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『週刊朝日』休刊に捧げる雑誌文化論・前編 ボクの体の隅々にまで入り込んだ「週朝のDNA」 読者歴50年、松尾潔

本誌執筆者でもある松尾潔氏
本誌執筆者でもある松尾潔氏

 「良質な教養主義」を体現して家庭に寄り添う

 本誌にとっては101年にわたるライバルにして同志、そして本音を言えば「目の上のタンコブ」でもあり続けた『週刊朝日』が、休刊を迎える。週刊誌文化の一大転換点とも思えるこの事態を、「週朝」愛読者歴なんと50年、本誌執筆者でもある松尾潔氏が、渡部薫編集長に本音で迫りながら、前・後編で徹底解析する――。

 いくつかの偶然が重なり、この原稿が『サンデー毎日』に掲載される5月30日は、奇(く)しくも『週刊朝日』最終号の発売日となった。

 週刊朝日はサンデー毎日と同じ1922年創刊。昨年、ともに創刊百周年を迎えたことは記憶に新しい。両誌は永遠のライバルとして、文字通り「百年戦争」をサバイブしてきた。とはいえ少なくともこの30年間ほどは、ライバル間に殺気立った何かがあったようには思えない。かといって馴(な)れ合っていたように感じたこともない。トムとジェリーよろしく「仲よくケンカ」してきたというところか。

 101年後の軍配はサンデー毎日に上がった。だが、これほど勝利感の乏しい「勝ち」もめずらしいのではないか。

 では、いっぽうの週刊朝日はどうなのか。敗北感はあるのか。あるとしたら、何に。ぼくはそれを知りたいと思った。

「この国で最長の歴史を誇る総合週刊誌『週刊朝日』が5月末に休刊する」で始まるコラムを『日刊ゲンダイ』の連載「松尾潔のメロウな木曜日」に寄せたのは、1月末のことだ。

 ぼくなりのメロウな挽歌(ばんか)だった。

 と書けば、週刊朝日(以下、週朝)と深い関わりがあったという誤解を生んでしまいそうだ。

 実際はそうではない。

 長らく商業音楽の世界で自分の名前を看板にして仕事をしてきたので、相応にさまざまな週刊誌に露出してきた。だが、週朝から取材を受けたことは一度もない。もちろん寄稿したこともない。つまり利害関係がない。

 だが、これほど自分のからだの隅々に入り込んだ週刊誌は、週朝をおいて他にないのだ。いまぼくがかすり傷を負ったとしよう。滲(にじ)みだす血液がどんなに微量でも、そこからは週朝のDNAが抽出できるはずだ。なぜか。週朝を宅配購読する家で育ったから。さしずめ「週朝二世」である。以来、半世紀にわたって読んできた。

 進学で実家を離れた時と海外での仕事が忙しくなった時だけは少し距離が生まれたが、そのたびにすぐヨリが戻った。それが週朝であれ、『週刊文春』であれ、『週刊プレイボーイ』であれ、あるいは『週刊プロレス』であれ、80年代の男子学生は漫画誌以外の週刊誌も買っていたのだなあ。

 だからこそ、「松尾潔のメロウな木曜日」ではいささか誇張気味に週朝への愛憎を記した。オイ、このままオレを無視するつもりか、と厭味(いやみ)をぶちまけつつ、「最終号まで買ってやるからな」と結んだ。不甲斐(ふがい)ない阪神タイガースに吠(ほ)える虎キチを見ているようだ、と評した知人はあながち間違っていない。

「週刊誌の鬼」扇谷正造
「週刊誌の鬼」扇谷正造

 開高健の傑作『ずばり東京』を連載

 ぼくが初めて週刊誌でコラムの連載を持ったのは、宇多田ヒカルも浜崎あゆみも椎名林檎もまだデビューしていない97年5月のことである。29歳だった。『週刊SPA!』で始めた連載ルポのタイトルは「東京ロンリーウォーカー」。不況のまま世紀末に突入しようとする時代、都内のトレンディスポットを実際に巡ってはその様子を書きとめ、妄想を連ねた。それを「妄連想(もうれんそう)」と書き記すのが連載のおきまりで、このゆるさ、軽さは、いま思えばじつに「90年代週刊誌」的であったと思う。

「東京ロンリーウォーカー」というタイトルは、90年代にたいへんな人気を誇った角川書店のタウン情報週刊誌『東京ウォーカー』のパロディーだった(同誌は創刊25周年の2015年に月刊誌に生まれ変わるも5年後の2020年に休刊)。いまで言うなら「文春砲」のパロディーで「××砲」とネーミングする感覚か。名付け親が自分なのか編集者だったのか、もはや記憶は曖昧だ。だがそのタイトルはあくまで時代への担保で、中身は開高健の名ルポルタージュ『ずばり東京』へのオマージュだった。世紀末2000年11月に連載を終えて単行本化する際に種明かししたが、連載中からそのことを鋭く指摘する読者もいた。思えば連載開始時は、1989年に開高健が亡くなってまだ10年も経(た)っていなかったのだ。

