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実は明治時代にもあった皇室の婚姻スキャンダル 社会学的皇室ウォッチング!/62 成城大教授・森暢平

青年伯爵藤堂高紹と北白川宮武子の婚約問題を報じる『東京二六新聞』
青年伯爵藤堂高紹と北白川宮武子の婚約問題を報じる『東京二六新聞』

 ちょうど5年前の2018年1月25日、『週刊文春』『週刊新潮』が、秋篠宮家の長女眞子さんと婚約が内定していた小室圭さんの母の金銭問題を報じる。12日後、眞子さんと圭さんの婚約は延期され「眞子さま問題」の喧騒(けんそう)が始まった。前代未聞の出来事のように受け止められるが、女性皇族の婚約相手のスキャンダルは、実は明治時代にも存在した。1908(明治41)年に発覚した北白川宮武子女王の婚約者藤堂高紹(とうどうたかつぐ)の「重婚問題」である。

 北白川宮能久(よしひさ)親王の三女武子は当時18歳で学習院女学部専修科(国文科)の3年生。成績優秀と評判だった。その婚約相手が高紹だ。藤堂家は旧伊勢国(現在は主に三重県)津藩の藩主家。高紹は5歳のとき、父を亡くし若き当主となった。

 学習院中等学科4年を修了後、1904年から英国ケンブリッジ市にあるリーズ・スクールに留学。24歳までの3年間を英国で過ごしたハイカラである。08年12月12日、2人の結婚に明治天皇の裁可が下った。

 ところが、待っていたかのように醜聞を報じるメディアがあった。スキャンダル・ジャーナリズムで知られる秋山定輔(ていすけ)が経営する『東京二六新聞』だ。同年12月13日、同紙社会面は藤堂の「悪行」を暴露した。見出しは、「噫(ああ)これ皇室の藩屏(はんぺい)」「我貴族に弄(もてあそば)れし英国の可憐(かれん)嬢」――。女性皇族と結婚し皇室を守護すべき藤堂が、英国で女性を騙(だま)し、結婚していた問題を暴露した。

 恋か家か、悩む伯爵

 高紹は英国でカトリックに関心を持ち、洗礼名も持っていた。5歳年長のエリーナ・グレース・アディソンと出会い恋仲になった。両親がハンガリー移民だった彼女は、ランカシャー地方の実業家と結婚したが、夫を亡くしていた。高紹は、「若殿」という身分を捨て、英国で彼女と生きる決意をする。1907年9月13日、ロンドン市の結婚登記所に婚姻届が提出され、同居生活を始めた。

 驚いた家臣たちはロンドンに迎えを送り、高紹を日本に連れ帰ろうとする。高紹は帰国するふりをして駅で姿を消すなど抵抗した。だが、家臣の説得でひとまず海路、日本に帰る。エリーナには「すぐに日本に呼び寄せる」と伝えたという。日本到着は07年12月20日。高紹の友人は「高紹君はエリーナ夫人とは自ら進んで婚姻し、未来永劫(えいごう)、夫婦として理想の家庭を日本に於て作る考へであつたやうである」と心境を代弁する(『東京二六新聞』08年12月18日)。

 しかし、家臣たちはそれを許さない。「伊勢神宮を守る津に領地を有した藤堂家当主が、青い眼の外国人を妻にするとは神宮様に相済まない」と主張。高紹が意志を貫くならば廃嫡にすると言い出した。高紹には姉が2人いたが、兄弟はおらず廃嫡は家の存続にかかわる。家臣たちは北白川宮家との縁談を強引に進めようとした。高紹はここで折れてしまった。藤堂家は英語を話せる弁護士を雇い、ロンドンに派遣し交渉に当たらせる。しかし、エリーナは「離婚は高紹氏の意から出たものではない」として断固話し合いを拒否した。

 そこで藤堂家は奇策を発案する。日本でエリーナとの婚姻届を出し、すぐさま解消する方法で婚姻関係を無にする作戦である。日本で離婚できれば、英国の婚姻関係も取り消される。08年8月11日、当時藤堂家の本籍があった本所区役所(現在は墨田区)に、高紹とエリーナの婚姻届と離婚届が同時に提出された。区役所の戸籍主任が買収されていた。

 しかし、これでは戸籍に記録が残ってしまう。そこで藤堂家別邸がある北豊島郡巣鴨町(現在は豊島区)に一度本籍を移し(8月28日)、本所区に戻す(9月2日)という方法で、新しい戸籍の編製に成功する。藤堂家はそれをもとに北白川宮家との縁談を進めようとした。宮家側も藤堂家のごたごたに気づいていたが、見ないふりをして話を受け入れる。

 高紹は、エリーナに対し、「日本の国体上も、日本の華族としても、家臣の異議があり離婚せざるを得ない」旨の手紙を書き送ったという。失意のエリーナは、イタリアへ旅立ち、そこで08年12月28日のメッシーナ地震に遭遇し、そのまま被災者支援のためシチリア島で活動したと報じられた。

 異国での洗礼と恋・結婚。家臣団との軋轢(あつれき)と説得。恋人との別れと皇族との婚約……。小説のような展開が青年伯爵の身の上に起こった。

 メディアの餌食になる

『東京二六新聞』はどこからかネタを嗅ぎつけ、本所区役所から新旧戸籍、およびロンドンでの婚姻登記の翻訳、ロンドンに送った離婚登記の翻訳を入手し、紙面に全文掲載してしまう。目の覚めるような特ダネである。記事のトーンは、英国で結婚していたことを隠し、怪しい方法で英国女性と離縁した高紹の悪を暴くものであった。しかし、高紹の純愛と失意を報じるメディアはなかった。

 記事を書かれた宮内省は迅速に動く。1908年12月26日、華族懲戒委員会が開かれ、高紹の華族礼遇停止処分を決めた。同時に、高紹から「病気」のため結婚が難しいと婚約辞退を申し出させた。明治天皇は12月27日、婚約解消を許可した。高紹は巣鴨町の別宅で蟄居(ちっきょ)生活に入った。

 高紹がメディアの餌食(えじき)となり世間の糾弾を浴びる構図は、何やら小室さんに似ている。異なるのは高紹は恋を断念し、小室さんは恋を成就させた点である。高紹がもし英国に戻り、エリーナとの恋を実らせていたら、恋物語は美談となり語り継がれていたはずだ。

 高紹はその後、華族礼遇停止処分を解かれ、旧信濃国(現在は長野県)松代藩の真田氏の娘と結婚する。宮内省式部官などとして勤務したが、注目されたのは語学力だ。イタリア語、ラテン語に通じ、54歳のとき、『伊日辞典』の編纂(へんさん)に尽力した。亡くなったのは1943年(当時58歳)。エリーナとの恋について語ることは一切なく生涯を終える。

 一方、武子女王は婚約破談の2年後、旧上総国(現在は千葉県)の藩主家の保科正昭と結婚。戦前戦後の28年間、香淳皇后の女官長を務め、1977(昭和52)年、86歳で亡くなった。

 エリーナのその後の消息や、子孫が現存しているのかはまったく分からない。

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日2月19・26日合併号」表紙
「サンデー毎日2月19・26日合併号」表紙

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