国際・政治 ウィーン再発見
④皇帝御用達のグラス、皇妃エリザベートの愛した「星」――ハプスブルク王朝で花開いた美術・工芸品を巡る
ウィーン万博では、ハプスブルク家とゆかりの深い美術・工芸品も花開いた。
シャンデリアとグラスの名門「ロブマイヤー」
1823年創業のJ.&L.ロブマイヤーは、手作りのシャンデリアやグラスのガラス製品で知られる。1835年からハプスブルク家御用達だ。
市内のベルヴェデーレ宮殿に程近い工房を、総支配人のレオニード・ラートさんが案内してくれた。ラートさんは1823年に創業したヨーゼフとアロイジアのロブマイヤー夫妻から数えて6代目だ。2代目のルードビッヒ・ロブマイヤーから3代目に代替わりする時に、ルードビッヒの妹の息子であるシュテファン・ラートが店を継いだため、以来、ラート家がロブマイヤーを経営している。今では、レオニートさんがグラス担当、従兄弟のヨハネスさんがシャンデリア担当、従兄弟のアンドレアスさんが市中心部のケルントナー通りの本店担当とラート家の3人の従兄弟で役割を分担し、責任者を務めている。
万博で巨大ブースを出展
初代のヨーゼフ・ロブマイヤーは、当時のウィーンの中流階級の間に流行した「ビーダーマイヤー様式」のガラス製品を製作、1835年にはハプスブルク家に収めるグラス類を製作した。1840年からはシャンデリア製造にも乗り出した。これらのシャンデリアはウィーンのホーフブルグ王宮、シェーンブルン宮殿、ベルヴェデーレ宮殿に飾られている。
2代目のルードビッヒは、オーストリア・ボヘミアガラス界で最も重要な人物の一人となり、1873年のウィーン万博でロブマイヤーは巨大なブースを出展した。「リンク通りの開通と万博により、新宮殿や離宮などの建設ラッシュが起こり、シャンデリアの需要が大きく膨らんだのです」(レオニードさん)。1883年には世界で初めて電飾のシャンデリアを作り、王宮やホテル・ザッハーに納入した。
ルードビッヒはグラス製作にも力を入れた。「1856年に製作した非常に薄いムスリンのワイングラスの『4番セット』はワイングラスのスタンダードとなり、いまだに製造されています」(本店のアンドレアスさん)。
1914年にモダングラス「Bシリーズ」
その次の代のシュテファン・ラートは、1912 年にオーストリア工作連盟を設立。ヨーゼフ・ホフマン、アドルフ・ロースら「ユーゲント・シュティール(ウィーン分離派)」を象徴する「ウィーン工房」のアーティストたちと協力して、クラシックモダンなデザインを生み出した。直線を基調とした1914年のグラス類「Bシリーズ」はその代表作だ。
その息子のハンス・ハラルド・ラートは、シャンデリア作りに力を入れ、1966年「星の爆発」の愛称で知られるニューヨークメトロポリタン歌劇場のシャンデリアを製作した。
ハンス・ハラルドが1968年、鉄道事故で突然世を去ると、その3人の息子が後を継いだ。そして、2000年から3人の息子の子供たち、つまり、レオニートさんら3人の従兄弟が共同でロブマイヤーを経営している。
一貫して「手作り」を追求
オーストリアのガラス製品と言えば、日本ではスワロフスキーやリーデルがよく知られている。しかし、ロブマイヤーは機械による大量生産と一線を画し、手作りを貫いている。「サステナビリティ(持続可能性)」にも配慮し、グラスの制作では鉛の代わりに環境負荷が少ないアルカリを使う手法を使っている。環境をテーマにした2008年の洞爺湖サミットの晩さん会ではロブマイヤーのグラスが使われた。
創業200周年を記念し「人間性のポカール」製作
工房では、200周年を記念して、7種類からなる新しいデザインのポカール(大杯)を製作していた。テーマは「人間性のポカール」といい、それぞれのグラスが好奇心、共感、勇気など、人間の七つの特性を表す。今回、見せてもらったグラスには、人間の三半規管がデザインされていた。「昔の紋章は権力を象徴していましたが、現在の紋章は人間性を示すのです」(レオニード・ラートさん)。
