週刊エコノミスト Online サンデー毎日
議員失格(下) こうしてボクは底なしの奈落に誘われていった 水道橋博士の藝人余録/6
水道橋博士が本誌だけに告白
水道橋博士が議員辞職するまでの経緯を明かして大反響の入魂エッセー、後篇。当選した博士を待っていたのは、全体像をつかめぬ激務、コロナ罹患、虐殺者役の映画出演だった。さらに、博士が掲げる反スラップ訴訟法制定は暗礁に乗り上げる。政治のデーモンに翻弄された、1人の藝人の赤裸々な軌跡。
先週号から引き続き、自分の懺悔(ざんげ)の値打ちもない「議員失格」の話を書き綴(つづ)っています。
コロナ罹患、分刻みのスケジュール、国民の負託の重圧… 現実はリベラル、映画では極右の虐殺者に引き裂かれた
2023年7月10日の投開票を経て晴れて参議院議員に就任したボクは議員会館の714号室をあてがわれました。12年に建て替えられた議員会館の高層階は国会を見渡す眺望、内装も広々と新しく、大きな窓からは新天地への希望の陽(ひ)が降り注ぐようでした。
その一方で体調は真夏の選挙の反動なのか疲労感が抜けない下降気味のまま3日後の7月13日にはコロナの陽性が発覚します。ボクの選対チーム全員がこの時期に罹患(りかん)しているので選挙期間中の街宣車で蔓延(まんえん)していたのでしょう。西新宿のアパホテルに用意された隔離病棟にひとりで10日間を過ごしました。このコロナ陽性のため7月に予定されていた、ボクが主役を務める映画のスケジュールが全て飛んでしまいました。ボクの地元の岡山にセットが組まれ実家でもロケが予定されており、スタッフ&キャストは既に現地に前乗りしていただけに、当日ドタキャンは関係者に合わせる顔がないと思うほど深く落胆しました。
隣席にはガーシーの黒い名札が
またその頃、選挙前からの芸能の仕事は全てが終了することになり、10年以上も編集長を務めた『水道橋博士のメルマ旬報』も急遽(きゅうきょ)、廃刊になりました。発行元が博報堂なのだからこれは仕方ありません。
また自分が設計した一軒家で20年間も住み続けて、終(つい)の棲家(すみか)だと思っていた自宅を売り、世田谷へダウンサイジングして引っ越すことにもなりました。これも様々な金銭的事情によるもので出馬とスラップ訴訟の余波の一つですが、選挙が人生を賭けた乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負であることの所以(ゆえん)でしょう。
それらの環境の変化とコロナ後遺症的な不調を抱えながら8月3日からの3日間、臨時国会が召集されました。この国会は参院選で新たに選ばれた議員のお披露目会と言うべきセレモニーです。
例年、新人議員はテレビカメラに囲まれ、議席の出欠の点灯ボタンを押すシーンはお馴染(なじ)みの光景です。本会議場へ入ると驚くことにボクの座席は一番前であり、扇の要の真ん中、スター・ウォーズに出てくるミレニアム・ファルコン号の操縦席のような場所でした。隣席にはガーシーの黒い名札が墓標の如(ごと)く立っていました。
この日、ボクの三つの委員会所属が発表されました。ただしボクは議員になる前に委員会についての事前知識が乏しいままでした。何故(なぜ)ならテレビ中継される予算委員会くらいしか認識がなかったのです。ざっくりと説明しておくと――。
委員会には、常任委員会と特別委員会とがあり、常任委員会は、参議院では、内閣、総務、法務、外交防衛、財政金融、文教科学、厚生労働、農林水産、経済産業、国土交通、環境、国家基本政策、予算、決算、行政監視、議院運営、懲罰の17の委員会がある。衆議院にもほぼ同様の委員会がある。議員は少なくとも一つの常任委員となることになっている。
特別委員会は、会期ごとに各議院で必要と認められたときに、その院の議決で設けられる。
