経済・企業 ウィーン再発見
②現代ウィーンの礎を築いた1873年万博は「金融バブルの崩壊」で開催直後は“落第点”だった
日本人にとって、ウィーンは栄華を誇ったオーストリア・ハンガリー帝国の古都のイメージが強い。華やかな宮廷文化が栄え、年始の「ニューイヤーコンサート」でもおなじみのウィーナーワルツを貴族たちが躍るあのイメージである。
しかし、ウィーンは同時に革新の街でもある。今回のプレスツアーはウィーンの「伝統と革新」を再発見する旅だ。前回、紹介したように1873年のウィーン万博をきっかけに、日本の「型紙」文化とウィーンの新進芸術家たちが出会い、「ユーゲント・シュティール」という世紀末芸術の大きな流れを生み出した。
皇帝の狩猟場だった万博開催地
こうした想いから、ウィーン市観光局は今回のツアーのため、あえて、旧市街ではなく、万博が開かれたプラーター地区に宿を用意した。この地では、150年前と同様に大規模な再開発が進行し、21世紀のウィーンの顔となりつつあるからである。
プラーター(Prater)はラテン語の語源「草原(Pratum)」が示す通り、かつてドナウ川の氾濫水が流れ込む低湿地で、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝の狩猟場であった。1766年に皇帝ヨーゼフ2世が、6平方キロメートルに及ぶこの広大な土地を市民に下賜し、その一角に、自然発生的に食堂やブランコ、メリーゴーランド、ボーリング場などから行楽地区「ヴルステルプラーター(Wurstel Prater、Wurstelは道化師の意味)」が出来たのを起源とする。
連合軍の爆撃で焼け野原に
1870年の万博の開催決定を契機にドナウの氾濫を抑えるため、1870年から河川の流れを直線にする大規模な改修工事が行われ、万博会場として整備された。万博後の1895年には一部に遊園地が開設され、その大観覧車はウィーンの新しいランドマークとなった。しかし、第2次世界大戦で、プラーターの大部分は連合軍の爆撃や塹壕の建設で破壊され、遊園地も大観覧車などを除いて焼失した。戦後、遊園地は再開されたが、残りの広大な敷地は、戦後も長く荒れたままだった。
2000年代から再開発がスタート
この荒れ地の再開発が始まったのは2000年代に入ってからだ。2004年に国際展示場「メッセウィーン」がオープン、2013年には約2万人の学生が学ぶウィーン経済大学のキャンパスが開かれた。そして、現在、国際展示場、大学に隣接する地域に、「フィアテル・ツバイ(第2地区)」と呼ばれる職住一体型の新しい街区の開発が進められている。
プラーターの「過去と現在」をめぐる
宿泊したホテル「Zoku(ゾク:日本語の“族”に由来するという)」は、今のプラーターを象徴するような現代的なシティーホテルだ。採光に優れた明るい室内は長期滞在用のキッチンやロフト型のベッドを備える。ロビーやレストランで働くスタッフも米国人など国際色豊かだ。8階のロビーフロアには大きなバルコニーがあり、ここで、遊園地、そしてその奥に旧市街を一望できる。バルコニーはパーティーが開ける大きさがあり、実際、夜にはミニコンサートが開かれていた。ホテルのスタッフ、そして、宿泊客も若い人が多く、活気に満ちている。
ツアーの1日目は、このホテルを拠点に、プラーターの過去と現在をめぐる取材から始まった。案内をしてくれたのはオーストリアの公認ガイド、カリン・ヘーフラーさんだ。カリンさんはウィーン大学で日本語を学び、京都にも留学したため、日本語は堪能だ。
110メートルスクリーンの巨大パノラマ施設
最初に向かったのが、ホテルに隣接する遊園地に建設中の新アトラクション「パノラマウィーン」の工事現場だ。これは、高さ33メートル、直径36メートルのパノラマ上映をする巨大な建物で、110メートルのスクリーンで歴史的な都市景観、オーストリアの自然風景などのパノラマ映像を映し出す。ウィーン万博のメーンの建物だった「ロトゥンデ」をイメージしたという。年内にも完成する予定だ。このほかにも、遊園地内には、プラーターの歴史を紹介するプラーター博物館が2024年に開設される予定だ。
ザハ・ハディド氏設計の「宇宙船」
公園内の通りを南東に進むと公園の緑が切れたところで、左手に国際展示場のホール、右手にウィーン経済大学が見えてくる。ここから、ウィーン経済大学のキャンパス内を進むと前方に、上層部がひさしのように大きく張り出した近未来的な建物が見えてくる。東京五輪の新国立競技場の入札で名前が挙がったザハ・ハディド氏が設計した「図書館・学習センター」だ。内部に入ると、宇宙船のような光景が広がっている。入口からすぐのホールでは、経済学の授業が行われていた。
ハディド氏の建物の真向かいには、仙台出身の建築家、阿部仁史氏が設計した建物がある。白黒の外観はミルフィーユをイメージしたというが私にはピアノの鍵盤に見えた。建物には、大学の書店などが入っている。キャンパス内には、ラベンダーに似た紫色の花がある植物が植わっており、広々として気持ちがよい。
