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スポーツと皇室の深い関係 天皇は巨人・末次が好きだった 社会学的皇室ウォッチング!/68 成城大教授・森暢平
日本の優勝で盛り上がった野球の国・地域別対抗戦、WBC。天皇陛下は2月21日の記者会見で、スポーツの世界で若者たちが国際的に活躍していることに触れ、「こうした若い人々が日々の努力を積み重ねながら、新たな世界を切り拓(ひら)いていく姿が見られることを今後とも楽しみにしております」と述べた。森保一監督率いるサッカー日本代表、車いすテニスの国枝慎吾選手の名前を具体的に挙げたのだ。宮内庁関係者によると、この部分は天皇ご自身が強調したかった点だったという。
皇太子時代の天皇と雅子さまは2006年と09年、東京ドームで行われたWBCアジア、第1次ラウンドの韓国、中国戦を観戦した。今回は球場を訪れることはなかったが、雅子さま、愛子さまとともにWBCを楽しんだだろう。
少年時代の天皇(当時は浩宮)は読売巨人軍のV9時代の外野手、末次利光選手(1973年までは民夫)の大ファンだった。直接のきっかけは70(昭和45)年10月31日、東京球場で観戦した日本シリーズ(巨人対ロッテ)の第3戦。七回表の末次の左中間三塁打だったという。
浩宮は東宮御所で野球を楽しむとき、巨人軍のユニフォームを着ていた。それまで付けていた背番号は長嶋茂雄選手の「3」。ところが、71年2月23日の11歳の誕生日に公表された写真は背番号「38」だった。残念ながら毎日新聞社に残る上の写真にはないが、これは末次の背番号である。
71年10月16日、6年生だった浩宮は友人と一緒に、再び日本シリーズを後楽園球場で観戦した。巨人対阪急の第4戦である。0対0で迎えた三回裏2死一、三塁で4番王貞治選手という場面。阪急のアンダースロー足立光宏選手は王を敬遠して満塁とする。続くバッターが5番末次だった。ここで、末次は初球のカーブをレフトスタンドに運ぶ満塁ホームランを放つ。浩宮は飛び上がって喜んだ。ファウルボールを自分で捕ろうと左手にグラブをはめていたが、それを外して手が腫れるほど拍手をしたという。
その後、阪急が反撃し、1点差と追い上げられた七回裏、2死三塁の場面で、阪急は再び4番王を敬遠し、2死一、三塁とした。続く末次との勝負を選んだのだ。末次はここでもライト前適時打を放ち、阪急を突き放す。この打席、浩宮は友達と「1、2、3」の合図で、「スエツグーー」と声を張り上げた。試合後の感想は、なんで阪急は二つの場面で王を敬遠してしまったのか、だった。
末次は、巨人V9時代の往年の名選手で、このシーズン不動の5番。しかし、スターぞろいの巨人軍にあっては地味な存在だ。長嶋、王のあとにきっちり役割を果たす仕事人ぶりが、浩宮好みだったのだろうか。末次はこの日本シリーズの最優秀選手(MVP)である。
秩父宮が指摘した問題
野球と皇室には浅からぬ関係がある。1922(大正11)年12月2日、和歌山県を訪問中の裕仁皇太子(のちの昭和天皇)は、当時の全国中等学校野球大会(現在の夏の甲子園大会)で2年連続優勝していた強豪和歌山中学(現在の和歌山県立桐蔭高)を訪れ、現役生とOBとの試合を見た。昭和天皇の初の野球観戦であった。三塁側に御座所が設けられたが、支柱を立てボールの飛来に備えるという対策まで取られていた。
29(昭和4)年11月1日、昭和天皇は弟宮秩父宮、高松宮とともに、第5回明治神宮体育大会のなかの野球競技(早慶戦)を観戦した。天皇は三回裏で帰ったが、最後まで見た秩父宮は、「近頃非常に野球が盛んになつたが、これに伴ひ、弊害が起りはせぬか。自分は最近各学校で野球選手の争奪が行はれてゐると聞いたが、どうか」「選手の争奪が行はれるとすると選手の入学試験は公平に行はれてゐるか。選手だけ特別の待遇をするやうなことはないか?」と聞いたという(『東京朝日新聞』29年11月2日)。早慶を中心とした各大学が、中等学校の選手を囲い込む動きを懸念した発言である。選手囲い込みは現在のスポーツ界でも問題になっているが、戦前にも起きていたのだ。
当時、大学野球は絶大な人気を誇った。スター選手のひとりが、慶應義塾大学3年生の山下実選手である。プロ野球ができてからは阪急などで活躍し、和製ベーブ・ルースと呼ばれた。山下は29年秋のリーグで首位打者を獲得している。その山下が打席に立つと、秩父宮は「早慶戦はかねてラヂオで聞いてよく知つている。あれは山下だネ。バツテイングでは今シーズン一番の成績だつたネ」と話した。
体育奨励という役割
ここまで書くと、浩宮や秩父宮がたまたま野球好きだったと思われるかもしれない。しかし、それは違う。スポーツ社会学者の坂上(さかうえ)康博によると、小笠原長生(ながなり)(宮中顧問官)は22年、青少年を対象に行った講演「摂政宮殿下の御修養に倣(なら)い奉れ」のなかで、裕仁皇太子(摂政宮)が体操、教練、登山、遠乗りなどの運動によって鍛錬しており、「剛健なる国民」の模範を示していると述べた(「皇太子/昭和天皇裕仁の野球観戦」)。明治後期以降の国民の体育奨励はいわば国策であった。西洋スポーツを取り入れて、若者たちに励ませることは、近代国家にとって極めて重要な政策であったのだ。そして近代皇室の重要な役割が体育奨励だった。そのため、皇室はスポーツを観戦し、さまざまな運動大会に天皇杯を下賜していく。
戦前において、野球は急速に人気を得る。1球ごとにプレーが止まる間合いの駆け引きが武道に通じる部分があり、日本人の精神性に合っていた。25年にラジオ放送が開始し、野球中継が重要なコンテンツとなった。毎日、朝日の両新聞社が部数拡張のため野球人気を利用した側面もある。
戦後はテレビ中継で国民の野球熱は最高潮に達した。90年代まで日本人にとっての観戦競技の王座は野球であった。そこに常に皇室がいた。
皇室メンバーたちが野球好きだったのは、彼らの属人性によるものではない。WBCのあとの天皇家の楽しみは春のセンバツ大会であろうが、それは歴史的位相のなかにあるのだ。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など