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「ディレクター」経験を糧に家族支える「福祉」切り開き――元NHKアナウンサー・内多勝康 ジャーナリスト・森健
セカンドステージ―「自由」を生きる―/5
ある世界で名を成しながら、異なるステージに挑む人々を追う人気シリーズ。今回はお茶の間で親しまれながら、「医療的ケア児」と家族の支援の在り方を探り、新たな可能性を切り開く元アナウンサーだ。定年を待たず、障害福祉の世界に飛び込んだ理由とは……。
小さな商店が車道沿いに並ぶ東京・世田谷通り。その通りの緑が多い一帯に「もみじの家」という施設がある。子どもや妊婦のための医療機関、国立成育医療研究センターがもつ、医療的ケア児のための短期入所施設だ。
医療的ケア児とは人工呼吸器や痰(たん)の吸引など医療的ケアを必要とする子どものこと。昼夜を問わず介護する家族の負担は大きい。そこでケア児が短期に入所して家族の負担を軽減するのがもみじの家の目的だ。
この施設のハウスマネージャーが内多勝康さん(60)だ。名前を知らなくても顔を見れば気づく人がいるだろう。NHKのアナウンサーとして活躍してきた人だからだ。照れながら言う。
「私も今年で七年目。テレビの感覚は薄れてきたなと思います。ただ、ふとしたときに『声がいいですね』と言われることがある。それはアナウンサーをやってきた経験かなと」 NHK時代「首都圏ニュース845」や「クローズアップ現代」などに出演。厚みのある声と柔らかい風貌で視聴者に親しまれてきた。だが二〇一六年春、もみじの家のオープンに際してNHKをやめ、ハウスマネージャーに転じた。当時五十三歳だった。
内多さんは子どもたちのケアに直接携わるわけではない。事業に関する計画立案、広報活動、そして寄付集めが主な仕事だ。
新天地は順調だったわけではない。着任時、内多さんは表計算やプレゼンテーションなど一般的なオフィス用ソフトもうまく扱えなかったのだという。
「私がNHK時代に使っていたのはワードばかり。他のソフトは使う機会がなかったのです。一方、ここでは現場担当者との会議、病院長や看護部長との会議などさまざま会議があり、それごとに資料をつくらないといけない。そういうことも覚えていきました」
力を入れたのは広報活動だ。利用者の拡大と寄付の募集。もみじの家は公的な制度からの報酬、障害福祉サービス費だけで賄えず、地元自治体からの補助金や寄付を頼りにしているためだ。そんな広報の仕事も手探り、新人同様だった。
それでもNHKからの転職を後悔したことはないと内多さんは言う。あの機会を逃していたら、きっと後悔していたはずと言う。
「新設されるもみじの家という施設でハウスマネージャーの担い手を探していると耳にしたのは二〇一五年春。すごく興味をもちました。医療的ケア児の番組を自分の提案で放送したこともあるし、社会福祉士の資格も取っていた。NHKと比べれば収入は三分の一くらい減ります。けれど、今後の人生を考えたとき、NHKに残るより、もみじの家に移ったほうがおもしろくなると思えたのです」
「5分のリポート」で変わる社会
振り返ると、その歩みにはもみじの家に近づくポイントが複数あった。
内多さんは一九六三年、東京・板橋区に生まれた。幼い頃、家は裕福とは言えず、早くから「将来はマイホームを建てて、妻と子ども三人で暮らす」のを目標にするほど平凡で安定的な生活を夢見ていたという。
都立竹早高校を経て、東京大学に進学。教育学部を卒業した。就職活動ではテレビ業界、職種はディレクターを志望して臨んだ。
「子どもの頃からテレビは好きだったんです。コント55号やドリフターズ、仮面ライダーに野球。お金のかからないテレビは大きな楽しみでした。それと人にいい影響を与える仕事がしたかった。テレビは理想に合っていたんです」
アナウンサーになりたいとは思っていなかったが、NHKの面接の過程でいつしかアナウンサーとして採用されることになった。
「当時、磯村尚徳(ひさのり)さんなど記者が自分の言葉でニュースを伝えるキャスターとして注目を集めていた。そんな人材を探す風潮の中で、ディレクターや記者を志向するアナウンサーがよいと考えられたようでした」
