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東大号60th記念鼎談 「結果平等」が招いた公立校の〝地盤沈下〟 1964~73年 東大合格者高校別ランキング・ベスト20史

東大安田講堂
東大安田講堂

特別連載・進学校はかく変わりき/1

 本誌が東大合格者の高校別ランキング掲載を始めたのは1964(昭和39)年。恒例となった「東大号」は今年3月で60回目を迎える。日本の〝エリート〟の培地ともいえる最難関の受験地図はどう変わってきたのか。悲喜こもごものエピソードを交え、年代順に振り返る。

〈合格者二六七三人のうち東京の高校出身者が半分、しかもベスト10のうち九校を東京が占めている。東大入試に関する限り〝東京絶対有利〟というわけだ〉

「これが東大合格 ベスト20高校」と題した1964年の本誌こと『サンデー毎日』4月5日号の記事は冒頭にそう記している。志願者が関東地方に偏る〝ローカル化〟は多様性拡大を掲げる東大にとって近年の課題だが、「東京一極集中」という意味では、干支(えと)を逆に一回りさせた頃のほうが激しかったといえる。

 実はこの記事、今に続く「東大合格者高校別ランキング」特集の先駆けだ。早春の風物詩として定着した本誌の「東大号」は今年3月、60年目の〝還暦〟を迎える。そう書くと「1964年が1年目なら2024年は61年目なのでは」と鋭い指摘がされそうだ。もちろん計算間違いではない。後ほど話題として取り上げるが、東大は1969年、大学紛争のために入試を行えなかった。それで「1」を引き算している。

 高度成長からバブル期、そして超高齢化を伴った人口減少社会へとシフトする中、大学とりわけ東大へのまなざしも変わってきたはずだ。であるなら「ランキング」は一体何を映し出しているのか――。大学入試を知り尽くすエキスパートとして駿台予備学校入試情報室部長の石原賢一氏、教育ジャーナリストの小林哲夫氏、大学通信情報調査・編集部長の井沢秀氏を招き、「東大号60年」を6回に分けて深掘りしてもらう。

 「都立高」全盛時代=番町、麹町、日比谷の「黄金ルート」

 まずは64年(64年度入試)のランキングを見よう。先に挙げた記事の通り、都立高の活躍が目覚ましい。

――日比谷の193人は同校の歴史上、最多記録でもあります。日比谷、そして都立高はなぜそこまで強かったのでしょうか。

小林 新制の東大入試元年である49年からずっと日比谷(50年に都立第一高校から改称)がトップだったんです。「旧制一中」神話が戦後もしばらく残り、優秀な生徒が集まったことが一点。また越境通学もかなりありました。60年代半ばの新聞記事によると、番町小学校、麹町中学校、日比谷高校そして東大というエリートコースがあった。だから日比谷へ行くには(千代田区立の)番町小、麹町中に通わなければならない。そう考える〝教育ママ〟が大量出現し、千代田区に住民票を移したり、アパートを借りたりという行為が社会問題になりました。

石原 麹町中に通っていた知人がいますが、当時は同級生の半分以上は他区から、それも千葉県や埼玉県から来ていたそうです。関西も似たようなもので(元大阪府第一番中学校の)北野高校もそうですよ。私は通学区域外でしたが、親戚が北野の近くで自転車屋をやっていたので、「住民票だけ移すか」と(笑)。そんなのは当たり前の時代だった。

井沢 人口動態を見ると、65年から団塊の世代(47~49年生まれ)が18歳を迎えます。18歳人口(当該年度を18歳になって迎える人の数)は66年、249万人に達しますが、高校卒業者は156万人に過ぎません。大学入学者がわずか29万人の時代、まず高校に行くことに大きなハードルがあった。その傾向は地方ほど強かったのではないか。東京一極集中の一因として、そういう地方のハンディがあったように思います。

石原 やはりまだ日本が貧乏だった。受験で東京に出てくるのがとても不便でした。64年に東海道新幹線が開通して関西からの状況は変わりますが、東北や北陸からは夜行列車ですから。

