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「御落胤」を残した東久邇は皇族にならない可能性もあった! 社会学的皇室ウォッチング!/100 成城大教授・森暢平
これでいいのか「旧宮家養子案」―第2弾―
皇位継承をめぐる「旧宮家養子案」が議論されるなか、そもそも「皇統」とはどの範囲を指すのか――。歴史をたどると、不透明で曖昧な部分が見えてくる。今回も、皇族首相だった「東久邇宮稔彦」の数奇な人生を題材にして検証していく。(一部敬称略)
「皇統」という名の幻想
皇位継承に関する有識者会議の報告書(2021年12月)では、「皇統」に属する男系の男子に限定し、既存宮家との養子縁組を可能にする案が提言された。
その「皇統」とはどの範囲か。報告書は1947(昭和22)年に皇籍離脱した、いわゆる11宮家が対象になるとの考えを示す。
過去の天皇から出た男系子孫はほかにもいる。例えば、光格天皇の叔父にあたる淳宮(あつのみや)は幼い時、鷹司家の養子となり、輔平(すけひら)(1739―1813年)となった。現在、その系統には多くの男系男子がいる。しかし、「旧宮家養子案」支持派は、こうした傍系を「皇統」に属するとは認めない。竹田恒泰氏は、「皇統」に属するには「皇統譜」に記載され、血統が公証されることが重要だという。竹田氏は、旧宮家は「どこぞの『御落胤(ごらくいん)』とは訳が違います」と胸を張る(『なぜ女系天皇で日本が滅ぶのか』ビジネス社、2021年)。
しかし、戦前皇室は、正妻以外の子(庶出子)の扱いをめぐり揺れ動いた。「皇統」はその範囲が曖昧な概念である。それを検討するために、今回も東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)を題材にしよう。
久邇宮家に生まれた稔彦は公式には1887(明治20)年12月3日に生まれたことになっている。しかし、同7日に届け出られた際、皇室のしきたりでは生後7日目に命名されるはずの名前がすでに付いていた。当時京都にあった久邇宮家は、宮内省に対し、官報に公示せず、新聞にも知らせるなと要請する(「皇族録」)。出生は世間に隠された。それ以上の秘密は、実際の誕生が9月だった事実である。
父、久邇宮朝彦(あさひこ)には、下級公家である地下家(じげけ)や、神社の神職である社家の娘が「家女房」、つまりは側室として仕えたが、正妻はいなかった。87年初頭、「家女房」の一人、角田須賀子(当時20歳)が妊娠した。朝彦はほぼ同時に、下級の侍女、寺尾宇多子(当時22歳)を妊娠させる。須賀子が地下家出身であるのに対し、宇多子は京都郊外、園部町(現南丹市)の士族の女性である。宮家出仕の身分としては高くない。
宇多子の出産は9月下旬、須賀子の出産は10月2日であった。前者の子が稔彦、後者の子がのち朝香宮鳩彦(やすひこ)となる男児である。宮家は、身分上の懸隔から、先に生まれた稔彦を、鳩彦の後に生まれたことにしてしまう。そして、鳩彦は宮邸で養育されるが、稔彦は洛北の農家に里子に出される。
朝彦が、「家女房」以外を「お手付き」にするのは、初めてではない。74年にも原田光枝という奈良の小さな神社出身の娘に男児を産ませた。光枝は奈良の実家に戻されての出産だった。のちの梨本宮守正である。
「皇統」は厳格管理されず
明治中期、社会の仕組みを西洋に合わせる必要が生まれ、妾(めかけ)を持つ習俗もやめるべきだとの観念が生まれる。旧公家たちも大っぴらに妾を持てないようになる。華族の「家族の近代化」であり、皇室もその影響を受けた。
朝彦と同じ時期、下級侍女に子を産ませた皇族に北白川宮能久(よしひさ)がいる。能久は89~90年、下級侍女2人に男児を産ませる。しかし、出生を隠し、宮家に仕える者に養育させた。宮家は、男児たちが小学校に上がった段階で、能久の実子であると、初めて出生を届け出て、宮内省は対応に苦慮する。誕生から年月を経たあとの「皇統譜」記載は「皇統紊乱(びんらん)」のおそれがあるためだ。結果として、皇族とはせず、華族(伯爵)に列すると決した。2人は、二荒(ふたら)芳之、上野正雄となった。