八六年、NHKに入局した。内多さんの初任地は香川・高松局だった。
この地で自分で初めて提案、取材し、放送できた番組が障害福祉関係だった。当時、高松であるイベントがあった。事務局長は脳性麻痺(まひ)の女性だった。内多さんはイベントで司会を務めた関係から事務局長を取材。すると地域の福祉タクシーが存続の危機で、障害者が地域の足として利用できなくなる懸念があることを知った。
そこから内多さんは取材を拡大、約五分のリポートとして放送に漕(こ)ぎ着けた。しばらくして福祉タクシーの存続が報じられた。放送を通じて社会が動くプロセスに関わる。それを実感した最初の体験で、最初の社会福祉との出会いだった。
香川では後に妻となる女性との出会いもあった。二十七歳で結婚した。
次の大阪局では大きな災害に遭遇した。九五年の阪神・淡路大震災だ。このときの報道で、内多さんは放送の意義を突き詰めて考えさせられたという。
震災当日は妻とともに香川にいた。異様な揺れに驚き、なんとか高速船を見つけて大阪にたどり着くと、局内は「修羅場」となっていた。六千四百人以上の犠牲者に住家被害は約六十四万棟、各種インフラも途絶していた。情報は出しても出してもさばききれない状態。内多さんも仮眠室や近隣のホテルで過ごしては、連日の報道番組に臨む日々だった。
そんな日々のなか湧いたのが、報道は役に立っているのかという疑問だった。
「民放では、何丁目というレベルでライフラインの復旧情報を流している。なのに自分が担当する番組はやっていなかった。それこそ被災者が求めている情報ではないかと。それに気づいて編集長に『うちもやりましょう』と提案しました」
提案は「人手がない」と却下されたが、内多さんは「だったら俺がやります」と手を挙げた。集められた地域のライフラインの情報を原稿に書き、字幕を発注。その字幕を関西圏で放送することを実現させた。この体験は自身の仕事の在り方も変えることになった。
「それまでは安定した暮らしなど自分の目標に重心がありました。でも、震災報道を経て、報道が役立っているのかという意識に変わったんです。プロとして自分は何を大事にし、誰のために仕事をすべきなのか真剣に考えるようになった」
震災報道に半年間忙殺された後、内多さんは東京に戻ることになった。
「自閉症の公務員」取材が転機に
東京時代、異例に長い十二年間あまりを過ごし、いくつもの看板番組を担当することになった。「生活ほっとモーニング」「首都圏ネットワーク」「首都圏ニュース845」、そして「NHKスペシャル」。いずれもメインキャスターとしての役回りで、内多さんの顔と知名度が広く知られるようになった。
ただ、本人にとってその時期もっとも印象的だったのは看板番組ではなく、自ら手掛けたドキュメンタリーだという。それもまた障害がテーマだった。
川崎市に住む男性(当時二十七歳)は重度の自閉症ながら、公務員として働いていた。その男性と母親の姿を当事者目線で取材した。一九九九年八月、自宅を訪れると、その男性は内多さんが持参していた紙袋を突然物色。内多さんが驚いていると、男性はビールのロング缶を一気飲み。まもなくそれは自閉症という個性の現れと理解した。番組ではこの男性をありのままに受け入れている地域の様子を描いた。
放送は好評を博し、追加取材をした別番組もつくられることになった。同作品は「『地方の時代』映像祭」というコンクールで受賞にもつながった。このときの体験は内多さんにとって障害福祉というものの多様さに気づく契機となった。
「福祉という概念がぶっ壊れていくんです。助けてあげるという感覚ではなく、彼らがもつ強みを活(い)かせるような環境を提供する。そんな逆転の発想で彼は公務員として働けていた。新しい価値観を注入してもらっている感覚でした」
この経験が転換点になった。障害福祉への興味が広がるとともに自身の物足りなさも感じ始めたからだ。
「取材をする中で専門家と話をすると、毎回知識不足から敗北感を覚える。次第に系統立った勉強がしたくなったのです」
そこで次の勤務地、名古屋にいるとき、社会福祉士の資格を取ることにした。
名古屋時代は本業でもアナウンサーの枠を超えた活躍をした。北アルプスの立山から穂高連峰まで六十㌔を縦走する企画に挑戦。登山家の田部井淳子氏に協力を仰ぎ、NHKの年間再放送希望ランキングでベスト3に入る評価を得た。
