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戦後国会から追放された男 除名処分の本質は「排除」 社会学的皇室ウォッチング!/64 成城大教授・森暢平
ガーシー参院議員の除名騒ぎを見て思い出したのは、敗戦直後の参院議員・小川友三だ。戦後初めて国会から除名された議員である。小川は奇行の議員と呼ばれた。ガーシー議員処分を考える際、この前例は参考になるだろう。
小川は1904(明治37)年、埼玉県北埼玉郡水深(みずふか)村(現加須市)に生まれた。母一人に育てられ14歳で東京に出る。日暮里で薬局を起こし、昭和の初めごろ、淋病(りんびょう)湿布体のような怪しい薬を開発してメディアを騒がせる。その後、政治ゴロとなり、戦前も東京で選挙に出たことがある。詐欺容疑で逮捕されたこともある。戦時中の44(昭和19)年、埼玉に戻った。抗生物質を謳(うた)いながら実は炭酸カルシウムで作った薬で一儲(もう)けし、金回りは良かった。
そんな小川が47(昭和22)年春の選挙に出る(当時42歳)。この年は戦後初めての統一地方選があり、新憲法施行に伴う衆参両院の選挙もあった。
政治的に無名の小川が出馬したのは4月5日の加須町長選、埼玉県知事選、4月20日の参院選(全国区)、4月25日の衆院選(埼玉4区)である。今では重複立候補は許されないが、当時は認められていた。さらに衆院選(埼玉1区)には妻を立候補させ、理由をつけてラジオ政見放送は小川本人が出演した。政見放送の一部は、最初から最後まで「小川友三、小川友三っ……」と繰り返すものだった。すべては売名のためであった。
政党は「親米博愛勤労党」を名乗っている。「農民を救う」「昭和の佐倉惣五郎」という分かりやすいキャッチコピーで売り出した。実際の選挙戦では、満員の東武鉄道伊勢崎線で網棚に乗ってアピールしたり、加須駅前で「上り下りのお客様、どうぞ1票をお入れください」と物乞いの口上でムシロの上で土下座するパフォーマンスで注目を浴びた。選挙中、仲間に日本刀で切りつけさせる茶番を演じたり、「小川友三が死亡」という偽情報を流したりと、とにかく話題を作りまくった。
結果として、町長選は落選(票数不明)、知事選も落選(5万3890票)、衆院選も落選(3万0684票)だった。しかし、参院選(全国区)だけは9万3573票を獲得し78位で当選したのである。全国区は通常定員が50人だが、最初の参院選ということで、50位までが任期6年、51~100位までが任期3年の議員となるという特例選挙だったことが有利に働いた。こうして小川は国政に進出したのである。
昭和天皇も「利用」
議員になってから、小川は大量の質問主意書を出すことで知られた。内容もユニークである。1948年4月、「治安と不良分子取締りに関する質問主意書」を提出した。「不良分子のノサバリは物すごく、良民は暴威にふるえ上っておる。劇場への無料入場は全国で何万人にも達しており、飯〔飲〕食店等、また被害の甚大なるものがある。列車、電車の無料〔無賃〕乗車も無数に達しておる」などと、小川は、治安の悪化を憂いていた。
闇菓子が市中にあふれているから政府による専売制にして国家財政に入れろと主張したこともある。立派な意見に聞こえるが、製薬に必要という理由で小川は統制品だった砂糖の配給を要求した。大蔵委員だった特権を利用して獲得した砂糖を横流しして利益を得ていた。議員バッジをなくしたと称し、いくつものバッジを入手して秘書たちに付けさせ、議員ビジネスに利用していた。政治家を目指す女性らを熱海に集め、その一人に乱暴したとして雑誌に告発されたこともある。
47年9月のキャサリン台風で埼玉県にも甚大な被害があった。この時、昭和天皇が県内を視察するが、地元議員の小川は常に天皇の側から離れず、天皇が写る多くの写真の脇にちゃっかり撮影されていた。これらは政治活動に利用された。
首相指名選挙では必ず自分に投票した。ラジオ放送では「吉田茂101票、芦田均99票、小川友三1票」と読み上げられるから知名度は上がる。名刺には「首相候補」と書かれていた。
「醜聞と汚名」
そんな小川の除名事件が起きたのは1950(昭和25)年4月である。首相は吉田茂で、与党(民主自由党)は無所属議員(緑風会)の一部などの協力でかろうじて参院の半数を確保するにすぎなかった。衆院を通った50年度予算案は参院予算委員会での審議となった。小川を除くと与党系22、野党系22。小川がキャスチングボートを握っていた。小川は4月2日の予算委員会で反対討論を行った。これは、池田勇人蔵相が非常に「ノボ」せているため打撃を与えて、中小商工業者のためになるような政策を池田に勉強させたい、と考えたためだという。ところが、採決で小川は賛成票を投じる(4月4日)。「吉田内閣は参議院においては非常に弱い。弱いものをいじめるということは私の博愛党の面目にかかわる」「子羊をいじめるライオンであつてはいけない」と考え直した結果だという。
これには社会党議員が激怒した。ある議員は、エレベーター前にいた小川に背負い投げの技を掛けた。小川は倒れて卒倒し、病院に運び込まれる。右㌻の写真で小川の頭に巻かれているのは包帯である。小川は普段から論理的でないことが多く、他の議員から「訳が分からない男」と思われていた。この間、吉田内閣の国務相から国会内で酒を飲まされ、懐柔されたとの報道もあった。
議員たちの小川への日ごろのうっぷんが懲罰へと向かわせた。事件の3日後の懲罰委員会で全会一致で除名が議決されたのである(本会議では賛成108票、反対10票)。民主党の前之園喜一郎議員は、懲罰委員会で次の趣旨を述べた。「調査においては時間も少なく、十分その真相の把握ができなかったのを遺憾とする。しかしながら過去3年に近い間、小川君と議員生活を共にしたが、この間、同君が幾多の醜聞と汚名を残してきた……。何ら反省の態度は見えず、本委員会における陳述も支離滅裂でありデタラメ」「情状酌量の余地は認められない」
投票行動における手のひら返しが表向きの除名の理由だった。しかし、国会内の異質分子をこの機会に排除しようというのが議員たちの本音であった。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など