常任委員会及び特別委員会の委員は、各会派の所属議員数の比率に応じて割り当てられ、各会派から申し出た者について、議長の指名によって選任されることになっている。委員会は、予算・条約・法律案などの議案や請願などを、本会議にかける前の予備的な審査機関として、専門的かつ詳細に審査を行う。
ボクは自分の希望というより党の指導に従い、内閣委員会/行政監視委員会/政府開発援助等及び沖縄・北方問題に関する特別委員会――に所属になりましたが、いきなり三つも兼務するのは少数政党である「れいわ」の議員であるからなのです。そして、わずか3日間で、この儀礼的な国会は終了。
その後、新人議員は特訓期間になります。8月5日のスケジュールを書いておきます。
9:55〜内閣委員会(委員長及び理事予定委員打ち合わせ)▽10:05〜政府開発援助等及び沖縄・北方問題に関する特別委員会理事会▽10:10〜政府開発援助等及び沖縄・北方問題に関する特別委員会▽10:40〜行政監視委員会理事会▽10:45〜行政監視委員会▽11:30〜参議院本会議▽11:45〜れいわ新選組両院議員総会@衆議院▽13:00〜野党合同国対ヒアリング(ゲスト/前川喜平)▽13:30〜れいわ新選組不定期記者会見……と続きます。
この分刻みを平然とこなしてこそ政治家なのです。その後は事務所に陳情団をお迎えします。更に一日に配られる公文書が次々と送られてきて、また各省、業界団体から届けられる小冊子は数知れず、数日で机の上に堆(うずたか)く積まれます。それらをほとんど理解できないままに読んでいきます。その後も連日、各省庁からの委員会についてのレク(レクチャー)が続きます。
初対面のスーツ姿の彼らが頭脳明晰(めいせき)であることはわかるのですが、能面のように表情がなく思えます。夜はリモートでれいわの勉強会、政策審議会議が連日組まれています。そんな議員の助走のような毎日が続きながらも、いったい何時(いつ)、次の国会が開かれるのか日程がわからないのです。聞けば、夏の間は余程(よほど)の事がない限り国会は開かれないとのことです。
日本人同士の虐殺を描く社会派映画
そして、この頃、ボクは新たな問題を抱えていました。この期に及んでも政策秘書が決まらないのです。公設の第一秘書にはベテランの女性秘書が党からの推薦で決まり、第二秘書にはボクの希望通りに芸能事務所時代のボク担当の元マネージャーが就きました。国会までの行き帰り、国会内の動線などは何も心配がないのですが、肝心の政策立案の点では何も進展しないのです。今はオープンにしていますが、政策秘書にはフリーの政治記者の畠山理仁(みちよし)さんと密約をしていたのですが最終的にご辞退され、新たに3人の候補者と面接を繰り返したのですがマッチングに失敗が続きました。
党のベテラン秘書からは、何時、委員会が始まってもいいよう、ある程度の質問事項を用意するよう言われて、自分の所属委員会の過去の録画をネットで何度も見返しましたが、とても1年目の山本太郎のような切れのある質問が思い浮かびません。
それでも選挙の際の公約である、反スラップ訴訟や、奨学金、インボイスについての質問を書き連ねて事前提出すると、官僚からは「既にこの問題は審議済みである」かのような山のような議事録が送り返され、またレクを受けても自分の勉強不足を思い知ることとなります。
約15人平均居る委員会での質問順位は、れいわは最後のトリになることが多く、(しかも最近では少数政党の意見を汲(く)み上げるべしという改革が進み)新人議員でも質問時間が約30分近く与えられていることもわかってきました。漫才師の経験からもネタ(質問)がかぶることは最も避けねばならないことです。それ故に他党とかぶらないニッチな政策やオリジナルな質問を選ばねばならない、そのプレッシャーは増していきました。
そして8月の末からは選挙前から決まっていた映画『福田村事件』の撮影がクランクインしました。ドキュメンタリー映画界の重鎮・森達也監督の劇映画デビュー作品であり、100年前の関東大震災を契機に朝鮮人大虐殺が勃発、それだけでなく日本人同士の虐殺事件が起こったという自国の黒歴史を暴く社会派の邦画です。
