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女優としての「地獄」糧に 手にした「研究者」の地平 ――女優・いとうまい子 ジャーナリスト・森健
セカンドステージ―「自由」を生きる―/3
ある分野で名を成しながら、新たな世界を歩む人々を追う人気シリーズ。第3回はテレビなどで長年、お茶の間に親しまれ、今は博士課程で基礎老化学の研究もする現役女優だ。凜としながらも時にしなやかな生き方に、本誌連載陣のジャーナリストが迫った。
ゴム手袋をした手でピペットをもち、試験管に薬剤を入れる――。
女優・いとうまい子さんが写ると、ドラマの一場面のようだが、これは実際の研究室の一風景だ。今年デビュー四十年になる彼女には今、女優のほかに二つの肩書がある。研究者と社長だ。社長は二〇一七年に故・次兄が興したテレビ制作会社を引き継いだ。 三つの仕事を抱えるとなると、さぞや忙しいだろうと映るが、いとうさんはそうでもないですと笑う。
「三つといっても、芸能のほうは攻めてやっているわけではないし、研究は現状は研究室に詰めているわけでもない。社長業のほうも会社に出るのは時々。だからかなり自由なんですよ」
女優として活躍してきたいとうさんが新たな道を踏み出したのは四十五歳のとき。二〇一〇年、早稲田大学人間科学部健康福祉学科eスクールに入学、予防医学を学ぶ道に入った。
昨今は女優業でもドラマ「おいしい給食」などで人気を得ているが、学び直しの観点で講演や委員など有識者としての立ち位置も少なくない。実際いとうさんは研究成果も出している。
修士課程中の二〇一五年には介護予防の小型ロボット「ロコピョン」を開発。人が近づくと「スクワットやりましょう」と呼びかけ、一緒にスクワット運動をする仕掛けをつくった。
現在は基礎老化学の領域に身を置き、東京大学に場を借りて、老化を遅らせる食品の研究をしている。
「サルを対象にした研究ではカロリーを三割制限したほうが若々しく、老化が遅れることがわかっています。もし人の食用でカロリー制限を模倣する化合物を見つけられれば老化を遅らせるのでは。そんな仮説で化合物を探しています」
研究について語りだすと次第に熱がこもりだす。だが、そもそもなぜ四十代なかばで大学に入ったのか。
過去の記事を探ってみると、ルーツをうかがわせる発言は複数見つかった。いとうさんはデビュー当初からアイドルらしからぬ発言をしていた。
〈こういう世界で仕事をしていると、世の中でなにが起きているのか全然わからなくなっちゃう。だから、なるべく新聞を読んだり、テレビニュースを見たりして、自分が社会の一員であることを意識するようにしてるの〉(週刊平凡、一九八三年七月二十八日)
同年秋の女性ファッション誌では、本が好きで趣味は預金と語っていた。
〈これからの時代、年とって預金がないと悲惨だと思うの。(略)私っておしゃれじゃないし、ファッションにも興味ないから服もあんまり買わないの〉(non―no、一九八三年十一月二十日)
デビュー直後の夢を語る時期。にもかかわらず、夢より現実を語るのがいとうさんだった。指摘すると照れながら言う。
「私、本当に合理的な人間なんですよね。嫌なものは嫌だし、すぐ最短距離を行こうとする。そういう性格だから、地獄の十年も味わった。その体験も私にとって大きいと思いますね」
「不信」から5年で事務所を退所
一九六四年、名古屋市で経営コンサルタントの父、主婦の母、二人の兄という家庭に生まれた。私立の中高一貫校に進学し、中学時代は生徒会長を務め、中高で演劇部に所属した。その高校時代、大竹しのぶの映画「あゝ野麦峠」を見て女優という仕事に憧れた。「もう慟哭(どうこく)というくらい泣いた。その時こんなに人を感動させられる女優っていいなと思ったんです」
八一年、高二のとき東京でスカウトされ、芸能事務所に所属した。だが、入ってみると、身長が低いことを理由に女優ではなく、アイドルになるよう指示された。それは自分の望む方向ではなかったが、八二年、漫画誌のミスマガジンコンテストでグランプリを受賞することになった。
そこから女優業と並行し、アイドルとしても活動することになった。レコードデビューもし、「高校聖夫婦」「その細き道」とドラマで主演。あっという間に目が回るほどの忙しさになった。
