週刊エコノミスト Online サンデー毎日
父待ち「胸躍る」子が見た 「人間改造」が招く無残さ 1949(昭和24)年・「シベリア抑留」引き揚げ
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/45
「お父さんは今どこにいるんでしょう」――当時の誌面に載る子どもの手紙が胸を打つ。旧満州などで敗戦を迎えた日本軍将兵はソ連に連行され過酷な労働に従事した。「シベリア抑留」を生き延びるため、同胞は相争わねばならなかった。「ラーゲリ」で何があったのか。
昭和歌謡界を代表する作曲家・吉田正が手掛けた歌に「異国の丘」がある。戦時中に作った別の曲に歌詞が振られ、ソ連に抑留された捕虜の間に広まったという。1948(昭和23)年、復員兵がラジオ番組で歌ったことから大ヒット。飢えと寒さに耐えながら、ダモイ(帰国)を信じる同胞を慕う合言葉ともなった。
本誌『サンデー毎日』49年6月5日号は「異国の丘の父を待つ」と題し、終戦直前に満州で現地召集された父親を待ちわびる中学生の手紙を掲載した。〈きっと帰ってきて下さい。そして僕たちがお父さんのいいつけを守って、お母さんを助けて一生懸命がんばってきたのをほめて下さい〉
記事には「引揚再開に胸躍る子ら」と副題がある。45年8月9日、ソ連の対日参戦によって満州の日本軍(関東軍)は崩壊。民間人を含む約60万人がソ連全土やモンゴルに連行された。最長11年間の抑留中に約6万人が死亡した「シベリア抑留」だ。日本人捕虜の引き揚げは46年12月に始まったが、たびたび中断。記事は49年5月から11月までに9万5000人を帰還させるというソ連側の発表を受け、期待と不安が交錯する内地の表情を伝えている。
同年6月27日、約半年ぶりの引き揚げ船「高砂丸」が約2000人を乗せ、京都・舞鶴港に着いた。故国の丘に恋い焦がれたはずの彼らを人々は驚きと共に迎えた。厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』は49年の引き揚げをこう記す。〈これまでのソ連からの引揚者とは全くその様相を異にしていた。(中略)上陸にあたっては「天皇島敵前上陸」などと叫び、革命歌を合唱し……(後略)〉
下船者の中には日本に共産主義政府を打ち立てると息巻く者もいた。本誌7月17日号は舞鶴から東西に向かう引き揚げ列車「同乗記」を掲載。駅々で婦人会らの湯茶接待や花束贈呈が行われたが、〈綾部では六、七歳の幼い子供たちの夕やけ小やけのいじらしい合唱が無残にもインターナショナル(ソ連旧国歌)にもみけされてしまった〉という。
ラーゲリの逆境に見えた〝卑屈〟
懐かしい唱歌に心を動かされた元将兵は多かったはずだが、記事は引き揚げ者のこんな声を拾っている。
〈むこうでは望郷の歌は一切歌えない。(中略)〝夕やけ小やけ〟を歌っていても〝そんな歌は階級闘争をマヒさせるものだ〟といって全く自由を封殺する〉
歌を禁じたのはソ連兵ではない。アクチブ(積極分子)と呼ばれ、収容所(ラーゲリ)で「民主運動」を担っていた同じ日本人だ。
ソ連は捕虜を効率良く働かせるため、旧軍組織を温存させた。元上官が下級兵を酷使し、食料を横取りした。その反発にソ連の思想教育が加わり、反軍、反ファシズム運動が起きた。毎日新聞社の元牡丹江支局長で兵士と共に抑留生活を送った北崎学記者が同年5月1日号でこうつづる。〈民主グループは(ソ連の)党のような恰好になった。この「党」が、幹部の粛清をやっている間はよかったのだが(中略)捕虜一般の「人間改造」に君臨するに及んで、そのスパイ政治は収容所内を縮み上がらせた〉
運動は47年ごろに活発化し、戦友という言葉を使っただけで「反動」扱いされた。大勢で一人を〝つるし上げ〟にする光景は公開中の映画「ラーゲリより愛を込めて」でも描かれる。帰国者選定に関わるとされたアクチブに逆らうことは家族との再会の約束を守ろうとする限り、難しかった。
〈逆境にあればあるほど団結するというのがふつうの判断だが、日本人の場合は反対であった。万事卑屈であった〉と北崎記者は書く。
異国の丘を知る者にしかできない筆遣いだろう。
(ライター・堀和世)
※記事の引用は現代仮名遣い、新字体で表記
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など