 68年、灘が初の1位=公立をはるかにしのぐ現役合格率

――一方、60年代後半にかけて関西の私立校である灘がグッと伸びてきます。

小林 灘の現役合格率が非常に高いんです。逆に日比谷には補習科(卒業生を対象に大学受験指導を行う仕組み)があり、浪人が非常に多かった。日比谷だけでなく、西、戸山、新宿、小石川が東大合格者をこれだけ出せていたのは浪人が支えていたといえます。

井沢 当時、都立高は〝4年制〟といわれていました。

――灘が初めて首位を奪った68年の本誌4月7日号は「灘高一位のショック」という特集記事を掲載しました。日比谷の現役合格率が18%なのに対し、灘は68%だと指摘しています。

小林 やはり灘の中高一貫教育でしょう。

石原 今の中高一貫校はそんなことはしませんが、昔は(受験に関係ない科目を教えない)履修漏れも含めて、受験に特化していた。実は公立も同じで、理系の女子は家庭科の時間に数Ⅲをやっていた。そうしないと範囲が終わらないから。

井沢 高校進学時に1クラス分が落第しちゃう。(中1で中3までの数学を終えてしまうなどの)「先取り学習」についていけない生徒ですよね。今はそういう子を手厚く指導してくれる中高一貫校が人気ですが、この時代はだめだったら公立高校に行ってくださいという雰囲気があった。結局、卒業する時点では本当に優秀な生徒ばっかり、という状況だったのかなと。

 つるべ落としの落日=学校群制度で日比谷が一気に下落

 68年にトップを灘に奪われてから日比谷は急速に合格実績を下げる。原因は67年に東京都教委が導入した「学校群制度」という高校入試の仕組みだ。都立高を2~4校まとめて一群とし、志望校ではなく「群」を選んで受験する。合格者は群内の高校に配分された。

小林 学校群制度が始まった67年の入学生が卒業するのが70年です。学校群以前に入学した生徒の最後の大学受験が69年だったので、灘の先生がよく「69年に東大入試があれば間違いなく日比谷がトップだった。それ以降はうちだよ」という話をしていました。

――学校群制度が都立トップ校の地盤沈下を招いたのは確かですが、例えば73年を見ると18位に沈んだ日比谷に対し、西や戸山は10位以内を維持しています。

小林 これは単純に数字の問題です。日比谷の学校群が九段と三田の3校だったのに対し、西は富士、戸山は青山と2校ずつの学校群を組んだ。学力優秀層が3校にばらけた日比谷と、2校に収まった西、戸山の違いです。西、戸山がそれほど落ちず、富士と青山も順位を上げてきています。

 では日比谷と組んだ九段、三田が伸びたかというとそうでもない。なぜか。どうせ日比谷に行けないなら教育大付に行こうとか、開成や当時はまだ高校入試があった麻布に行こうとか、67年の高校入試の段階で優秀層が国立や私立に流れてしまった。実際、70年に教育大付駒場が136人というとんでもない数字を出しているんです。

石原 それに加えて、先ほど話題に出た「越境」がなくなりました。番町小、麹町中……みたいなことをするより、最初から私立の中高一貫校に子どもを入れちゃう。元東京府立一中という象徴としての意味合いで日比谷を目指していた層がいなくなった。

 広がる旧制一中つぶし=高校入試改革に踊らされる受験生

井沢 学校群制度というのは学校単位の浮き沈みとして見ることもできますが、数字の裏にある一人一人の気持ちを考えたら、例えば日比谷に入って東大に行くべきなのに他の道を選ばされて目標を見失ってしまう生徒はいたはずです。大学進学者がごく少ない時代、東大卒が日本を引っ張っていたのは間違いない。そうやって優秀な人材を無駄にしてしまう罪深い制度だったと言わざるを得ません。

小林 60~70年代はいわゆる革新勢力が伸び、機会平等ではなく結果平等を生んでしまうような考え方が全国的に広まっていました。60年代に公立、私立を問わず猛烈な受験勉強をさせていたことへの反省もあり、高校は大学の予備校ではない、受験特化型の公立校はだめだよと都道府県の教育委員会が言い出して、それが割と世間に受けた。