稔彦と二荒、上野の生まれは2~3年の差しかない。その間の相違は皇室典範の、あるなしである。典範は、側室の子を皇族にできる規定は置く一方、西洋的な価値観を基にした。皇族には、一夫一婦の倫理に反する行為を慎む努力が求められた。だからこそ、侍女に産ませた子は隠される必要があったのだ。稔彦も少し遅く生まれていたら、皇族として届けられなかった可能性がある。「皇統」に属するか「御落胤」となるか、運命は紙一重だった。
そもそも、父の朝彦の出自も曖昧である。はじめは伏見宮貞敬(さだよし)の子とされていた。しかし、典範制定直後の89年11月、貞敬の子、邦家(くにいえ)の子であると訂正がなされた(「皇族録」)。邦家は結婚していなかったため、父親の子としていたのだろう。朝彦が出自を正したかったのは、先々代の子では、西洋的なルールを取り入れた継承順位が17位と最下位近くになるためだ。父親を正すことで、順位は10位に上昇した。
明治初期まで、宮家の子どもの管理は宮家任せであり、悪く言えばいい加減であった。「皇統」が厳格に管理されたとは言えない。
皇族の一夫一婦化を目指す宮内省は1902年、皇室誕生令を制定した。その第7条には「皇族の子の誕生には宮内高等官を遣(つかわ)し産所に候せしむ」と明記された。宮内省高官が出産を見届けない限り、皇族とは認めない規定である。以後、庶出子は皇室から排除される。
隠し子はパリにいる?
稔彦は、久邇6兄弟の末子扱いとされ、皇籍離脱の対象であった。しかし、1906年11月、19歳で「東久邇」の宮号を賜る。明治天皇には4人の皇女がおり、その婚姻相手候補として、稔彦が皇室に残る選択がなされた。
結婚相手は聡子(としこ)内親王で、結婚は15(大正4)年5月。夫婦は5年間で3人の男児をなした。だが、稔彦は20年4月、フランス陸軍大学で学ぶためにパリに旅立つ。そして7年間、日本に帰らなかった。陸大卒業までは予定どおりだったが、その後、気ままに絵を描くなどの生活を送る。社交界で上流階級のマナーを学ぶこともなかった。外国滞在費として年額20万円(現在価値で8億円)をもらいながらのお気軽な生活である。最終的には、大正天皇の逝去をきっかけに27年1月にようやく帰国した。
稔彦は、在仏当時から皇籍離脱を希望する。帰国直後、宮家顧問の倉富勇三郎枢密院議長に次のように話した。
「自分らのように皇室との『続柄疎遠』なる者が皇族としているのは条理においても、実際においても良くない」(「倉富日記」27年4月1日条)
「続柄疎遠」とは、稔彦らが属する伏見宮系が、天皇本流から室町時代に分かれた事実を指す。稔彦自身、「皇統」の薄さを自覚するのだ。最終的には周囲が説得し、離脱の意思は撤回される。しかし、パリに居座った稔彦に、皇室の藩屏(はんぺい)として天皇を守る意識があったのかという疑問は残る。
同様に問題になったのは、現地妻と隠し子の疑いである。戸籍上の兄、鳩彦は同時期にパリにいたが、稔彦が家を借りる際の行動から「懇親なる婦人」の存在を察知した(「倉富日記」26年3月15日条)。疑惑は、フランスに随従した属官、池田亀雄の結婚でも深まる。独身だった池田は滞仏中の26年秋、現地の女性と結婚した。
女性は28年2月、乳児(性別不明)を連れて来日する。宮内省幹部は、この母子が、稔彦の現地妻と隠し子ではないかと疑った。たしかに、フランス語を勉強したとは思えない下級属官が現地で外国人妻をつくるのは不自然である。名目上、池田の妻として来日させたと考えてもおかしくない。ただ、母子は30年初頭、パリに帰ってしまい、真相は分からない。
新橋芸者を囲う
稔彦は帰国早々、ほかにも愛人をつくる。侍女の一人を「お手付き」とした。侍女は福井県出身であり、名前は分からない。他の侍女との折り合いも悪くなり、郷里に戻された。しかし、28年11月に昭和天皇即位の大礼が京都で行われる際、稔彦は、元侍女を福井から呼び寄せ、一緒の時を過ごした。(「倉富日記」31年2月27日条)
