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「窓開け事件」の真実 63年前の皇室とメディア 社会学的皇室ウォッチング!/63 成城大教授・森暢平

天皇陛下(当時は浩宮)をカメラマンに撮影させるさせるために自動車の窓を開けた美智子さま(1960年3月12日)
天皇陛下(当時は浩宮)をカメラマンに撮影させるさせるために自動車の窓を開けた美智子さま(1960年3月12日)

 現在の天皇陛下が生まれた63年前、皇室とマスメディアは、持ちつ持たれつの蜜月関係にあった。それが分かるのが、美智子妃(現在は上皇后)が退院するとき、赤ちゃんであった天皇陛下を撮影させるために自動車の窓を開けたエピソードである。

 美智子妃の出産予定日は1960(昭和35)年3月2日と発表されていた。前年の御成婚ブームから日が浅く、美智子妃の初産は注目された。男子ならば皇位継承第2位の将来の天皇である。

 皇室を取材する新聞、通信、テレビ、ラジオの記者が加盟する「宮内記者会」は60年1月、「皇孫御誕生に関する取材要望書」を宮内庁に提出した。着帯式から命名までさまざまな要望が列記される。そのひとつ「入院まで」の項目には、「変調があり、病院の準備を進めるとき、あるいは入院と決まったときは、直ちにクラブ(宮内記者会)へ連絡すること」とあった。

 重要な点は、誕生後、生まれた時間、性別、身長、体重を宮内庁が「速やかに発表する」ことが、記者会との間で合意された事実である。庁内手続きとして宮内庁はまず天皇、皇太子に誕生を伝える。発表はそれからである。天皇がテレビで誕生を知るというわけにはいかないためであった。しかし、それでは発表までタイムラグが生じてしまう。そのため、庁内手続きが済み次第「速やかに発表する」ことを宮内庁に約束させた。これはさらに、同業者間の抜け駆けを防止する効果を狙っている。この「報道協定」によって、発表前に誕生をスクープすることはできなくなった。

 宮内庁はまた、皇居内にある奉仕者用の蓮池休所を報道陣に提供し、出産予定日前から記者、カメラマンが寝泊まりすることを認めた。休所には暖房器具も入れた。皇孫誕生は宮内庁にとっても喜ばしいニュースであり、大きく報道してほしい。だから可能な限りの便宜供与に努めたのである。

 カメラ取材については、写真記者協会、ニュース映画協会がそれぞれ1月19日と21日に要望を出している。入院のため渋谷区常磐松町にあった東宮仮御所から出る場面、宮内庁病院に入る場面、入院中の散歩、退院の場面などにつき撮影要望が出された。カメラマンたちは要望を出す代わりに、東宮仮御所から宮内庁病院まで美智子妃の車を追わないと約束した。整然と取材するので、撮影機会はきちんと確保してほしいというバーター要求だった。

 深夜の緊急入院

 美智子妃は1月12日早朝、切迫早産の兆候があり、予定にはなかった東大病院への入院が検討される。まだ妊娠8カ月で、低体重出生児(当時は未熟児と呼ばれた)としての誕生となる危険があった。緊迫した場面である。だが、当時、早産予防によく使われていた黄体ホルモン注射によって危機を逃れた。その後、美智子妃の容体は安定に向かう。

 2月22日午後、主治医である東大産婦人科医長の小林隆教授が記者会見し、3月2日とされていた予定日は実は3月1日だと訂正し、出産はその前後になると明言した。60年は閏(うるう)年で2月は29日まであったため、計算を間違っていたのだという。小林教授はさらに「今日明日(の出産)ということはない」と断言した。記者らは張りつめていた気持ちをやや緩めたと思われる。

 余談となるが、もしも天皇陛下が2月29日に生まれていたら、令和の天皇誕生日設定は複雑になっていたであろう。

 話をもとに戻す。小林教授がすぐの出産はないと断定したまさにその日の午後11時20分ごろ、美智子妃は産気づいた。連絡を受けた小林教授が東宮仮御所に到着したのは2月23日午前0時5分。深夜の入院が決まり、美智子妃が東宮仮御所を出たのは午前1時30分。宮内庁病院到着は午前1時50分であった。

 深夜の急変で宮内庁総務課職員の登庁も遅れ、報道各社への連絡も、美智子妃が病院に到着した後になってしまった。そのため、東宮仮御所出門と皇居乾門の入門写真はほとんどの社が撮影できなかった。

 宮内庁病院に入ってからもドラマがあった。緊急入院から出産まで14時間が費やされるのである。新宮誕生は2月23日午後4時15分だった。身長47㌢、体重2540㌘。発表は「速やかに」のはずが、23分後の午後4時38分と遅れた。この21年前、清宮(すがのみや)(現在の島津貴子さん)のときは誕生後11分後の発表だった。タイムラグは戦前よりも長かった。病院と宮内庁総務課の間の電話接続にまごついたらしい。緊急入院時の連絡遅れに加え、宮内庁は記者会に二つめの「借り」を作ってしまったのである。

 美智子妃いじめ言説

 美智子妃、そして浩宮徳仁(なるひと)と名付けられた新宮は誕生から19日目の3月12日に退院する。美智子妃から撮影は良いが新宮は産まれたばかりだから、フラッシュはたかないでほしいという要望が出た。当時のフラッシュはマグネシウムが使われ、光の衝撃が今より大きい。宮内記者会と写真協会は、それならば一時的に車を止め、窓を開けることによって時間を掛けて撮影させてほしいと逆提案する。宮内庁とメディアはその線で折り合った。こうした経緯で撮影されたのが右㌻にある写真であった。

 だが、この写真は「『新宮を寒風にさらした』と美智子妃が宮中内外で批判された」という風説となって世間に流布する。隣に写り込む牧野純子(すみこ)女官長の目線がカメラマンを睨(にら)んでいるように見えたため「窓を開けてはいけない」と言った牧野女官長を無視して美智子妃が車を止めさせたとも語られた。

 しかし、これは宮中での美智子妃の苦難をことさらに強調する「美智子妃いじめ言説」であり、虚構である。この言説はさまざまな媒体で繰り返し語られ本誌も無関係ではない。2018年7月1日号の工藤美代子氏の論考「勁(つよ)き声 美智子さまとその時代」で、女官長の注意を美智子妃が無視したかのように書いている。

 宮内庁への要望に退院時の新宮の撮影の項目があり、宮内庁はメディアに二つの「借り」があったため、美智子妃が報道各社に義理を果たしたとも言えるのである。皇室とメディアの関係は今よりずっと良好だった。

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日3月5日増大号」表紙
「サンデー毎日3月5日増大号」表紙

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