だが、二〇一二年、東京に戻ると、自分のキャリアのピークとその変わり目を経験することになった。
東京に戻って担当したのは人気番組「クローズアップ現代」の代行キャスターと長寿番組「きょうの料理」の司会だった。クロ現はメインである国谷裕子氏が休むときに内多さんが務める。テーマを深く掘り下げるクロ現の仕事はやりがいがあったが、その時間はあまり続かなかった。
一三年の人事ではラジオDJに任じられた。内多さんは自分のやりたいことはできなくなったと悟った。外の世界に生きがいを求め、フードバンクのボランティアを始めた。不要な食品を引き取って児童養護施設など必要な人たちに届ける活動だ。
「クロ現を担当できたのは幸運でした。でも、このあとNHKに残っても、もう自分の望むチャンスは巡ってこないだろうと思えた。それなら仕事と生きがいを分けようと思ったのです」
そんな思いをもっていた一五年、次の勤務地が仙台と言われた。翌年は東日本大震災から五年の節目の年。それでも「先が見えた」感は否めなかった。
医療的ケア児の「つながり」築き
もみじの家の話をもちかけられたのはそんな時期だった。ある福祉関係者と会食をしていた際、来年、成育医療研究センターに医療的ケア児と家族を支援する短期入所施設ができる、そこでハウスマネージャーを探していると聞かされた。いいですねと言うと、思いもよらぬ言葉が返ってきた。
「だったら、内多さんがなればいいんじゃない?」
この言葉に、回っていた酔いも醒(さ)めたという。だが、そこから真剣に自分の未来も考えだした。業務と生きがいを切り分けて、アナウンサーの仕事を続ける生き方もある。一方、収入は減るが、自分が関心をもってきた福祉の世界に全力で取り組める。この先の人生を考えたとき、どちらがよいのか――。選んだのはもみじの家だった。
それには「転職」という文字のジグソーパズルが完成するように要素が揃(そろ)ったことも大きかった。家のローンも終わり、子どもの教育費も目処(めど)がついた。仕事は硬軟あらゆる仕事をやりきった実感もあり、勤続三十年の節目でもあった。
「そして第一に取材者として自閉症や医療的ケア児などの人脈が増え、現場に赴くなかで、自分が参画したいという気持ちが大きくなっていたんです。こんな理想的な施設の話がある。これを逃すことはできないと思いましたね」
一六年春、NHKを離れ、もみじの家のハウスマネージャーに就任した。それからの日々は当惑もあったが、新しい経験と実績を重ねてきた。
なかでも大きい成果となったのが、医療的ケア児をキーワードに全国をつなぐ「全国医療的ケアライン(アイライン)」の発足だ。医療的ケア児は全国に二万人ほどいるとされ、地域ごとに家族会や支援者の会は点在している。だが、それらをつなぐ全国組織はなかった。それに気づいた内多さんは各地の医療的ケア児の家族や支援者を調べて電話をかけ、オンライン会議で関係を構築していった。二一年秋、折しも医療的ケア児支援法が施行された時期、当事者の家族による全国的なオンライン会議を実現するに至った。
「長年アナウンサーとして話す技術は鍛えてきたから電話連絡は苦ではなかった。むしろドキュメンタリーをつくるのに似て突破できた達成感がありました」
二二年三月、アイラインが正式に発足。式典の司会をしたのはもちろん内多さんだった。障害福祉の世界に飛び込み、医療的ケア児と家族をつなげるネットワークづくりに役割を果たした。いま内多さんはアイライン事務局の広報として運営を支えている。
内多さんはいま思う。
「ようやくアナウンサーから社会福祉士になれたんだと思います。この環境を生かし、ソーシャルワーカーとしてできることを実行していきたいと思います」
もり・けん
ジャーナリスト。専修大非常勤講師。2012年、『「つなみ」の子どもたち 作文に書かれなかった物語』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。17年には『小倉昌男 祈りと経営』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞を受賞