 愛知の千種(ちぐさ)、岐阜の加納はそれぞれ旧制一中の旭丘、岐阜と学校群を組んだ結果、東大合格者数が県内1位になりました。大分は合同選抜という名前で大分上野丘が、岡山の総合選抜では岡山朝日が複数校とグループを組まされた。旧制一中つぶし、進学校つぶしみたいな施策がかなりむちゃに進められました。

――64年には上位4校は公立(都立高)だったのが、73年には逆転して国・私立がトップ5を占めました。

石原 当時の大都市圏では地方から大量の人口流入があり、高校進学率がどんどん上がっていった。公立校をたくさん作る必要があったんです。その場合に〝新設校2軍、伝統校1軍〟みたいにはしたくなかった。都道府県教委としてはできる限り新設校にも平等に行ってほしいわけです。加えて「強制配転」ですよね。伝統校から新設校へ先生を転勤させる。新設校が若い先生ばかりになってしまうのは困るというので。

――結果として各地の公立トップ校の進路指導力が落ちたということですね。

石原 本当はそんなことをやらなくても(一定の学力平準化は)できたんだと思う。大阪は単独選抜制度を守ったんですが、なぜ総合選抜が大阪でつぶれたか知ってますか? 保護者から「兄がA高校、弟がB高校に振られたらPTA会費は1口分でいいのか」とか「制服代はその分、府が負担するのか」という声が出た。

井沢 兄貴の制服を弟が着られないから(笑)。

石原 お金に厳しいところですからね(笑)。結局、73年に5学区から9学区にする(通学区域の制限)だけで収まった。

 前代未聞の「入試中止」=東大紛争が招いた受験地図の激変

 64年からの10年間で最大の〝事件〟といえば、69年の「東大入試中止」だろう。同年1月の安田講堂攻防戦に象徴される東大紛争の収拾に手こずる大学当局を押し切り、政治主導で決められた前代未聞の出来事だ。

――入試中止で東大志望者はどう動いたのでしょう。

小林 京大に流れました。それで京大入試が相当難しくなった。例えば合格最低点がグッと上がったとか、京大の合格者ランキングで日比谷(42人合格で7位)をはじめ首都圏の高校が上位に入るなどの現象が起きています。本来なら東大合格した層が京大の合格枠に食い込み、大阪勢の北野、天王寺、大手前の合格者数がガクッと落ちました。

井沢 京大合格者数を68年と69年で比べると、北野は105人から87人、天王寺は101人から67人、大手前は82人から40人と軒並み実績を下げています。一方、同じ関西圏でも68年のランキングでベスト20に入っていなかった灘が75人合格で2位に姿を現しました。

――灘の東大志望者が京大にシフトしたのですね。

小林 ただ灘の京大合格者は翌年、東大をもう一回受け直した。

石原 そうそう、仮面浪人が多かった。でも考えたら3000人の定員をなくして、そのまま入試をやるってひどい話です。今なら一悶着(もんちゃく)ありますよ。他の国立1期校(*)で臨時定員を増したんならいいけど。

――本誌69年4月6日号によると、国立大の難化を嫌った受験生によって、早稲田大の政治経済学部が10・4倍から13・3倍になるなど、私立有名大の競争率も大幅に上がったそうです。

井沢 仮面浪人といえば、70年の灘の東大合格者が151人、これは灘史上最高なんですよ。当時の『サンデー毎日』記事を読むと、69年度入試では東北大や北海道大など旧帝大だけでなく地方国立大を志望先に選んだ〝弱気〟な灘生もいたそうですが、そういう中で一度は東大を諦めたけれど捲土(けんど)重来を期した生徒が多かったのが、数字になって表れたのかなと思います。

 「東大病」という流行語=世相と直結する合格者ランキング

 22(大正11)年に創刊した本誌の半世紀の歩みをたどる『週刊誌五十年』(野村尚吾/毎日新聞社)が、東大をはじめとする「大学合格者高校別ランキング」の掲載を開始した経緯について、こう記している。

