近代中国に貢献した李鴻章の“洋顧問=お雇い外国人”を詳述 菱田雅晴
モース、シーボルト、ヘボン、クラーク、ハーン……。これらの外国人名に共通するのが「お雇い外国人」というラベル。明治初期に日本政府等に雇用された外国人のことで、政治、法制、軍事、外交、金融、財政、産業、交通、建築、土木、開拓、科学、教育、美術、音楽など各分野で高給で雇用され、日本の近代化に大きな歴史的貢献を行った。
現代中国史でも、コミンテルン(1919~43年まで存在した共産主義運動の指導組織)から中国共産党に軍事顧問として派遣されたドイツ人、オットー・ブラウン(中国名は李徳)が“洋顧問”として知られているが、長征という苦難を招いたのも李徳の軍事指導の誤りだとの声もあり、評判は必ずしも芳しくはない。
一方、近代史分野では、洋務運動(近代化運動)を推進し、清末の外交を担った李鴻章にも“洋顧問”がいた。李鴻章は、梁啓超の評伝によれば、西洋人に対する「傲慢軽侮」が著しかったというが、その背後には、徳璀琳(Gustav Detring)および漢納根(Constantin von Hanneken)という二人の“洋顧問”の存在があった。
張暢・劉悦著『李鴻章的洋顧問 徳璀琳与漢納根』(社会科学文献出版社、2022年)が、2人の軍事、経済、外交、教育等各方面の改革への貢献を詳細に描き出している。
徳璀琳は煙台市での出会い以来、李鴻章の信任を得て、ロシアとのイリ交渉(清とロシアの国境協定)から李鴻章の対外交渉に参画、1894年の甲午戦争に端を発する日清戦争では李鴻章の秘密代表として伊藤博文との協議を行うなど、李鴻章の事実上の「外交部長」であった。
のみならず、徳璀琳は天津初の英字新聞『中国時報』創刊など天津の郵政事業、道路、緑地整備、学校開設等、天津租界建設の立役者でもあった。その徳璀琳の娘婿がドイツ人の漢納根で、李鴻章の軍事教官、副官として旅順口、大連湾、威海衛砲台の設計と建設に携わった。
著者は、独、英、米、伊の各地に広がる徳璀琳の末裔(まつえい)を訪ね、収集した大量のインタビューとデータに基づき、この野心的なドイツ青年が中国の軍事、経済、外交、教育の改革に参加し、個人として成長し、自らのキャリアを深める過程を描き出している。
(菱田雅晴・法政大学名誉教授)
この欄は「永江朗の出版業界事情」と隔週で掲載します。
週刊エコノミスト2023年6月13日号掲載
海外出版事情 中国 李鴻章のお雇い外国人の貢献を詳述=菱田雅晴