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「世界のトップ」隠した過去 怪我と病を乗り越え再出発 元女子プロレスラー・ブル中野 ジャーナリスト・森健

豪快な技と戦い方で、ヒールの域を超え、国内外のファンから人気を博した(1993年撮影)
豪快な技と戦い方で、ヒールの域を超え、国内外のファンから人気を博した(1993年撮影)

 セカンドステージ―「自由」を生きる―6

 功成り名を遂げた人物の再出発を追う好評シリーズ。今回は国内外のリングに君臨した「女帝」だ。だが、一時代を築いたが故に、怪我で引退を余儀なくされると、喪失感は大きかった。さらに病の追い打ちも。しかし、そこからの歩みは、やはり力強い。

 雨が降る千葉・郊外の待ち合わせ場所。やってきた長身の女性は自身が運営する動画チャンネルについて少し照れながら説明した。

「昨日で(公開予定の)動画のストックがなくなってしまって……。さっき一人でトークを撮ってきたところなんです」

 柔和な笑顔に落ち着いた話し方。いまの彼女から、かつて世界を震え上がらせた存在と考える人はまずいないだろう。

 元女子プロレスラー、ブル中野。豪快な技と巨体、そして派手なメークで国内外で圧倒的な強さを誇った。

 一九九〇年、全日本女子プロレス(全女)でWWWA世界シングル王座、九四年には世界最大のプロレス団体、米国のWWF(現WWE)で女子王座も獲得。「女帝」「ブル様」という異名をほしいままにしてきた。

 だが、それだけの実績をもちながらも、九七年米国遠征中、怪我(けが)を負うと引退興行もせず、ひっそりと引退。その後、身を隠すように再び米国へと向かった。日本に帰ってきたのはそれから八年後のことだった。

 全盛期の中野さんは百十五㌔という体重を誇った。だが、現在は五十㌔台。それにはダイエットもあるが、怪我や病気も関係している。現在、固形物は少量しか食べられないという。

「おにぎり一個食べるのに四時間くらいかかる。少しずつ食べ続けてないといけないんです」

 それでもいまは十分元気だと中野さんは言う。

「歩けなくなる危機もあったのを思えば、いま動けて旅行もできて幸せですよ」 ただ、国内外でトップを極めたにもかかわらず、突如姿を消したのはなぜだったのか。また体調を崩したのはなぜだったのか。尋ねるとどちらの理由も女子プロレスが関わっていた。

 ブル中野こと中野恵子は六八年、埼玉県川口市に生まれた。小五のとき、テレビでアントニオ猪木の試合を見て衝撃を覚えた。

「『何かしなくちゃ!』と思うくらい、心の何かが変わった。縄跳びしたり、体を痛めつけたりして『鍛えたい!』と思いました」

 中一の冬、母の勧めで全女のオーディションを受け、練習生として合格。中二の夏には巡業に同行するようになった。リング設置、パンフレット販売、先輩選手の世話などをするうち、前座試合に出場。ジャガー横田やデビル雅美ら一線の選手を見て夢のように思った。

自身の運命を変えた先輩・ダンプ松本さんと仲良く
自身の運命を変えた先輩・ダンプ松本さんと仲良く

 米国で左膝を大怪我して「引退」

 中学卒業後の八三年、正式に入門。全女は厳しい世界だった。先輩の言うことは絶対、殴られるのも日常茶飯事。当初の食事は乏しく先輩の残り物まで食べる状況だった。中野さんは歌って踊れるベビーフェース(善玉)のレスラーを志向、当初のあだ名も「パンダちゃん」だった。

 だが、入門から二年後、思わぬ方向に進むことになった。「極悪同盟」の名の下、竹刀で暴れまわっていたヒール(悪玉)のダンプ松本に同盟に誘われた。当初は断っていたが、抗しきれず参加することになった。そこでついたリングネームがブル中野だった。しばらくの間「私は悪い人じゃないのに」と不本意な思いでいっぱいだったという。 その中途半端な思いを断ち切るような事件が起きた。九州に巡業中、控室に突如ダンプが入ってくると、中野さんの髪を半分剃(そ)り落としたのだ。中野さんは号泣した。だが、それが大きな転機になったという。

「半ハゲになって心が決まりました。誰が見ても異様で実家にも帰れない。その時初めてプロレスラーになったと思うんです。お客さんを呼べるプロの仕事。それをやろうとしたのがその時でした」