稔彦は30年8月から名古屋にある歩兵第五旅団の旅団長となり、単身で赴任する。これを機に、元侍女を呼び寄せ、身の回りの世話をさせた。32年12月、参謀本部付となり帰京する稔彦は、元侍女に一緒に東京に来るよう伝えた。だが、元侍女は「東京に行きては妃殿下に対し、相済まさることなる故(ゆえ)、御暇を願い度(たし)」と申し出て、再び、福井に帰ったという。(「倉富日記」33年2月5日条)
その後の別の愛人の存在も分かっている。『高松宮日記』(36年1月8日条)には、「ある皇族」が新橋芸者に「胤(たね)を宿し」たと記される。稔彦のことである。芸者は、「秀菊」という源氏名を持ち、稔彦との間に、喜久子(36年生)、英雄(40年生)、和子(44年生)の3人の子をなした。(河原敏明「皇族・東久邇稔彦97歳の破天荒人生」『現代』85年1月号)
「秀菊」との関係は戦後まで長く続いた。稔彦は多摩川沿いに家を用意し、週に何日かはこの別宅で過ごした。戦後の宮内庁長官、田島道治が記した『拝謁記』には、「(稔彦の)内妻関係の事が新聞に出ると又云々(うんぬん)と(昭和天皇が)一寸(ちょっと)仰せになる」(50年8月10日条)、「玉川の女の手を切られ、その金も小原(龍海)立替の様子」(同年10月13日条)、「隠れた御子供さんも中々六ケ(むずか)しいやうであります」(26年12月13日条)と出てくる。
前回も登場した小原龍海は、稔彦のそばで金儲(もう)けを図った人物である。稔彦は「秀菊」を身請けする費用だけでなく、手切れ金まで小原に払わせた。50年ごろ、その手切れ金で、稔彦は「秀菊」との関係を清算した。「秀菊」の次女らを直接取材した河原敏明によれば、子どもたちは認知されたという。
嫡出とみなされた特例
戦後、新しい皇室典範ができ、本妻以外の子(庶出子)には、継承権が与えられない規定ができた。皇族となれるのは「嫡男系嫡出の子孫」だけである(第6条)。ただし、問題があった。新典範が施行される時点で、梨本宮守正(73)、東久邇宮稔彦(59)、朝香宮鳩彦(59)の3人の庶出皇族がいた事情だ。皇室を一斉離脱することは決まっていたが、一時金支給が問題となり、離脱は10月にずれ込む。そこで、伏見宮系の皇族も新典範のもとで暫時、皇室に留(とど)める必要が出た。
そこで附則第2条がつくられた。「現在の皇族は、この法律による皇族とし、第6条の規定の適用については、これを嫡男系嫡出の者とする」と規定された。稔彦らは過渡期的条項で、嫡出とみなされたのだ。
明治中期まで、庶出子でも自己申告で皇族になることはできた。だが、その後、一夫一婦を目指す社会風潮から皇室においても自己規制が厳しくなる。その後も「御落胤」を残した皇族は少なからずいたが、皇族が側室を公然と置けた時代は終わり、庶出の皇子女は隠さなければならなくなったのである。
稔彦が「秀菊」に産ませた子は「御落胤」であり、パリの女性に子を産ませたことが事実ならそれも「御落胤」である。そうした子は「皇統」には属さない。ところが、稔彦自身が「御落胤」とされる可能性もあった。そうならずに「皇統」の一員となったのは、時代の偶然による。
「旧宮家養子案」を支持する人たちは、旧宮家は「皇統譜」に記載され、血統が公証されると主張する。しかし、明治典範ができるまでそれほど厳密に公証されていなかった。さらに戦後、旧宮家の人たちの出生関係は戦前と同様には公証されていない。どのような子を儲け、それが嫡出であるかどうか、戦後宮家については当然ながら「皇統譜」には書かれていない。
調査もせず、旧宮家に属することだけを条件に皇族に復帰できる案を、通常の感覚を持つ国民が認めるのだろうか。
(以下次号)
参照した「皇族録」は宮内庁宮内公文書館、「倉富勇三郎日記」は国会図書館憲政資料室所蔵
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など