この映画は少予算のためスタッフ&キャストは京都に泊まり込みで合宿し、ほぼ1カ月で撮了するスケジュールです。しかし国会日程とかぶることも無きにしもあらず。ボクは万一の事態に備えて議員会館から京都まで毎回通うことにしました。ボクの演じる役は村の在郷軍人会の会長であり居丈高な小心者、最後には女子や幼子の命すら奪う虐殺に加担するウルトラ極右の軍人です。善良な村民が、皆に良かれと軍国主義に染まっていった凡庸なる日本人の典型なのです。
ボクは出番も多く、台詞(せりふ)覚えのプレッシャーと同時に国会の迫り来る出番へのプレッシャーに挟まれました。永田町から京都の山奥への移動と共に100年前の世界へタイムリープします。
現実ではリベラルでありながら映画ではウルトラナショナリストに変身し、日常の鬱々としたローテンションから現場では過剰なほどのハイテンションで怒鳴り散らすことを繰り返していくと脳がシェークされ、容量オーバーしていく危険領域に入っていきました。
それでも国会は廻り続けている
映画の現場でのボクは「入魂」の演技というよりも、重圧から魂が抜かれた後に、映画が順撮りであるが故、自分の放つ過激な台詞に洗脳され、まるで仮面の下のもう一人の別人格が勝手に演じているような錯覚に何度も囚(とら)われました。
議員活動休止後、9月1日に公開された本作のボクの演技が「鬼気迫る怪演」と称賛されることに戸惑いながらも、歴史修正主義に抗議する本作に議員時代に出演したことは、ボクの唯一の成果だと思っています。
夏の京都盆地の茹(う)だるような暑さに連日晒(さら)され、撮了後は疲労困憊(こんぱい)の極みですが、内閣委員会へ向けての質問作りが本格化します。
ようやく決まった政策秘書はボクより年上で寡黙、かつれいわから最も距離のある政党の元秘書なので、政策立案に関して自分の信念や使命感に駆られるところはなく、残業するボクを残して必ず定時に帰るような関係性しか築けなかったのも、ひとえにボクの力不足でした。
非公式なことを言えば、ある事務方から「反スラップ訴訟法案の提出が不可能である」ことを耳打ちされました。
なぜなら政治家こそが権力構造そのものなのだから、常に政治家の訴訟にはスラップ(口封じ)要素を孕(はら)むものであり、それを立法府が議題にするわけがない。という実に「さもありなん」な理由でした。
ボクが疲れ切り、一日中、ふさぎ込む日が増えてくると鬱が黒く深く広がり、夜になると底なしの奈落へ誘われることを自覚しました。政治家として国民の負託を受けていることの全責任が重く肩にのしかかってくるのです。
そして10月1日、アントニオ猪木の訃報を知りしばし呆然(ぼうぜん)。
「元気がなければなんにも出来ない」。鬱が伝染(うつ)るように他者の死の喪失感は、生者に死が最後の出口だと錯覚させます。参議員時代の猪木と同じ議員会館の7階、窓からの見晴らしが一気に歪(ゆが)んで「嗚呼(ああ)、いっそこの世界から消えたら……」と暗闇に吸い込まれていきそうになります。
鬱は数度経験済みですが、今まで一度もなかった希死念慮が頭を掠(かす)めるようになって1週間が経(た)ち……山本太郎代表にLINE電話をかけたのです。
休養期間中に「日本維新の会」の中条きよしが文教科学委員会で自分の新曲とディナーショーの日時を宣伝する「うそ」のような姿を目撃した時、「必殺仕事人」の国会での仕事ぶりを失笑し、逆に自分には議員適性がないと、「議員失格」を烙印(らくいん)したのです。
初当選の同期仲間のなかで、ボクは議員辞職、ガーシーは逮捕、中条きよしは炎上の「吸い殻」でも国会に居座り、それでも何も変わることなく国会は廻(まわ)り続けています。(了)
すいどうばしはかせ
1962年、岡山県生まれ。お笑い芸人。玉袋筋太郎とのコンビで「浅草キッド」を結成。独自の批評精神を発揮したエッセーなどでも注目され、著書に『藝人春秋』1〜3、『水道橋博士の異常な愛情』ほか多数ある