『ずばり東京』は、この国初めてのオリンピック開催を翌年に控えた63年秋から64年にかけての東京の街を、当時30代前半の開高が隅々まで訪ね歩き、その変容と昂揚(こうよう)と混乱をシニカルに描いた傑作ルポルタージュ。東京をテーマにした読みものは数多(あまた)あるが、同書の輝きは今なお異彩を放つ。

 そんな『ずばり東京』も、もとは週刊誌の連載だった。もちろんSPA!ではない。文春でもない。

 週朝である。

 タブロイド版夕刊紙日刊ゲンダイは言うまでもなく毎日発売されるが、ぼくの連載「松尾潔のメロウな木曜日」は週刊誌に寄稿する気分で書いている。タイトルに「木曜」と入っているのは、木曜が週刊誌業界のツートップ文春と新潮が発売される日であることを意識して。タブロイド紙の質感は一般紙よりむしろ週刊誌に近いと考えているから。

 その連載で書いた週朝への葬送歌というべきコラムがきっかけで、生まれて初めて朝日新聞東京本社ビルに足を踏み入れ、週朝の最終編集長と対面した。これだけでもじつに週刊誌的磁場を痛感する話だが、あまつさえ週朝の最終前号(5月23日発売)にジャーナリスト安田浩一氏の短期集中連載「週刊誌と週刊朝日の100年」にインタビュイーとして登場し、さらには5月30日発売の最終号のアンケート特集「週刊朝日とわたし」にも回答を求められた。廃校1週間前の転入生がいるとしたら、それはぼくだ。

 さて、週朝の最後の編集長である渡部薫氏の公式プロフィールは以下の通り。

 1970年、東京都生まれ。95年、朝日新聞社入社。秋田支局、東京地域報道部などを経て2014年から週刊朝日記者。15年副編集長、16年『AERA』編集長代理、19年宣伝プロモーション部長を経て21年4月から週刊朝日編集長。

 ぼくとはほぼ同世代ということもあってか、初対面にもかかわらず互いの言葉が滞ることはまったくなかった。

渡部薫「週朝」編集長/朝日新聞出版写真映像部・高野楓菜
渡部薫「週朝」編集長/朝日新聞出版写真映像部・高野楓菜

 リベラルがかっこよくなくなった

渡部 松尾さんが書いてくださった日刊ゲンダイのコラムは、拝読しております。Twitter経由でウェブ版を読みました。

松尾 ゲンダイといえばタブロイド。めくると指先が黒くなるぐらいの粗悪さを売りにしているような仕様で、それが地べた寄りの目線のメディアであることの象徴でもあったかと思うんです。しかし、いまおっしゃったことに端的に表れているように、そんな媒体でさえ、いまやネットで読まれるようになっています。

渡部 たしかに私自身もニュースはウェブで読む機会のほうが多いかもしれません。

松尾 週朝は数ある週刊誌のなかでも最も格調高かったと思います。戦後の教養主義的なものを良しとする家庭にぴったり寄り添ってきたのが朝日新聞ですよね。ぼく自身もそんな空気の中で育ってきました。親は朝日を読んでいましたから。いくつかの新聞を同時に購読していた時期もあるけれど、朝日だけはずっと頑(かたく)なに取っていた。週朝もずっと。「週刊誌の鬼」とさえ呼ばれた扇谷正造さんが名編集長として150万部以上の拡売に成功し、存在感を示していた1950年代後半ぐらいからじゃないかと思います。すでに父も亡くなり、もう確かめようもないのですが。子どものころは『朝日小学生新聞』を読んでいました。『アサヒグラフ』も取っていた時期があるんじゃないかな。ひとり暮らしを始めてからも、ずっと朝日新聞は取ってきました。仕事で海外に滞在する時期も長かったのですが、新聞をまとめて読むことはなくても、週朝と文春を読む習慣は守っていました。いま自分の子どもは朝日小学生新聞を読んでいますし、AERAも創刊号からほんの2、3年前までずっと取っていました。

渡部 ありがたいことです。息の長い読者に支えられてきたと実感しています。

松尾 これだけ朝日に向き合ってきたせいで、ぼくもいわゆる朝日的な物言いをしてきたところがあります。良くも悪くも朝日的なものの見方の呪縛が強くて。「アイデンティティ」とまでは言わずとも、幼少期にイデオロギー的なものを朝日新聞からかなり植え付けられた自覚があります。その延長線上で、父の蔵書の本多勝一なんかも少年時代は読んでいましたし。自分の生業(なりわい)は、朝日的な人が時に目をそむけたくなる下世話な商業音楽を作ることなんですが、いっぽうで朝日的な視点も払拭(ふっしょく)しがたく体内に残っているわけで、これはもう仕方がありません(笑)。

