国際・政治 ウィーン再発見
①クリムトやシーレの名画は1873年ウィーン万博の日本の「型紙」から影響を受けていた!(編集部)
2023年5月21日~25日、欧州オーストリアの首都ウィーン市の観光局が主催したプレスツアーに参加した。このツアーのテーマは、「ビジョンと新しい門出」である。
ウィーンは今年2023年に、1873(明治6)年に開催されたウィーン万国博覧会から150周年を迎えた。実はこのウィーン万博、単に博覧会が開かれただけでなく、この催しを契機に、ウィーンが近代都市に生まれ変わる大きなきっかけともなった。
欧州にジャポニズムの大旋風
同時に近代国家として産声を上げたばかりの日本にとっても大きな意味を持つイベントであった。この万博で明治政府は国家の威信をかけて、日本をアピールする数々の展示品を出品。その存在を欧州各国に印象付けただけでなく、展示された様々な美術品、工芸品、日用品等は、欧州にジャポニズムの大旋風を巻き起こし、グスタフ・クリムトなどで有名なウィーンの世紀末芸術にも大きな影響を与えたのだ。
こうした理由から、ウィーン市では今年の観光テーマを「ウィーン万博150周年」に定め、3年間のコロナ鎖国を経て、再び「西洋が東洋に出会う」機会として、日本の観光客の誘致に努めている。週刊エコノミストでは、オンライン版や誌面で、複数回に渡って、コロナ明け後のウィーンの最新ツーリズム事情を伝えていく。
パリ万博の5倍の広さ
まずは、ウィーン万博の概要について説明したい(以下は、「たばこと塩の博物館」が2018年11月~19年1月に開いた特別展「ウィーン万国博覧会」の解説書などを参考にした)。ウィーン万博は、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世の在位25周年を記念して、1870年5月に開催が決定された。そして、1873年5月1日から10月31日まで、シュテファン大聖堂などがある市中心部から東に位置し、ドナウ川に面する「プラーター公園」で開かれた。会場の敷地面積は2.33平方キロメートルあり、1867年のパリ万博の5倍の広さだった。万博のテーマは、「文化と教育」であった。
2万7000人収容の巨大ドーム「ロトゥンデ」
会場中央には、「ロトゥンデ(円形建築)」と呼ばれる巨大な掩蓋を持つメーン会場が造られた。この建物は当時、世界最大の2万7000人が収容可能だった。万博には、世界の35カ国の計5万人の出展者が参加。展示パビリオンの数は200弱に達した。
オーストリア・ハンガリー帝国から出展の招致を受けた明治政府は、新生日本をアピールする好機ととらえ、1871(明治4)年に参加を決定。日本側の博覧会総裁(責任者)は大隈重信、副総裁は佐野常民であった。二人とも佐賀(鍋島)藩の出身である。
日本から鎌倉大仏や金の鯱を出品
ウィーンの万博事務局からは、各国に事前に26項目からなる目録が渡された。この目録に沿って、出品してほしいという要望書である。第1項目の「鉱業」、第2の「農業」から始まり、第10は「装身具」、第12は「書画」、第19は「都市住居」、第20は「郊外住居」、第25は「美術」、最後の第26項目は「教育」である。
日本の出品はこの目録に沿い、多岐に渡った。皮革、和紙、絹製品、漆工芸、陶磁器などの美術工芸品のほか、家具、生活具、農具、楽器などだ。また、紙でできた鎌倉大仏の実物大の張り子、名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)の模型、谷中天王寺五重塔のひな形など巨大な展示物もあった。
皇帝とエリザベート皇妃が日本庭園を訪れる
さらに、会場の一角には日本庭園が造成され、池に渡した太鼓橋は同年5月5日、皇帝とその妻で絶世の美女と言われたエリザベート皇妃が渡り初めをした。また、大豆が欧州に初めて紹介されたのも、この万博の日本パビリオンにおいてだった。
ウィーン万博はその期間中、世界中から725万人もの来場者があったという。その中でも、展示内容の水準の高さと充実度、そして異国情緒の濃さで、日本パビリオンは高い人気を博した。
「在庫処分」で展示品は欧州に残る
万博の閉幕後、日本の派遣団は、万博の費用をねん出するため、日本から運んだ展示品を現地で売却した。日本が万博に費やした費用は58万8381円(展示物品の購入費用と輸送費が約30万円、派遣団の滞在費用が21万円など)だったが、展示物の売却で約10万円の収入を得ている。この「在庫処分」のおかげで、当時の日本パビリオンの貴重な展示物は、ウィーンの博物館などに数多く収蔵され、現在の日本人も目にすることができるのだ。