「平日はドラマ撮影、土日は歌の営業で地方へ。家に帰っても、洗濯も買い物もできないから、食べるものも着るものもない。それを見かねて母も上京して一緒に住むようになり、その後父も上京してきた。だから東京での生活はその後も親と一緒でした」
グラビアなど好きではない仕事もあったが、女優の道を歩みたかったいとうさんは、自分自身で女優の仕事に食らいつこうとしていた。そうして手に入れたドラマがある。
「その細き道」の撮影後、プロデューサーから翌年予定しているドラマの話をされた。当時社会問題だった不良少女の話。別のアイドルが予定されていたが、いとうさんはその役をどうしてもつかみたいと思った。ある日、プロデューサーの家に自ら電話をかけた。
「私は女優の仕事をしたいので、不良少女なんて最高の役です。それで電話してみたら『無理だよ』と言われたんです。それでも諦めきれず、翌週また電話したんです。そしたら予定していた子が見送るとなったと言うわけです。じゃあ私がやります!となったのがあのドラマだったんです」
八四年「不良少女とよばれて」は一世を風靡(ふうび)するドラマとなった。奇抜な不良の格好に、チェーンを振り回す派手な乱闘シーン。バイクの転倒事故も起きる過酷な現場だった。演じるいとうさんも大変だったという。放送の半年間、連日の撮影で睡眠時間は三時間。帰宅すると玄関に倒れ込んで寝てしまう日もあった。力が入った番組だけに、放送は高視聴率を記録した。
「当時はフィルム撮影で時間もかかる。過労で倒れる人もいましたが、本当に楽しんでできた撮影でした」
その後、テレビや音楽、映画と進んだが、思わぬ展開が五年目に待っていた。
八七年、主演映画に際して仕事に大きな不信を抱いた。台本にはキスをしながらベッドに倒れ込むとト書きに記されていた。心配になり、事務所の社長に確認すると「青春映画だから心配しなくていい」との返事だった。
「ところが、現場でそのシーンになってみたらヌードだと。えー!聞いてませんと抵抗したのですが、やらなかったら撮影が進まないと言われ……。仕方なく脱ぐことになりました」
不信感を募らせる出来事だったが、映画撮影後、今度は写真集も出すという話になった。やはり肌の露出を含むといい、事務所は方針を変えないという。
「それはさすがに無理だと思いました。それで事務所をやめることにしたのです」
女優兼マネジャーから経理まで
デビュー五年目での退所。芸能界の慣行として、大手芸能事務所を離れたタレントと契約する事務所はない。いとうさんは個人事務所で再出発することを余儀なくされた。それが「地獄」の始まりだった。
昨日まで親しくしていた人が、突然スタジオで会っても知らんぷり。芸能界の常識を知らなかったため、そんなことになるとは思っていなかったという。
「事情を知る今なら、やめたいという子がいたら、もっと話し合って穏便にいこうと言うと思います。でも、当時は怖いもの知らずで飛び出した。傘もないまま雨の中という感じでした」
会社はもっていた。デビュー二年目に節税対策のためにつくっていた法人で、母が社長だった。ただ、独立といっても社員をとる余裕はない。どうするか。
いとうさんは自分自身で自分のマネジメントをすることにした。当時多くのメディア関係者がもっていた「タレント名鑑」に個人事務所の連絡先を掲載。かかってきた電話を「マネジャーのふりをして」いとうさんが対応した。
「現場に行く前日、制作担当者に電話をかけ『マネジャーの私が行けず、本人一人行かせます』と言う。で、自分が現場に行って仕事をし、帰ったら私が請求書を書いて出す。全部一人でやっていたのです」
三十五年目にして明かした打ち明け話だった。
個人事務所になると、デビュー時のような主演や音楽という話はなくなった。ただ、廃業まで考えることはなかったという。
「干されているといってもコンスタントに仕事はいただけていたんです。時代劇のゲストや二時間ドラマや舞台……。生活のほうももともと派手ではなく、忙しくしているとお金を使うこともないので貯(た)まるばかり。質素に暮らしていたし、そのままでも困らなかったというのが大きいですね」
空いた時間には昔から好きな本を読む。九七年に雑誌で好きな本の紹介をしたときには、児童虐待のノンフィクション『シーラという子』や寄生虫のことを記した『笑うカイチュウ』といった本をあげた。それほど読書量は豊富だった。
