週刊エコノミスト Online サンデー毎日
ベトナムに開高健が見たヤマト人の戦争の〝逆説〟 1965(昭和40)年・十五年戦争の秘蔵写真公開
特別連載・サンデー毎日が見た100年のスキャンダル/46
米軍が北爆を本格化させ、ベトナム戦争が激化した1965(昭和40)年、毎日新聞が秘蔵していた「戦場写真」が公開された。満州事変から太平洋戦争まで銃後の日本人が見ることを許されなかった真実を前に作家・開高健の目は〝二つの戦争〟の間を行き来した。
本誌こと『サンデー毎日』1965(昭和40)年7月18日号の記事は〈これはベトナム戦争と同じだ〉という一文で始まっている。
前年のトンキン湾事件に乗じて米軍は北ベトナム爆撃(北爆)を行い、65年3月には地上軍を投入した。同年2月、生死を懸けた現地取材から帰国し『ベトナム戦記』を著したのが作家の開高健だ。〈銃弾に頭上一㌢のところをかすめられ、腰まで葦(あし)の沼地にひたって無名氏がふるえつつとった写真は、平和な国の市民たちの朝食のテーブルにはこばれる。ベトナム人の死体は夏だとワイキキ・ビーチ、冬だとシャモニのスキー場の写真といっしょに新聞紙に罐詰(かんづめ)にされている〉
開高は本誌同号の記事でそうつづる。新聞はもちろん、すでに普及率が9割を超えていたテレビによって戦場のニュースは日々、日本に伝えられ、消費された。
その血生臭い光景と「同じ」とは何あろう、かつて日本がした戦争だ。十五年戦争に従軍したカメラマンの写真が『毎日グラフ』別冊「日本の戦歴」(65年8月1日号)で公開されたのだ。同誌巻頭言にこうある。
〈ここに掲載されたものは毎日新聞特派員の撮影による二万四千三十八枚のネガから選んだものだが、そのほとんどが当時検閲当局から報道「不許可」となった〉
敗戦後、軍部から焼却命令を受けた戦場写真はひそかに守られ、毎日新聞大阪本社の地下倉庫に眠っていた。戦後20年を期して封印を解かれた歴史の断片を、本誌同号も大きく掲載し、当時の毎日新聞カメラマンの証言をもとに、開高がありのままの「戦争」を描き出す特集記事を組んだ。
〈まず、死体の写真が禁じられた。敵、味方を問わず、死体そのものがいけなかった。絶対いけなかった。(中略)機関銃で穴だらけになったのがいけなかった。手(しゅ)榴(りゅう)弾(だん)でちぎられたのもいけなかった。地雷で粉ごなになったのがいけなかった。日本刀で首を切りおとしたのもいけなかった〉
叫びに似た開高の筆致はレンズが〝何を見たか〟を物語る。〈けれど、何をしてもダメだった。シャッターをおしてもおしてもダメだった。(中略)それら膨大な数の瞬間は徹底的に銃後の日本国民の眼と脳に定着することを禁じられた〉
敵が見えない「押しボタン戦争」
開高はこんな証言を書き留めている。〈はじめのうちは隠しどりや何か、いろいろ苦心してとったりしたけれど、そうしたところでどうにもならないとわかってきたので、だんだんとらなくなった。ばかりか、すすんで国策にそうようとりだした。人に判断させないで、自分で判断、検閲してとりだすようになった〉
観兵式を撮影したカメラマンは軍から写真をもっと威風堂々とした絵柄にしろと命じられ、〈ノリとハサミで三十機くらいのを百機くらいに仕立ててだしたこともあった〉という。今なら……否、当時でも改ざんには違いない。絵作りのヤラセも横行した。〈どうしようもなかった。イヤなんだ。とてもイヤなんだ〉と絞り出すような声が載る。
日本人は日本の戦争を知らなかった。20~30年前の秘蔵写真にベトナム戦争の〝既視感〟を逆さまに抱いてしまうゆえんだ。〈ヤマト人は敵も味方も死体というものをまるで目撃しないで百年戦争だの、十五年戦争だのをやったのだった。銃後の国民についてはそうだった。死体どころか《鬼畜米英》の姿も見なかった。(中略)観念で憎ませられたのだった。《敵》の姿の見えない戦争だった。まるで押しボタン戦争ではないか?〉と開高は書く。
「敵基地攻撃能力」と勇ましい言葉が今、飛び交っている。その「敵」の顔を私たちは見る覚悟があるか。
(ライター・堀和世)
ほり・かずよ
1964年、鳥取県生まれ。編集者、ライター。1989年、毎日新聞社入社。ほぼ一貫して『サンデー毎日』の取材、編集に携わる。同誌編集次長を経て2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)、『小ぐま物語』(Kindle版)など