 ブル中野は変わった。体重を増やすために量を食べ、男性ホルモンのステロイドも使用した。体重百十五㌔の体につくり変えた。副作用もあり、すね毛やヒゲが生え、声もかすれるようにもなった。

 ファイティングスタイルも変えた。極悪同盟ではダンプが凶器で反則攻撃をする戦い方だったが、ブルはヒールながら正統派で大技を繰り出すスタイルに変えた。八八年にダンプが引退すると、ブルは女子プロレス界のトップへと上り詰めていく。ただし、それは大きな責任感を伴うものだったという。

 九〇年一月、ブルはWWWA世界シングル王者となり、実力を証明した。だが、その前後の数年間、心中は穏やかでなかった。

「ダンプさん、長与千種さんなど有名選手が抜けて、お客さんが減っていった。精神的には寂しくて悔しくてズタズタでした」

 そんな状況が変わったのは、ブルの門下にいた若手の成長だ。その一人、アジャ・コングとの戦いは白熱化し、観客も増えた。

 そんな中で起きたのがアジャとの金網デスマッチだった。九〇年十一月、横浜文化体育館。この試合でブルとアジャは死闘を展開。最後はブルが高さ四㍍の金網の上に立ち、横たわるアジャの首に全体重をかけた太ももを落とすギロチンドロップを放った。飛び降りる直前、ブルは合掌もした。中野さんは死も覚悟していたと振り返る。

「一つ前の金網の試合が中途半端な感じで『金返せ』コールをされたんです。アジャとの試合では許されない。四㍍の高さからギロチンドロップをした人はいない。最悪の場合、衝撃で背骨が突き出てしまうかもしれない。それでもいいとまで考えていました」

 常軌を逸した大技はブル中野の名を伝説化するほどの決定打となった。

 その後、ブルは他団体との対抗戦も展開。他団体トップを次々と倒していくと、海外にも活動を拡大。日本人女性で初めて米WWFの世界女子王座を獲得した。ブルは世界でも注目される存在となっていた。

 そんな中で起きたのが米国での大怪我だった。

 九七年十一月、米フロリダ州オーランドで朝から三試合が続く日だった。相手はキューティー鈴木と尾崎魔弓ペアで、ブルのペアは北斗晶というタッグマッチ。リング場外でブルが鈴木と尾崎を捕まえ、そこに北斗がロープ上段から飛んで鈴木と尾崎にボディプレスをかける展開だった。ところが、北斗が飛んだところで鈴木と尾崎が身をかわしたため、北斗の全体重がブルの左膝にのしかかった。

 左膝の十字靭帯(じんたい)と内側靭帯の二本が断裂。病院の診断はボルトを入れてリハビリをし、復帰には一年間はかかるという結論。絶望したと中野さんは言う。「プロレスの世界は展開が速い。一年休んだら、居場所がないんです。これはもうダメだと思いましたね」

一切の連絡を絶ち、米国でプロゴルファーを目指していた頃の中野さん
一切の連絡を絶ち、米国でプロゴルファーを目指していた頃の中野さん

 「忘却」のため打ち込んだゴルフ

 米国遠征中で全女との契約は切れていた。そのため帰国しても、全女にはほとんど報告もせず、まっすぐ実家に向かい、そのまま引きこもった。中野さんはやる気を失い、空っぽのような状態だった。

「プロレスができない自分には何の価値もないと考えていました。でも実家に帰ると、両親も妹も『何もしなくていい、ゆっくり休みな』と言ってくれたんです。両親と妹がいなかったら、自殺していたと思います」

 その後、プロレスに見切りをつけるため、三カ月で体重を五十㌔減量。そして膝の手術をすると、プロレスとは無関係の道へ踏みだした。米国でプロゴルファーの道を目指したのだ。二〇〇〇年春、中野さんは単身渡米した。

 ちょっとした思いつきのようだったが、そこから米国生活は〇八年まで八年あまりに及んだ。フロリダ州オーランドに部屋を借りると、中野さんは頻繁にトーナメントに参加した。現地では連日さまざまなトーナメントがあり、掛け金を出して勝った人が賞金をもらう仕組み。そんなトーナメントに参加して過ごしていた。グリーンカード(永住許可証)もプロレス時代の功績で問題なく得ることもできた。プロレス時代の仲間とは一切連絡をとらず、ゴルフだけに打ち込んだ。