今回、記者団一行が訪れた「ウィーン世界博物館」も、当時の展示品を収蔵する博物館の一つである。市内の新王宮の一部として1876年に開設され、2017年10月にリニューアルオープンした。民族・自然史博物館として、世界中から25万点もの民俗学的展示物を所蔵している。常設展は14あり、その一つが、「1873年:日本のヨーロッパ進出」だ。案内をしてくれたのは、東アジア担当の学芸員(Curator)のベティナ・ツォルンさん。1995年からこの博物館で働いており、今回の日本の常設展示の発案者でもある。
展示室の巨大な大名屋敷の模型
展示室に入ると、大名屋敷の巨大な模型が目に飛び込んでくる。万博の目録の第19項目「都市住居」に該当するものだ。ツォルンさんによると、「日本の万博事務局が、浅草に1826年創業のミニチュアづくりをする『武蔵屋』に発注して作らせたものです」と説明する。製作は1872年だ。時代は江戸から明治に移っていたが、東京にはまだ、このような大名屋敷が数多く、残されていた。
模型の土台部分には、「武家ひな形」という発注当時のラベルが毛筆で書かれている。これでも、実物の20分の1の大きさという。大名屋敷の正門の裏には、母屋のほか、能楽堂、火の見櫓(やぐら)も見られる。非常に細かい部分まで正確に再現されており、当時の職人の腕の確かさが伝わってくる。
地元紙で話題となった「火の見やぐら」
「どの大名屋敷がモデルになったのか」との私の質問に対し、ツォルンさんは、「特定の大名屋敷をモデルにしたわけではありません」と語る。当時、まだ存在した複数の大名屋敷を参考にしながら制作したようだ。ただ、屋敷内の能楽堂の製作では問題が生じたという。武蔵屋はある大名に、屋敷内にある能楽堂の寸法を測らせて欲しいと申し出たが、断られてしまった。そこで、一般公開されている能楽堂をモデルにしたというエピソードが伝わる。また、火の見やぐらは、地元で話題を呼び、1873年6月5日付の消防士の専門紙に記事が掲載された。
多大な影響を与えた日本の「型紙」
さて、この大名屋敷の模型以上に、当時のオーストリア・ハンガリー帝国の芸術家たちに影響を与えたものがある。それは、日本の「型紙」だ。型紙とは、着物に複雑な模様を染色する際に使う切り抜かれた紙の型のことを示す。
ツォルンさんは、「日本の装飾の複雑で平面的な表現方法が、オーストリア・ハンガリーの芸術家に多大な影響を与えたのです」と強調する。
クリムトなどが「型紙」を取り入れる
19世紀末のウィーンでは、「ユーゲント・シュティール」という新しい芸術の波が勃興していた。ここで、重要なのは、「フローラル・オーナメント」という花や草木をモデルにした装飾要素だ。これは、グスタフ・クリムトの絵画などに数多く用いられている。実は、このアイデアは、ウィーン万博で日本からもたらされた「型紙」に由来するのだ。
この世界博物館には型紙が数百点所蔵されていて、常設展にも展示されている。菊や牡丹、松などの文様が非常に細かく切り抜かれているのが分かる。「当時の欧州にも布地を作るため型紙はありましたが、これほど複雑、繊細で、かつ多様なものはありませんでした」(ツォルンさん)。ウィーンの芸術家たちはこの東洋の型紙に魅了され、独自の表現手法を生み出していった。
ウィーン名物駅舎の「ヒマワリ」の装飾
ツォルンさんが代表例として挙げるのは、19世紀のウィーンを代表する建築家のオットー・ワーグナーだ。彼は、1873年の万博でパビリオンの建設に関わっていた。ワーグナーはここで日本の型紙を目にする。ここからインスピレーションを得て、設計したのが市中心部にあるカールス・プラッツ駅の駅舎だ。駅舎の入り口部分のひさしの下に、ヒマワリをモチーフにした装飾が描かれている。「当時、型紙に切り抜かれた菊の花をオーストリア人はよく知りませんでした。そのため、代わりにヒマワリを用いたのです」(ツォルンさん)。
エゴン・シーレの絵画にも
ウィーン世紀末芸術の代表ともいえるクリムトも同様だ。クリムトたちは1897年、ウィーンの当時の保守的、復古主義的な美術家協会を脱退し、「セセッシオン(分離派)」の名前で新たな芸術家団体を設立した。その分離派の拠点となったのが同名の建物である「セセッシオン(分離派会館)」である。この建物自体の装飾も、また、そこに収められているクリムトの壁画も、ユーゲント・シュティールの特徴であるフローラル・オーナメントで彩られている。ちなみに、日本で人気が高いエゴン・シーレも分離派の影響を大きく受けた画家である。
ウィーン市内では至る所で、このユーゲント・シュティールの装飾や芸術品を楽しむことができる。また、それがウィーン観光の醍醐味である。そして、その源が実は日本にあることを知れば、なぜ、我々、日本人がクリムトやシーレの絵画に熱狂し、親近感を覚えるのか、腑に落ちるはずだ。
(稲留正英・編集部)