焼失した巨大ドーム「ロトゥンデ」
このキャンパスを抜けた広場に、かつて、万博のメーン会場だった巨大ドーム施設「ロトゥンデ(円形建築)」があった。高さ84メートル、直径108メートルの当時、世界最大級の建造物は、万博後も取り壊されず、様々な催し物の会場として長らく使われた。しかし、1937年9月に火災で焼失した。現在では、芝生の植わった広場の地名表示板に「Rotundenplatz(ロトゥンデンプラッツ」の名前を残すのみである。
万博は皇帝の「イメージアップ」のため
カリンさんは、ここで、万博が開催された当時の時代背景を説明してくれた。「この少し前に、ハプスブルグ家は二つの戦争(イタリア統一戦争、普墺戦争)で敗北しました。そこで、イメージアップのために万博を開いたのです」。万博はウィーンで5回目だったが、その前の4回は英仏で開かれており、ドイツ語圏では初めだった。皇帝の権威を示すため、会場の広さはその前のパリ万博の5倍。日本、中国、エジプト、モロッコなど、初めて参加した国が多くあった。
旧城壁の跡地に、現代の観光名所の数々を建設
この万博を契機に、ウィーンでは旧市街を囲む中世の城壁が取り壊され、その跡地にリンク通りが開通し、それに沿ってオペラ座や楽友協会、新王宮、国会議事堂など現在のウィーンを象徴する数々の建物が建設された。万博はまさに、ウィーンが近代都市に生まれ変わるための原動力だった。
だが、意外にも万博直後のウィーン市民の受け止め方は批判的だったという。実は、万博の開催決定をきっかけに、オーストリアでは「万博バブル」が発生していた。投機家が街に押し寄せ、食料や不動産価格が高騰した。大家が住居を来場者に貸し出すために、多くの借家人が住まいから追い出された。開会式の入場料は、労働者の週給の3倍に達した。
金融危機とコレラで「万博バブル」崩壊
1873年5月1日の開会式で皇帝フランツ・ヨゼフ1世は「余は大いに満足している。博覧会の成功のために最大限の助力をする」と宣言した。しかし、その8日後に、突然、バブルが破裂したのである。
「5月8日に一つの大きな銀行が倒産し、その日の午前だけで、100以上の小さな銀行が潰れたのです」(カリンさん)。取引所は閉鎖され、警察が出動する大騒ぎとなった。追い打ちを掛けるように、7月には万博用のホテルでコレラが発生、宿泊客8名が死亡したことで、パニック的な万博旅行のキャンセルが発生した。コレラでは最終的に3000人弱が死亡した。
世紀の万博は大幅赤字に
この二つの出来事で、万博の来場者数は当初の1500~2000万人の見込みを大幅に下回る725万人にとどまり、万博は今の貨幣価値で1億6000億ユーロ(約240億円)の巨額の赤字を計上したという。
しかし、万博により、リンク通りにオペラ座や楽友協会など現在の観光名所の数々が出現し、改修されたドナウ川は氾濫が減り、アルプスの水を運ぶ上水道の完成により、コレラは発生しなくなった。後世から見れば、フランツ・ヨゼフ1世の決断は正しかったのである。
「フィアテル・ツバイ」に1万5000人の街が誕生
そして、現代のプラーターでは、ロトゥンデの跡地に程近い「フィアテル・ツバイ」で21世紀のウィーンの礎を築くべく、開発が進んでいる。複数の高層ビルがあるオフィス部分では、26企業の4000人以上が働く。中心部には広さ5000平方メートルの人口池があり、周囲には松の木などが植えられ、仕事に疲れたら木陰で休むことができる。地区で使われるエネルギーの85%が太陽光などの再生エネルギー由来。地区内での移動は基本的に徒歩と自転車で、サステナビリティ(持続可能性)に配慮した設計だ。雨水を吸収するために、地下はスポンジ状の構造になっている。今後、高さ120メートルと、90メートルの高層ビルの建設が計画されている。地区には、働く人の家族のために小学校や幼稚園が設置されており、26年までにはこの地域における居住者は1万5000人に拡大することが見込まれている。
「第3の男」に登場の大観覧車
プラーターのツアーの最後は、大観覧車(RiesenRad)の乗車で締めくくられた。この観覧車は、映画「第3の男」で、オーソン・ウエルズの演ずる悪党ハリー・ライムと、その友人で売れない西部劇作家のホリー・マーティンスが劇的な再開を果たす場面で使われていることで有名だ。直径は60メートル、最高点の高さは65メートル。元々、30両の客車があったが、1944年の空襲で鉄骨部分を残しすべて焼け落ちた。戦後、復旧したが、コストの関係で客車は15両しか製作されず、客車と客車の間に、取り付け支持部が残されている。
毎秒0.75メートルでゆっくりと回る観覧車の頂上部分からは、旧市街のシュテファン大聖堂などが望める。反対側には、1971年の第2次ドナウ川改修でできた国連都市のビル群が見える。素晴らしい景色である。運賃は大人13.5ユーロ。ウィーン観光の際は、ぜひ、訪れたい。
(稲留正英・編集部)