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鍋一つ、まな板一枚、マグカップ一個から、人生が見える。50人の暮らしの現場をあざやかに描くルポルタージュ『東京の台所』

「東京の台所」毎日新聞出版
「東京の台所」毎日新聞出版

日本茶喫茶店主の台所、今はなき阿佐ケ谷住宅の台所、多国籍シェアハウスの台所、70代・ひとり暮らしの台所、インドマニアの台所、ホームレス夫婦の台所……台所には心震える物語が溢れている。

これまで300件を超える台所をたずね、市井の人々の〈食と人生〉の物語を描き続けてきたのが、作家でエッセイストの大平一枝さんだ。大平さんは「サンデー毎日」の執筆陣のひとりで、自身のライフワークであり、昨今の「台所」ブームの原点とも言えるこのシリーズが、「&w」(朝日新聞デジタルマガジン)の人気連載「東京の台所」である。

このたび、その書籍版第一作である『東京の台所』が文庫化された(毎日新聞出版)。

これを記念し、同書に収録された一篇「ああ、ものが溢れて昭和の香り」を紹介する。

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初めて訪ねたのに懐かしい。多くの昭和の台所にあった風景がにぎやかに話しかけてくる。

取材者紹介/

整体師・37歳(男性)

賃貸マンション・2DK

JR中央線西荻窪駅・杉並区

入居5年・築約25年

実母(介護職員・65歳)との2人暮らし

 出てくる、出てくる。台所のいろんなすき間から洗剤が。食器洗い洗剤は4本。それ以外にクリームクレンザー、重曹、油汚れ用住宅洗剤……。なんだか懐かしくなってしまった。私の田舎の母にそっくりだからだ。

 冷蔵庫を開けると、今度はチューブの練り辛子が二つも三つもドアポケットに挟まっている。これまた我が母同様。母と息子のふたり暮らし。住人の彼は語る。

「母親に、使い掛けの古いのは捨てなよって言うと、まだ使うからってシャットダウンされちゃう。だからもう言わないんです。喧嘩になるだけだから」

 母は平日は住み込みの介護の仕事を、息子は整体師をしている。父は彼が高校生のときに、病死した。

「それまで専業主婦だった母が、父が亡くなっていきなり小料理屋を始めちゃったんですよ。なんとかしなきゃって思ったんでしょうね。行動が突飛で、思いつきでどんどん突き進む、ある意味アクティブな人ですね。でも、お人好しだから、客に奢っちゃうんですよ。で、6年でつぶれた。あのとき、店開くの止めてればなって今でもときどき思います。ま、俺も高校生だったから、なにもできなかったんですけどね」

 彼は朝は出勤途中にパンを買い、歩きながら食べ、昼は仕事の合間に定食屋、夜は自宅でご飯を炊いて、肉を炒めるか魚を焼く。

「野菜? ああ、意識してとったことないですね。昼の定食にちょっと添えられているのを食べる程度かな。肉か魚を食べないとやる気が出ないですから」

 平日は母はいないが、週末は在宅だ。だからと言って特別ゆっくり会話を交わすわけでもない。お袋の味で好きなものはとたずねても、「うーん。ハンバーグや煮物かなあ。時間をかけて煮込む料理、昔はよく作ってたなあ。でも今は一緒に過ごすことがほぼないですね」と、淡泊な回答が。

「なるべく接点を持たないようにすること。一緒に住むならそのくらいがちょうどいいです。母としゃべっているとすぐ愚痴とか始まっちゃうから。あーだこーだ、だいたいいつもどうでもいいことをしゃべってますからね」

 現実の親子の多くはきっとこうだ。ホームドラマのように、しょっちゅうわいわい言い合うようなものでもない。

 遠慮がないからこそ悪態もつくし、身内だからこそ、母は息子に愚痴のひとつもこぼしたくなる。そんなとき、きっと、また同じ話だと思いながら彼は右から左に聞き流すのだろう。母は、息子が聞いていようがいまいが、話すだけで一日の疲れのいくらかはとれるにちがいないのだ。

 トースターに掛けたふきん。菜箸立てに自分で巻いた花柄のテープ。昭和のお母さんはみんなこうしていた。洗剤のストックが幾つもあって、調味料もあるのにまた買ってしまう。

「過剰にないと不安なのかも」と彼は分析していたが、うちの母もそうだ。ごちゃごちゃないと不安で、たくさんあると安心する悪い癖がある。

 接点を持たないと言いながら、ちゃんと愚痴の内容がどうでもいい話ということを知っている。

 自分で肉を炒めるが、その肉の下味をつけて冷蔵庫に作り置きしているのは母だ。買い物も愛情も過剰。息子や娘にはそれがときどき重くもあるが、半分以上はしょうがないなとあきらめている。昭和の親子はそれでいい。

 初めて訪ねたのに、ものに溢れた小さな台所には、懐かしいかけらがつまっていた。

(作家、エッセイスト・大平一枝)

著者紹介/おおだいら・かずえ

長野県生まれ。編集プロダクションを経て1994年独立。市井の生活者を独自の目線で描くルポルタージュコラムおよびエッセイを執筆。連載『東京の台所』(朝日新聞デジタルマガジン『&w』)は本書をふくめ3冊が書籍化されている。著書に『それでも食べて生きてゆく 東京の台所』(毎日新聞出版)、『男の女の台所』『ただしい暮らし、なんてなかった。』(以上、平凡社)、『注文に時間がかかるカフェ たとえば「あ行」が苦手な君に』(ポプラ社)など多数。


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