週刊エコノミスト Online サンデー毎日
自殺と他殺でメディア二分 「利用」された国鉄総裁の死 1949(昭和24)年・「下山事件」報道
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/47
新しい日本の軌道がいまだ定まらない1949(昭和24)年、初代国鉄総裁が不慮の死を遂げた。米国の占領政策が転換され、労使対立が激化する中で起きた「下山事件」だ。自殺か、他殺か――その謎はメディアを真っ二つにしながら、戦後史にくすぶり続けた。
〈事件は早くも政治的な陰謀に利用されようとするきざしが見えはじめている。まだ死因さえわからないのに――いやわからないからこそ利用される危険性がある〉と書くのは、本誌こと『サンデー毎日』49年7月24日号だ。同6日未明、東京都足立区の国鉄常磐線・北千住―綾瀬間で、前日朝から失踪中だった下山定則国鉄総裁(当時47歳)が、貨物列車にひかれた無残な遺体となって見つかった。
「下山事件」を初報した同号の記事は〈一日も早く自殺か他殺かの死因がはっきりすることを私たちは願った〉と続く。同年6月に発足した国鉄はGHQが主導した経済引き締め政策(ドッジ・ライン)に伴い、約10万人の人員整理を余儀なくされ、その重責を背負ったのが初代総裁の下山氏だった。死の2日前、7月4日には約3万人の第1次整理が発表されていた。
自殺ならば大量解雇という〝国策〟に反対する共産党など左翼勢力の追い風となり、殺されたのなら逆に彼らのテロが疑われる。現場を見た監察医は自殺と判断したが、遺体は東大医学部法医学研究室(古畑種基教授)に運ばれ、解剖された。その結果、下山総裁は同5日夜に死亡し、6日午前0時過ぎに現場を通過した列車にひかれたと認められた(死後れき断)。他殺の動かぬ証拠とされた世にいう「古畑鑑定」である。
〈一応はその結論に従って他殺として活動したが、死因は不明である。他殺である、というのには納得出来ぬ点があるので全面的にこれを信じるわけにはいかなかった〉と、毎日新聞の平正一・社会部デスクが本誌同年9月4日号の記者座談会で述べている。総裁が現場周辺を一人で訪れたという目撃情報や、精神的に不安定だった事実など自殺を疑わせる材料は早くから捜査線上に浮かんでいた。
捜査主任は30年後「あれは自殺」
朝日、読売両紙は古畑鑑定に依拠し、他殺説で論陣を張った。一方、予断を排して取材した事実のみを伝えた毎日は世間から「自殺説」寄りだと色分けされるようになった。先の座談会にこんなやり取りがある。
【本誌】毎日の下山事件担当者には、共産党びいきがいるじゃないか、という噂(うわさ)さえあるが。
【平】毎日の社会部は、少し赤いとか、毎日が(共産党の機関紙)アカハタと同じく自殺説をとっているのはおかしいと非難が出て来ておる。自殺と言えば赤いなら警視庁の刑事部は真ッ赤ということになるよ。
出血が少ないなど「死後れき断」の兆候は自殺でも表れるという専門家の意見も出され、捜査本部は自殺の見方を強めていた。だが政権にとっては不都合な展開だったようだ。毎日新聞社史『「毎日」の3世紀』によると、担当記者2人が7月末、増田甲子七(かねしち)官房長官に呼ばれた。〈増田長官は下山氏の遺体の解剖結果が出る前から、他殺説を主張していた。(中略)増田長官は「下山、三鷹と続き、国鉄の大量首切りによる労働攻勢の激しい折、下山さんが自殺としたら、この左翼攻勢はどうなりますか。あなた方は考えたことがありますか」と切り出した〉
結局、自他殺は公式に明らかにされなかった(64年に時効)。松本清張が『日本の黒い霧』で〝米軍謀略説〟の観点から解明を試みたのをはじめ、事件が長い間、謎としての生命力を保ち続けた素地ともいえる。
発生から丸30年後の本誌79年12月30日号は、事件の捜査主任を務めた関口由三元警視正(事件当時は警部補)を取材している。加齢により一問一答が難しくなっていた老刑事はこう繰り返したという。〈あれは自殺だよ。それを打ち出せず、胸のすっきりしない事件だった。……あれは自殺だよ〉
(ライター・堀和世)
※事件当時の本誌記事の引用は現代仮名遣い、新字体で表記
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など