市中心部のケルントナー通りには1895年当時の古い内外装を復元した本店が1980年から置かれている。ここでは、ウィーン万博で飾られた鏡やハプスブルク家のために製作されたグラスセット、初の電飾のシャンデリアなどを見ることができる。
ハプスブルク家御用達の宝石商「ケッヒャート」
ロブマイヤーの本店に程近い、ノイヤーマルクトには、同じくハプスブルク家御用達だった宝石商A.E.ケッヒャートがある。こちらは、1814年創業とさらに歴史が古い。1831年からハプスブルク家御用達で、王家の人々が身に着ける宝飾品や王冠を一手に引き受けてきた。
皇妃エリザベートを魅了した「星の宝石」
6代目のクリストフ・ケッヒャートさんが店を案内してくれた。「当社の製品で、一番有名なのは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の妻、エリザベート皇妃のために製作した『エリザベートの星』でしょう」とクリストフさんは語る。最も知られているエリザベート肖像画の中で、長い髪に飾られた星の形をした宝石のことだ。この宝石は、皇帝と皇妃がモーツアルトのオペラ「魔笛」を鑑賞したことがきっかけで誕生した。「夜の女王のアリア」でオペラ女優が星がちりばめられた衣装を着ており、それを見た皇妃は皇帝にその宝石を所望。皇帝は2代目のアレクサンドル・エマニュエル・ケッヒャートに「27個の星」を注文し、1858年に製作された。白金とダイヤから成るこの宝石は今でも定番で、日本人の間でも人気が高いという。
万博で「真珠のティアラ」が1等受賞
ケッヒャートは1873年のウィーン万博の際、新王宮、楽友協会や国会議事堂を設計した建築家のティル・ハンゼンのデザインしたティアラを出品した。それまでの伝統的なバロック様式とは違い、天然の真珠で飾られたオリエンタルなデザインが評判を呼び、万博で1等を受賞した。このティアラは万博直後の金融危機で、結局、買い手がつかなかったため、真珠を取り外して、解体されてしまったが、イランの首都テヘランの国立博物館に、真珠の代わりにダイヤモンドが施された同じデザインのティアラがある。「イラン国王は万博の時にウィーンに来たので、その時に当社に発注したのではないか」とクリストフさんは推測する。ケッヒャートの店舗自体も、ティル・ハンゼンが設計し、万博の年の1873年に今の場所にオープンした由緒のあるものだ。
地中から再発見されたエリザベートの宝石
ケッヒャートはハプスブルク家の末裔とはいまだに付き合いがある。クリストフさんは、ある宝石にまつわるエピソードを教えてくれた。この宝石は皇妃エリザベートが所有し、子供であるハンガリーの貴族に受け継がれた(エリザベートはハンガリーの女王でもあった)。その貴族は、第2次世界大戦の敗戦で、ソ連軍に故郷を追われたが、宝石を持ち出すことができず、ハンガリーの邸宅の庭の杉の木の根元に埋めた。その話を聞いた孫たちがベルリンの壁崩壊後に、うっそうとした森となっていた庭を金属探知機で探したところ、50年ぶりに金属の箱に収められていた宝石を地中から発見した。その孫は、クリストフさんの友人で、その宝石をケッヒャートに持ち込んだという。
店の2階には、創業以来の宝石の意匠1万5000枚が収められており、宝石は120年前からの工作機械を大切に使いながら、いまだに2階で製作されている。クリストフさんは、ケッヒャートの特徴について、「創業から200年以上、まさにウィーンの歴史とともに歩んできたこと。そしてその伝統を守り、技を支える工房があることです」と語る。
(稲留正英・編集部)