週刊エコノミスト Online サンデー毎日
追悼 篠山紀信メモワール 私だけが知っている「日本一有名な写真家」の素顔 中森明夫
戦後日本を代表する写真家・篠山紀信氏が亡くなった。写真によって時代を挑発してきたその足跡は、日本文化にとって記念碑的なものだった。篠山氏と30年以上にわたりつき合い、多くの仕事を共にした中森明夫氏が、尽きない記憶を万感こめて振り返る――。
篠山紀信氏が亡くなった。享年83。戦後を代表する偉大な写真家だ。何より〈日本で一番有名なカメラマン〉だった。かつて林真理子が書いている。篠山に撮影された時のこと、「ああ、自分は今、日本一有名な写真家に撮られている」と思った、そうしてそんな表情が撮れるのは〈日本一有名な写真家〉、そう、篠山紀信だけなのだ、と。
なるほど、と思った。その話を篠山にぶつけると「何よ、それ。そしたらさ、篠山紀信のソックリさんがカメラを向けたら、同じような表情の写真が撮れるわけ?」と反論した。いや、風景や物体なら意識が無いけど、人間の場合、やはり誰に撮られるかを意識して顔や表情に出ますよ、と私が言うと……。
「いやあ、中森さん、アタシがカメラを向けたら、富士山だってニッコリ笑うよ」と篠山は言ってのけた。
篠山紀信は私にとっても特別な存在だ。『週刊SPA!』の巻頭グラビア頁(ページ)〈ニュースな女たち〉の連載でご一緒した。様々な女性たちを篠山が撮り、私が文章を寄せる。1990年から2001年末まで、実に11年間、570回も続いた。それは私の30代の時間の丸ごとでもある。
毎回、撮影に立ち会った。その後、食事を共にし、一緒に呑(の)んだ。何度も呑み明かした。思えば、私は少年時代、篠山の撮る写真によってアイドルの魅力に導かれたのだ。『GORO』の〝激写〟のヌードによって性に目覚めた。そんな巨匠写真家との日々は、さながら夢のような時間だった。
アタシの写真は指圧みたいなもん
1940年生まれ。当時の篠山は50代だ。中年期である。なにしろ猛烈にタフだった。一年365日、写真を撮っている。一日に4~5本の仕事は当たり前、自らベンツを運転してロケ地を飛びまわった。仕事が終わると、美味(おい)しい店でたらふく食べて、バーへ移り、しこたま呑む。夜明けが近い。さすがにもう解散かな……と思ったら、「小腹がすいたね~」ともらし、西麻布の交差点のそばの古ぼけた屋台・かおたんラーメンへ急行する。鍋に残り少ないスープでラーメンを作ってもらい、さらにコブクロやメンマの小皿を並べて酒を呑み、宴会になる。
朝方に帰宅した私はバッタリと倒れ、二日酔いで翌日は寝たきりとなった。聞けば、篠山は明けて午前中から写真を撮っているという。えっ!と絶句する。そんな生活が毎日なのだ。
この人は……バケモノだ!と震えた。
撮られた人はみんな言うが、ともかく「速い」。ワンカットの撮影なんて、アッという間だ。数回シャッターを押して、ハイ、おしまい。天下の篠山紀信に撮ってもらう、と気負っている被写体は「えっ、もう」と拍子抜けしてしまう。
「アタシの写真は指圧みたいなもんだからさ。シャッターを押すんじゃなくて、ツボを押す。気持ちいいよ~」と言う。
私も撮られたことがあるが、まさに。まったく緊張を感じない。相手をリラックスさせるための話術もたくみだ。「あっら~、ステキ、キレイね~」とよくおネエ言葉になったりもした。
パッと撮って、パッと忘れる。それがまたすごい。一時期の『週刊朝日』の表紙は、野村真一のヘアメイクに宋明美のスタイリングで、さながらデコレーティブなアート作品のように準備を要した。そこへ篠山が現れ、パパッと撮って終了。その夜、レストランで食事をしていると、知人に美女を紹介された。「はじめまして」と篠山が言うと、相手はとまどっている。「あのー、私、篠山さんに撮っていただいたんですけど」。こういうことは、よくある。篠山は恐縮して「えっ、いつでしたか?」と問うと、「あのー、今日、『週刊朝日』の表紙で」と言われたそうな。
……東ちづるだった。
〈ニュースな女たち〉の撮影現場でもいろんなことがあった。1999年末のこと。名古屋へ行って、きんさんぎんさんを撮ったのだ。当時、107歳。ギネスにも載る世界最高齢の双子姉妹として国民的人気者になっていた。お二人が目の前に現れた時の感激!