〈これはもともと日本のエリートの生成過程の追跡を意図したものであった。しかしその批判性は逆に、受験生とその周辺の人々の実用書として読まれた〉

 いわばエスタブリッシュメント(支配階層)の卵を生み出すメカニズムの解明というマクロ的な試みが、ミクロ的には受験の手引として重宝されたということだ。それだけに「受験競争をあおる」と批判されてきたのも事実である。

――「東大号60年」を語る上であえて聞きますが、東大合格者ランキングを報じる意味、あるいはそこから見えてくるものは何だとお考えでしょうか。

井沢 先ほど申しましたように、高度成長期は今以上に東大のステータスがあった時代ですよね。東大卒が日本を動かしていく。官僚の力がとても重要視された時代に〝官僚養成学校〟にどんな学校から入っていくのかというのは、一つのニュースとして扱う価値があったと思っています。

小林 50年代から受験戦争という言葉がボチボチ出始めて、60年代に競争が一気に激しくなった。当時の新聞を見ると受験ノイローゼとか自殺とか、受験生を巡る深刻な問題が載っていて、それだけ受験って大変なんだという世論が広がっていたことが分かります。その元はやっぱり東大だったと思うんです。東大というピラミッドの頂点があり、東大出身者が政界や財界を動かしてきた。戦前の「一高(旧制第一高等学校)、東大」という構図が残り、今と比べるとよほど「絶対東大」という発想があったように感じられます。今は何年浪人しても東大という人はそういないので。

――東大の求心力が今とはまた異質だった。

小林 かつては受験情報がそれほど徹底していなかったので、自分の実力で東大に行けるかどうかが、そんなにはっきり分からなかったのではないでしょうか。誰でも東大にチャレンジできる、もしかしたらそんな幻想があった。「東大病」という言葉が60年代から70年代前半まで新聞などで使われていました。

石原 時代の世相を表していると思います。戦前の一高には地方から結構行っているんです。今よりも学生の出身地が分散している。というのは、彼らは当時のエリート、富裕層だったからです。戦後に入ると60年代までランキング上位は首都圏中心ですよね。それが70年代になって、例えば金沢大付など地方の学校の名前が出てくる。日本全体の人の移動が容易になっていく状況が見えてきます。

――社会変化がランキングに反映していることがよく分かります。次回(74~83年)は共通1次試験の導入が志望動向に与えた影響などを見ていきます。

(司会/構成・堀和世)


 *国立1期校

 1979年度入試で共通1次試験が導入される前まで、国立大入試は試験日によって1期校と2期校の2グループに分けて行われた(併願可能)。旧帝大などは1期校に振り分けられた。大学間格差を示す区分けと見なされるなど問題点が指摘され、廃止された。


 いしはら・けんいち

 駿台予備学校入試情報室部長。大阪府出身。1981年に駿台予備学校に入職。学生指導や高校営業を担当後、神戸校舎長、駿台進学情報センター長、進学情報事業部長を経て現職

 こばやし・てつお

 1960年生まれ。教育ジャーナリスト。神奈川県出身。特に90年代以降、受験など大学問題を中心に執筆。著書に『早慶MARCH大学ブランド大激変』『東大合格高校盛衰史』など。近著は『筑駒の研究』

 いざわ・しげる

 1964年生まれ。大学通信情報調査・編集部長。神奈川県出身。大学通信入社。入試から就職まで、大学全般の情報分析を担当してきた。新聞社系週刊誌や経済誌などに執筆多数

 ほり・かずよ

 1964年生まれ。編集者、ライター。鳥取県出身。89年、毎日新聞社入社。元『サンデー毎日』編集次長。2020年に退職してフリー。著書に『オンライン授業で大学が変わる』(大空出版)など

「サンデー毎日2月4日号」表紙
「サンデー毎日2月4日号」表紙

 1月23日発売の「サンデー毎日2月4日号」には、1964~73年の「東大合格者高校別ランキング・ベスト20」を掲載しています。今春の「東大号」は「サンデー毎日3月24日号」で3月13日発売です。

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