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「館林の皇太子妃」の謎 美智子さま祖父の起業 社会学的皇室ウォッチング!/91 成城大教授・森暢平
10月20日に89歳を迎えた美智子さまの出身は正田家。その正田家の本家は群馬県館林市にある。美智子さまの祖父貞一郎(1870~1961年)は館林に育ち、1900(明治33)年、「館林製粉」(日清製粉の前身)を起業した。館林の人口は当時約9千人。市制は敷かれておらず、まだ邑楽(おうら)郡館林町であった。小さな町の閨閥(けいばつ)が、皇太子妃を輩出するまでの創業家に成長したのはなぜだろうか。
幕末から明治中期まで正田家の当主は三代目正田文右衛門である(1818~95年)。正田家は代々米穀商を営んでいたが、文右衛門は明治になると醤油醸造業に転業した。いまの正田醤油である。その次男が作次郎で、跡取りでないがゆえ分家して横浜で外米輸入の仕事を行っていた。その長男が貞一郎である。
ところが、貞一郎が生まれた直後、作次郎は亡くなってしまう。貞一郎は母とともに館林に戻り、祖父にあたる文右衛門に育てられた。その後、貞一郎は上京して高等商業学校(高商、いまの一橋大学)に入学し、1891年に卒業した。貞一郎は外交官志望であった。しかし、ちょうど正田本家で男子が亡くなったこともあり、文右衛門から館林に戻り醤油醸造業を手伝うように告げられた。20代の貞一郎は、高商で学んだ複式簿記を取り入れたり、動力となる蒸気機関を導入するなど家業を次々と改革した。貞一郎はまた地域活動にもかかわった。1897年、地域の実業家たちと「館林実業談話会」を立ち上げ、地域の商工業振興のためのフォーラムとした。
実は、館林は人口こそ多くなかったが、利根川と渡良瀬川にはさまれた水運の盛んな地域であった。江戸時代から明治中期、舟運を使えば物資は素早く江戸に送ることができた。このため商業が盛んで、県都前橋より先に銀行(第四十国立銀行)が設立されたほどである。
もう一つ、いまの群馬や栃木にあたる地域では江戸時代から小麦栽培が盛んであり、石臼や水車を利用した製粉が行われていた。醤油づくりには小麦が必要で、貞一郎は小麦調達の仕事にも当たっていた。
製粉業には未来がある
明治中期、交通の主力が船から鉄道に移行する時期にあった。ところが、前橋から栃木県小山に至る両毛鉄道(現在のJR両毛線)は館林を外れてしまった。「館林実業談話会」に集った若手実業家たちは、地域経済の将来を真剣に憂慮したのである。
1899年、貞一郎は高商時代の恩師で、実業家に転身していた土子金四郎を「館林実業談話会」の講師に呼んだ。土子は留学経験があり、欧米の会社経営に詳しかった。小麦を使った起業について、貞一郎は土子に相談した。その答えは、「製粉業には将来がある。海外では立派な事業として成り立っている」であった。
当時の日本の製粉は小規模だった。明治中期になると、パンや洋菓子などを食べる習慣が日本にも広がったが、使われたのは海外から輸入された小麦粉。米国から輸入されるので、「アメリカン」がなまった「メリケン」粉と呼ばれ、国産品と比較すると品質がずっと高かった。貞一郎は、機械製粉技術を取り入れれば海外製品に負けない小麦粉がつくれると確信し、館林で製粉業を興(おこ)すことを決断したのである。前述したように、米国の製粉機を輸入して「館林製粉」を設立したのは1900年。貞一郎、30歳の秋であった。
貞一郎は1907年、さらに重大な決断を下す。横浜市にあった旧日清製粉を吸収合併するのである。合併した場合、合併した側の企業の名前とするか、新しい名前にすることが多い。しかし、貞一郎は社内に反対があるなか、「館林製粉」の名を捨て、合併される側の日清製粉を新しい社名とすることを決断する。「館林製粉」だと地方の企業というイメージになってしまうが、「日清」であれば国際的な名前となり、普遍性もある。貞一郎らしい決断であった。同じ年、館林にようやく鉄道(東武鉄道)が開通し、貞一郎は本社を東京・日本橋に移す。
グローバル企業へ
経済史研究では、1890年代後半の会社設立ブームを「第二次企業勃興」と呼ぶ。それ以前の新興企業は東京、大阪などの大都市が多かったが、「第二次企業勃興」ではブームが地方に拡散した。起業の「地方の時代」だと言える。それらの企業は日露戦争前後から、都会の大資本に吸収されてしまうことが多い。ところが、「地方の時代」に生まれた「館林製粉」は、時代の潮流とは逆に、地方から東京に進出して成功を収める珍しい例だと言えよう。
貞一郎は42歳だった1913年、4カ月にわたる欧米視察を行う。とくに感動したのは、英国マンチェスターの製粉工場見学であった。工場の岸壁に大型汽船が横付けできる施設があり、さらに、原料小麦が真空吸揚機を使って吸い上げられていた。貞一郎は「これこそが日本が必要とする技術だ」と目を見張った。
帰国した貞一郎が1926年、神奈川県鶴見に完成させたのは、1万㌧の大型船が横付けできる臨海大型工場(鶴見工場)であった。大型サイロ、真空吸揚機など欧米で見た施設を日本で実現し、当時、東洋一の製粉工場と呼ばれた。ここでつくられた小麦粉は、中国大陸にも輸出され、欧米製品に負けない品質と価格で国際競争力を保った。
館林発祥の日清製粉は創業者一代で大企業に発展した。江戸時代から小麦の生産地であった館林で身を起こした貞一郎は製粉が将来、重要産業となることを見抜き、果敢な投資で企業を育てていったのである。
美智子さまも戦中の一時期、館林に疎開した。ご成婚が決まった1958年11月27日、館林市では花火が打ち上げられ、中学生のブラスバンドが市中を行進した。沿道は「黒山のひとだかり」で「バンザイの声はいつまでも響き渡った」(『週刊サンケイ』58年12月14日号』)。正田家の地元館林市は、「わが町の皇太子妃」誕生に大いに盛り上がったのである。ご成婚当時、美智子さまを「粉屋の娘」と低く見る視線があった。しかし、日清製粉は、従来の「粉屋」イメージとは隔絶したグローバル企業に成長していたのである。
※『正田貞一郎小伝』、日清製粉の社史類、一橋大学高柳友彦講師の研究などを参照した。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など