篠山は、話しかけた。
「アタシも長いこと撮り続けてきた、高齢写真家なんですよ……キンさん・ギンさん・キシンさんってね」
107歳の姉妹は大笑いしていた。
宜保(ぎぼ)愛子をビルの屋上で撮った時には、すさまじい写真になった。暗雲たれこめる空をバックに幽鬼漂う顔面のアップがド迫力だ。ポラ写真を見た宜保は「篠山先生、私、これを遺影にします」ともらす。
「イエ~イ」と篠山は言った。霊能者は落ち窪(くぼ)んだその目でジッと写真家を見ていた。
宮沢りえは「この瞬間」を生きている
料理研究家・鈴木その子を撮るため、邸宅を訪れた時のことも忘れられない。篠山の顔を見て、「えっ」とその子は驚いている。
「まさか……篠山さんが、篠山さんの写真を撮るんですか?」と言った。わけがわからない。どうやら忙しい篠山紀信はゴースト写真家を雇って撮らせている、と思い込んでいたのだ(こういう噂(うわさ)は、よく聞く)。
篠山は、すかさずこう言った。
「いや~、本来はウチの助手が撮るんですが、鈴木その子さんですから、特別にワタクシが撮らせていただきます」
その子さんは大喜びした。こういう時の機転と頓智(とんち)精神が、篠山一流である。
その後、彼女は〝美白の女王〟と呼ばれ、大ブレークした。7年後の再登場へ。「先生、鈴木その子の水着写真を撮りましょうよ」と提案すると、「ええーっ!?」と篠山は難色を示した。決して笑いものにするためではなく、その子さんはスタイルがいいし彼女のビジネスのためにもなる、と力説する。なんとか篠山と鈴木その子を口説き落とした。
遅れて、私が撮影現場へ行くと、ゼブラ柄のワンピースの水着姿のその子さんがテーブルの上に横たわっている。仰天した。最初は3カットの内、水着は1カットのはずが、撮っていて興奮した篠山が「全部、水着で撮る!」と言い出した。立ち会っていた日本橋のデパートの水着売り場の男性が、顔色を変える。大慌てでお店に電話していた。至急、あと2着、水着を持ってきてくれ、と。「鈴木その子サマの水着、現在、銀座方面からこちらへ向かっております」と中継があり、やっと到着。なんとか無事、撮り終えた。
掲載写真は猛烈な反響を呼んだ。すさまじいインパクトで、何より彼女が美しい。スポーツ新聞の芸能面を独占して、ワイドショーが大々的に報じる。そこにはこんな大見出しが躍っていた。
〈鈴木その子・67歳
水着グラビア
篠山紀信、惚(ほ)れた!!〉
1990年代といえば、ヘアヌードブームに触れないわけにはいかない。91年、樋口可南子の写真集『water fruit』がヘアヌード第1号として反響を呼んだ。しかし、篠山は「ヘアヌード」という言葉が大嫌いだった。自分は単に自然な裸体を撮ったにすぎない、というのだ。「先生、ヘアヌードの旗手とか、ヘアヌード革命の大塩平八郎とか呼ばれてますよ」と私が冗談を言うと「げ~っ、やめてよ~」と嫌悪感をあらわにした。
転んでもただでは起きないのが、篠山紀信である。あんまりヘア、ヘアと言われているので、よし、とばかりに『hair』と題する本を出した。女性の股間のヘアのアップだけの写真集である。匿名の女性モデルたちのヘアであるが、中には有名女優もいるのでは?と噂された。プロモーションで当時、TBSのアナウンサーだった渡辺真理と〝ヘア談議〟を交わしたことも話題になったものだ。