新しいことにも取り組みだした。九五年にはいち早く自分でパソコンを操作して自社のホームページを制作。その体験を生かしたマニュアル本も刊行した。
「知人にインターネットというものを聞いて、おもしろそうだなと。周囲はまだ誰もやっていなかった。それならやってみようと」
二〇〇〇年には通信教育で児童心理学の講座をとった。資格目的ではなく、心理学を知りたいとの思いから取り組んだのだという。ただ、知識欲が旺盛で自分が主体で取り組むという姿勢はすでに表れていた。
その後、芸能生活二十五年(二〇〇八年)を迎えたときに自身を顧みた。四半世紀、この世界で仕事を続けられてきた。大手事務所をやめて「地獄に落ちた」が、それでもやめずに続けていくことができた。よく考えれば、それは周囲の人たちのおかげだとあらためて考えるに至った。
「アイドルだった時には周囲に感謝もせず、当たり前だと思っていた。でも地獄に落ちて自分の歩みを振り返ったとき、そこには支えてくれる人たちがいた。スタッフや仕事関係者、そしてファン。インターネット経由でさまざま知識を教えてくれた人もいる。そんな人たちに何か恩返しをしたいと思ったんです」
だが、自分には恩返しの術(すべ)がない。考えた末に出てきたのが、まず自分が興味あることを学び直してみるということだった。
結婚で「人を信じられるように」
そう考えている頃、私生活も変化があった。愛犬の散歩を通じて知り合った近所の男性との交際だ。二〇〇九年初春、四十四歳で結婚することになった。
夫に進学について尋ねると「いいんじゃない」と前向きな答えだった。そこで予防医学に取り組もうと考えた。〇八年に文部科学省の医療関係のPRビデオに出演した際に予防医学という取り組みに興味をもっていたからだ。
そこから調べて受験することにしたのが早稲田大学人間科学部健康福祉学科だった。だが、受験の面接で担当教授からは「芸能人はすぐやめるから」と厳しいことも言われた。
入学以降の進路が順調だったわけではない。むしろ学部、修士課程、博士課程と専攻を変化せざるをえない苦難に直面してきた。予防医学からロボット工学、そして基礎老化学。それでも確実に前の研究が次の研究に生かされる形で進んできたといとうさんは言う。
「いろんなことを人に相談して研究してきた。だいたい厳しい壁が出てくるんですが、自分にとっての壁って他人の壁とは同じではないので、なんとか頑張れば越えることができる。そんな体験をしてきました。趣味もない自分がこれだけ打ち込める。本当に踏み込んでよかったと思います」
また、結婚も小さくない影響があった。夫と暮らすようになって「初めて」人を信頼していいと思えるようになったのだという。
「若い時に嫌な思いをたくさんした。それで心を閉ざし、自分の感情を出さなくなっていたんです。でも夫は自分と私の場所を確保するように『まいちゃん、ここにいるよ』と安心させてくれる。その安心感は大きかったかなと思います」
二十歳のときに芸能界で栄光を収めたものの、自分の意思を通したことで十年以上の不遇をかこつことになった。だが、その苦難の経験が、四十代以降のいとうさんの新たで自由な展開の土台にもなっている。
振り返ると、自分を前に出していないときにうまく進んでいるようでもあるといとうさんは言う。
「研究で言えば、自分で強引に進めたわけではなく、状況に合わせて人の勧めるままに選択してきた。でも、そうすることで確実に自分のやりたい方向に進んできている。不思議です」
目下の目標は博士号をとることだが、まだ数年時間がかかるかもと笑う。
「研究室では、細胞の実験結果を見てまたダメとなっても、再度頑張ろう!って明るく考えられる。それはこの壁を越えれば違う景色が見えると思っているからです」
もり・けん
ジャーナリスト。専修大非常勤講師。2012年、『「つなみ」の子どもたち 作文に書かれなかった物語』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。17年には『小倉昌男 祈りと経営』で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞を受賞