタル紙面ビューアーで読む

おすすめ情報

編集部からのおすすめ

最新の注目記事