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「一青年」の文豪が記した岸信介氏に向けた「怒り」 1960(昭和35)年・大江健三郎「安保」寄稿
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/55
1960(昭和35)年、日米安保条約改定への反対運動が沸騰した。今年3月に死去した作家・大江健三郎氏は若き日、後に小説のモチーフともなる「60年安保」に加わった。難解だとも評される作品世界の一方で当時の誌面に表れた「怒り」の筆致はストレートだ。
達筆とはいえないが、どこかに笑みを含んだような軽快な字だ。ただし、その自署に続く活字には動かしがたい質量がある。〈日本人を戦争がまきこみ、再び日本が崩れついえる日がきたなら、警官たちも気づくだろう。いま殺される自分の首をしめている手は、自分の手によって準備されたものであると。警官たちも気づくだろう、かれらもその死におよんでは、警官としてでなく、人間として死ぬのだから。(中略)そしてあの時、一九六〇年五月二十日、人間の名においておれは、あの汚ない仕事を拒否できたのだと〉
本誌『サンデー毎日』60年6月5日号に「民主主義の怒り」と題した大江氏の寄稿が載る。大江氏が23歳で芥川賞を受賞した58年、日米安保条約の改定交渉が始まった。不平等条約の是正が建前だったが、東西の核戦争に巻き込まれるという反対論も根強かった。翌年に安保改定阻止国民会議が結成され、全国的な運動(60年安保闘争)に発展した。請願デモが国会議事堂を取り囲む中、岸信介政権は60年5月、条約案の審議を強硬手段で乗り切ろうとした。大江氏が書く「五月二十日」とは衆院本会議で新安保条約の承認が可決された未明の日付を指す。
大江氏の一文は、深夜の国会に警官隊が導入され、座り込みを続ける社会党議員をごぼう抜きする場面を捉えた写真に添えられる。憲政史に残る〝汚点〟を大江氏は、警察官の制服を脱いだ裸の人間にしるされた消せない染みとして描く。
警官隊を導入した清瀬一郎衆院議長を、岸首相に使われた「老いぼれ猿」と呼び捨てる筆致には読む者をひやっとさせるほどためらいがない。その視線は、議事堂に押し寄せるデモの群れにも向けられる。〈この若者たちがずっと幼なかったころ、ある日突然に、かれらは民主主義の子となった。そして今日、かれらは雨に濡れて震え、警官や右翼のおどかしにも震えながら、十五年間それにたよって育ってきた、民主主義の死に立ちあっているのである〉
「若者たち」には大江氏自身も含まれる。67年に著された『万延元年のフットボール』が60年安保を題材にしたことはよく知られる。2007年のインタビュー集『大江健三郎 作家自身を語る』では、物語の軸を成す兄弟二人の造形を作り出したいきさつをこう述べている。〈そのように自分を二つに分けた。実際にデモに行くという行動に出る、そこで傷つく人物と、もう一人、いつも考えているだけで行動しない人物、かれは鬱屈して家で本を読んでいるのだけれども、しかしやはり傷を負っている〉
「みずからを恥じて」首相退陣を
大江氏が「民主主義の死」と呼んだ国会の強行採決を機に反対運動は激化した。60年6月15日、デモ隊が国会構内に突入、警官隊と乱闘になり、東大生の樺(かんば)美智子さん(当時22歳)が死亡した。この悲劇が世論を立ちすくませた。新聞各社は「暴力を排し、議会主義を守れ」と唱える共同宣言を出した。民主主義を死なせた強者は見逃され、抵抗を巡って弱者同士は分断された。その傷は今なお残る。
〈岸首相よ、みずからを恥じて退いてもらいたい。さもなくば、この若者たちは、原水爆戦争によって亡霊となり、再びこの広場をうずめるか、戦闘的民主主義者となって怒りくるいながら再びこの広場をみたすか、そのいずれかをえらばざるをえなくなるだろう〉
本誌同号につづった言葉が流血の「6・15」を見通したものかどうかは分からない。大江氏は再度、祈りに似た首相退陣の訴えと共にこう続け、筆をおいている。〈そのとき、笑うことのできる者は、人間の世界には誰一人いないだろう〉
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など