1991年10月13日、〈ニュースな女たち〉の撮影立ち会いのためスタジオへ行くと、アイドルグループの少女たちがその日の朝刊を広げ、大騒ぎしていた。なんとそこには18歳の宮沢りえのオールヌード写真がでかでかと載っている。びっくりした。写真集『Santa Fe』の全面広告である。
その日、篠山事務所の電話は鳴りっぱなしだった。まったく対応しない。撮影を終えると、食事を共にして、その夜は一緒に遅くまで呑んだ。件(くだん)の写真集のことはまったく知らされていなかった。興奮する私と対照的に、篠山は普段よりもずっと冷静な様子である。
トップ人気の今に18歳で全裸写真集を出版するアイドルりえと、それをうながした、りえママについて話は及んだ。「いったい、宮沢りえはどこへ行くんでしょう?」と私が訊(き)くと、目の前の写真家はこう答えた。
「いや、中森さん、あの親子はボニー&クライドなんだよ。俺たちに明日はない、さ。だから先のことなんか考えず、今を、この瞬間を全力で生きているんだ……」
篠山紀信は「偉大な目」だった
篠山氏と最後に話したのは、昨年秋のことである。私は『推す力』(集英社新書)という本を出すことになった。副題は〈人生をかけたアイドル論〉。我がアイドル回顧録である。篠山氏との交流についても多くのページを割いた。
氏と奥様のシンシアさん、そう、南沙織と共に食事した日のこと。一緒に沖縄へ行って、まだSPEEDになる前の4人や11歳の山田優や9歳の満島ひかりを撮った時のこと。そうしたチャイドルブームのこと。チャイドルと称して、ローティーンの少女らの写真集を共著として出した。なかにはヌードもある。現在の児童ポルノ法では違法だろう。このご時世である。氏の撮影手法がいつ指弾されるかもしれない。こうした内容の本に対して、篠山氏から推薦人としてお名前をお借りすること。版元の編集者による要請だった。
気が進まなかったが、思いきって氏の携帯に電話したのだ。「ああ、中森さんか、どうしたの?」。久しぶりに聞く声は、しわがれ、弱々しかった。体調を崩されたことは、聞いている。私は本の内容を説明して、お願いした。「うん、全然いいよ」。ほっとする。
「また、会いたいね」と言われた。喜びがこみ上げてくる。そうして「ありがとう」と言ったのだ。私のほうがお願いしたのに。それが、最後の言葉だった。
篠山氏は、しめっぽいのが嫌いだった。親しい人が亡くなっても、さっぱりしていた。旧知の編集者の葬儀にご一緒して、精進落としに酒席を共にする。そんな話をしたのだ。
「ああ、それはボクがお寺の息子だからかなあ」と氏は言う。「死と立ち会うのは仕事だからね」と。それから三島由紀夫とジョン・レノンの最後の写真を撮った時の話をした。
死者に対してあまり未練を感じないという。
「だってね、ほら、死んだ人はもう……写真には撮れないじゃない」
そう言って、笑った。
なるほど、そうだ。氏が遺(のこ)した膨大な写真群は、彼が生きて、見て、対峙した、その記録なのだ。篠山紀信は「偉大な目」だった。
死んだ人は、もう撮れない。しかし……。
文章でなら、こうして記すことができる。そう、この世にはもういないあなたのことを。
篠山紀信さん、さようなら。
なかもり・あきお
1960年、三重県生まれ。評論家。作家。アイドルやポップカルチャー論、時代批評を手がける。著書に、『東京トンガリキッズ』『アナーキー・イン・ザ・JP』『午前32時の能年玲奈』『青い秋』『TRY48』など多数。最新作は、自身のアイドル評論人生の集大成たる『推す力』