 ただ、ゴルフを続ける中で疑問ももっていた。ゴルフはプロレスと対極にあると感じていたからだ。

「プロレスは試合でキレて感情もぶつけるけれど、ゴルフは平常心でキレてはいけない。プロレスと真逆のスポーツ。しかも結果も出せていない。いったい自分は何をしているんだろうと考えるようになりました」

 ゴルフはプロレスを忘れるためだけに打ち込んでいる―その現実を認めざるをえなかった。プロレスでつくったキャリアが大きすぎて、そこから逃げようとしていた。また、もう一つ大事な思いもあった。

「両親にとって、また自慢の娘になりたいって思っていたんですね」

 日本に帰ってくると、やはり両親は「何もしなくていいよ」と迎えてくれた。

 ところが、無心の思いで帰ってきた後に大きな出会いがあった。

 実家で暮らすうち、中野さんは近くで見かけたムエタイのジムにダイエットとして通うことにした。ジムには所属選手がおり、大会にも出ていた。その選手の試合の祝勝会に参加してみると、すごく話が合った男性がいた。青木大輔氏。間もなく交際に発展。一〇年二月、二人は結婚した。

 ただ、十五歳年下の青木氏は中野さんの前歴を知らなかった。青木氏はネットを検索して、中野恵子がブル中野であることを知った。輝かしい戦績があるにもかかわらず、それを隠してきた中野さんに青木氏は、なぜ隠すのと言ってきた。

「今まですごいことをやってきたのに、もっと自信もっていいよと。そう言われて、初めてそうなんだと思えるようになったんです」

 大きな価値転換だった。米国での事故以来、仲間とも連絡を一切絶ち、ブル中野であることを隠して生きてきた。だが、夫は元ブル中野であることを誇り、それを出せという。

 「青木恵子」で「ブル」に勝ちたい

 そんな夫の助言で自信がつき、結婚から半年後には東京都中野区に店をもつことになり、ブル中野であることも公にし始めた。

 それは新たな一歩だったが、その店での九年間で、今度は体の変化を体験することになった。

 バーを構えた際に掲げたのはプロレスファンが満足してくれる店。現役やOBのレスラーが来て、客も一緒にプロレスの話に花を咲かせる。冷やかしではない本当のプロレスファンが満足できる店を目指した。

 一方で、衛星番組でMCをしたり、徐々に「元ブル中野」としてのタレント活動も広がっていった。

 一二年には懸案だった引退興行も行い、そのために体重も再び増やした。だが、その体重増加とバーでの日々は、体には大きな負担を与えていた。 体重が増えたことで古傷の膝に負担がかかり、歩くことも厳しくなったのだ。動けないので痩せることも難しい。医師と相談し、食事量抑制のため、胃の九割を切除する手術を受けた。

 この手術によって肥満は解消、また歩行もできるようになった。ところが、今度は別の困難が続いた。胃を大きくとったことで「足りない糖分をカバーしようと」酒量を増やした。その結果、アルコール性肝硬変となっていたのだ。

 体調不良からバーは一九年に閉店。二〇年秋、夫に言われて病院に行くと即座に入院という重症の診断を下された。

「腹水でお腹(なか)は膨れ、目はチカチカ、耳鳴りもある。夫が話しかけても普通の返事ができなかった。そんな状態で病院に運ばれたら『身内を呼んでください』と言われた。あ、死ぬんだなと思いましたね」

 二カ月の入院を経て、正常な生活を送れるだけの体にようやく戻った。

 そんな怪我や病気を乗り越えた二一年春に開設したのが、ユーチューブでの動画チャンネルだった。

 動画チャンネルではプロレス時代の多彩なゲストもあり、登録者数が十万人に迫る人気を博している。中野さんも、バーやMC時代に培ったトーク力がよかったとも感じている。

 中野さんは女子プロレスの世界でトップを極めた。その重圧から自由になろうとしたものの、その栄華の重さにとらわれていたようにも映る。それはトップの座を追い求めたがゆえの反動でもあるだろう。

 それは中野さん自身、よく自覚していると笑みを浮かべる。だからこそ、いま思うことがあるという。

「ブル中野と違って、中野恵子は自信がなかった。でも、青木恵子となって自信をもてた。青木恵子はブル中野に勝ちたい。それがこれからの目標なんです」

もり・けん

 ジャーナリスト。専修大非常勤講師。2012年、『「つなみ」の子どもたち 作文に書かれなかった物語』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。17年には『小倉昌男 祈りと経営』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞を受賞

「サンデー毎日5月28日・6月4日合併号」表紙
「サンデー毎日5月28日・6月4日合併号」表紙

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