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「雅子妃」誕生までの曲折 家系が重視された旧時代 社会学的皇室ウォッチング!/76 成城大教授・森暢平

宮内記者会と会見される浩宮さま(東京・元赤坂の東宮御所で1988年2月19日、代表撮影)
宮内記者会と会見される浩宮さま(東京・元赤坂の東宮御所で1988年2月19日、代表撮影)

 皇后さまと天皇陛下が結婚してから6月9日で30年になる。結婚が決まったのは1993(平成5)年1月19日の皇室会議だが、出会いは6年ほど前に遡る。この間、話は一度白紙となった。宮内庁側で問題になったのは、祖父がチッソの社長であったことである。

 小和田雅子さん(現在の皇后さま)と、浩宮(現在の天皇陛下)の出会いは86(昭和61)年10月18日、来日中のスペイン・エレナ王女の歓迎茶会であった。22歳の雅子さんはこの年、東大法学部3年に学士入学し、外交官試験に合格したばかり。2人は一言二言、会話を交わす。浩宮は、将来のパートナーとして雅子さんを強く意識したといわれる。87年4月25日、高円宮がホスト役となって同宮邸に2人を招いた食事の場もあり、交流が始まった。

 宮内庁が雅子さんを「お妃候補」としていることは、担当記者の一部がつかんでいた。これが女性週刊誌に漏れてしまう。12月21日発売の『週刊女性』(88年1月7・14日号)が「浩宮さま27歳、お妃候補電撃浮上!」と「スクープ」を放った。同誌発売の数日後の暮れの日、父親の小和田恆(ひさし)氏と親しい外務省OBが「(雑誌の取材は)驚かれたと思うが、内々で雅子さんのことが検討されている。前向きに考えてほしい」と小和田家に宮内庁の非公式打診を伝えた。88年2月19日、浩宮の28歳の誕生日に際して行われた会見で、記者は「お妃選びを富士山に例えると何合目くらいとお考えですか」と尋ね、浩宮は「7合目、8合目くらいといったところでしょうか」と率直に答えた。記者は「いま週刊誌で騒がれている女性はいかがですか?」とたたみ掛けると、それへの明確な返答はなかった。

 昭和的センス

 ただ、雅子さんは外務省研修生として88年夏から英オックスフォード大で2年間学ぶことが決まっていた。結婚しないつもりで外務官僚となり、キャリアは始まったばかり。自身の人生設計から考え、この段階での皇室入りは無理であった。

 こののちのことは皇室会議議事録が以下のように記す。「内々の打診に対し、小和田家から御辞退の意向が伝えられました。一方、雅子嬢の母方の祖父江頭豊氏が、水俣病訴訟係属中の『チッソ』の社長等の地位にあったということについても慎重を期し、御交際は、自然、中断のやむなきに至りました」。藤森昭一宮内庁長官は、一貫して「雅子嬢」と呼んでいる。男性に伍(ご)してバリバリと働く女性を「お嬢様」扱いする昭和的センスには驚くが、そのことは措(お)く。

 いったん白紙に戻った交際は92年5月初旬、宮内庁から「雅子さんをお妃候補としたい」旨が再度小和田家に伝わることで再スタートを切る。その後、いわゆる鴨場のデート(10月3日)を経て11月28日、「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします」というプロポーズの言葉があった。結婚承諾は12月12日。

 結婚が正式に決まった皇室会議後の記者会見で藤森長官は「チッソの役員だったことが支障となっていたが、水俣病の発生時にはかかわっておらず、刑事的な責任がない」と分かったと述べた。いま振り返ると、この説明は若干苦しかったと思う。

 興銀の銀行マンだった江頭豊氏は、64(昭和39)年から71年まで水俣病の原因企業「新日本窒素肥料」(のちにチッソと社名変更)の社長を務めた。水俣病が社会問題になるのは昭和30年代前半であり、患者に見舞金が支払われ、「円満解決」とされたのは59年である。しかし、工場排水が原因であることは、経済成長の必要性の陰で曖昧にされ、アセトアルデヒドを製造する過程で副生された有機水銀を含んだ排水が停止されたわけではない。チッソ水俣工場がアセトアルデヒド製造を停止したのは68年。それまでの責任者は江頭社長だった。被害者と株主総会などで全面的に対峙(たいじ)する立場にあり、補償額を縮減しようと一部被害者を怒らせ、解決を遅らせた社会的な責任はやはりあると私は考える。

 変わる結婚観

 誤解されないように強調するが、私は、雅子さんに問題があったと言いたいわけではない。むしろ逆である。なぜ、祖父の問題が選考リストから雅子さんを外すほどの重大事になるのかという点である。

「雅子妃」が一度消えたあと、ある女性が有力候補となった時期があった。やはり曽祖父が朝鮮総督府で武断政治を進めた幹部であったことが問題となった。昭和から平成の妃選考では、家系と血筋が依然として重要だったのである。

 戦前、皇太子妃・皇后を出す家は旧華族、それも侯爵以上と決まっていた。戦後、この枠を少しずつ広げ(これを、同等性原則の緩和という)、最終的には「平民」(つまりは非華族)正田美智子さん(現在の上皇后さま)が選ばれた。このとき、宮内庁が持ち出した新たな論理が「清潔で立派な家庭」という概念だった。皇室入りする女性が育った家は、曇ったことがあってはならないという論理である。その論理に沿えば、雅子さんの家系には曇りがあったが、それは法的には否定されたというのが当時の宮内庁の説明だった。圧倒的な古さを感じる。

 決定を伝える『毎日新聞』(93年1月8日)には「仕事に燃えるような人は(皇太子妃に)向かないのでは」という関係者の声まで紹介されている。「雅子妃」誕生時には、まだまだ旧時代的な感覚が残っていた。『朝日新聞』(同1月7日)には、「社会全体が豊かになり、自由に生きることを当然と思う女性が増えたことが、選考を決定的に難しくした」とあった。逆に言えば、昭和までの女性は自由に生きることが当然ではなかったということだろうか。

 時代は移り人々の恋愛観・結婚観も変わった。ただ、いまの宮内庁が「清潔で立派な家庭」という論理から自由であるかどうかは怪しい。一般の人の皇室観も同じである。2年前の小室眞子さんの結婚騒動を見てもそう言える。

「雅子妃」は価値観が急激に移り変わる時代に誕生した。その過程を振り返ると、皇室自体と人々の皇室を見る目が変わらない限り、配偶者選びの苦闘は今後も続くことが予想される。

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

「サンデー毎日6月18日号」表紙
「サンデー毎日6月18日号」表紙

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