渡部 今年88歳になる私の母親は、大学の入学式で大内兵衛総長に「新聞は朝日、雑誌は(朝日)ジャーナルを読め」と式辞で言われたそうで、そういう感じの60年安保を経験した世代なんです。

松尾 うちの親と同世代ですね。

渡部 団塊の世代よりは上の年代ですが、政治の季節を過ごした人たちです。戦後のカウンターカルチャーを代表するものとしてたとえば『朝日ジャーナル』があり、内部的には仲が悪かったとも聞きますが(笑)、週刊朝日もやっぱり朝日的なものとして当時の出版局が担っていた雑誌のひとつですね。

松尾 朝日ジャーナルといえば、筑紫哲也さんの後任の編集長だった伊藤正孝さんが高校の先輩なんです。ぼくが高1の時、当時朝日新聞外報部次長だった彼がOBとして「アフリカから見た日本」なるテーマで講演をされて。バブル景気より3年も前の1983年に、いま最もいいとみなされている思想や制度を考え直そうと福岡の後輩たちに呼びかけたんです。たかだか過去500年の繁栄を誇っているに過ぎない欧米に、われわれは目を奪われすぎている。必要以上に華美な生活なんて求めなくてもいい、価値観を再編しようじゃないかと。これにはかなり感化されました。アイデンティティという言葉も伊藤さんから教わったようなものです。

渡部 私たち朝日の人間はよくリベラルという括(くく)られ方をしますが、それはイデオロギーでというよりも、カウンターカルチャーの象徴だったからだと感じています。筑紫さんもおっしゃっていましたが、かつては「リベラルがかっこいいと思われていた時代」だった。朝日的なものを読むことが、ある種のかっこよさを体現していた。けれども、今は違う。週刊朝日の休刊には、「リベラルがかっこよくなくなった」という社会背景も無関係ではないと思っています。

松尾 かっこよさとしては、すでに消費されてしまったってことですかね。

渡部 あるいは、こちらはずっと変わらずにいて、どんどん世の中が右傾化していることの象徴かな、とも思います。朝日が極端にリベラルで左だなんてことは絶対ないと思うんです。誌面上、左翼ともまったく思っていませんし。私自身がそういう思想を持って、強固に何かをやっているのかというと、そんなことも全然ない。むしろ世の中が右傾化していったのだと思います。それがいまは、流行遅れだという捉え方になっているのかも。これはサンデー毎日さんも同じ運命だと思います。

 週刊誌がメディアとしてどこまで存続できるか……それはちょっとわからないです。メディアとしての役目がその時代その時代にあったと思いますし、1950年代の後半に週刊誌が世の中でどれだけの役目を担っていたかということと、現代における役目ということでは大きく性質は違います。軽くなってきているのかなという気はしますが。

ともに5月30日に発売された「週刊朝日6月9日休刊特別増大号」と「サンデー毎日6月11日号」
ともに5月30日に発売された「週刊朝日6月9日休刊特別増大号」と「サンデー毎日6月11日号」

 インターネット以後の紙媒体とは?

 休刊はふたつの見地で語らなければならないだろう。

 ひとつは、渡部氏が指摘した、イデオロギーの現在地がどこにあってどこへ向いているのか、という見地。これは週朝だけの話ではなく、朝日的なるもの全体に関わる大きな問題なのだ。

 もうひとつは、紙で週に1回出る発行物としての見地。右も左も関係ない。インターネットの定着以降、紙の媒体はどうなのかという問題だ。 以上ふたつの片方だけで語られうる休刊ではない。それだけは確かである。

(後編に続く)

(作家・音楽プロデューサー)

まつお・きよし

 1968年、福岡県生まれ。作家・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー。平井堅、CHEMISTRY、JUJUらを成功に導き、提供楽曲の累計セールス枚数は3000万枚を超す。日本レコード大賞「大賞」(EXILE「Ti Amo」)など受賞歴多数。著書に、長編小説『永遠の仮眠』ほか

「サンデー毎日6月11日号」表紙
「サンデー毎日6月11日号」表紙

 5月30日発売の「サンデー毎日6月11日号」は、ほかにも「岸田軍拡で『女性』は切り捨てられる! 田中優子・元法政大総長が怒りの告発」「緊急検証/2 新型コロナワクチン徹底検証 医療専門家が明かす『人体への影響』」などの記事を掲載しています。

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