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歌旅 いしだあゆみ 「ブルー・ライト・ヨコハマ」の喚起力 中西康夫
いしだあゆみの独特な歌唱で、横浜をテーマにした代表的な曲となり、さらに簡潔にして究極のラブソングでもある「ブルー・ライト・ヨコハマ」。音楽プロデューサーの中西康夫氏が、この永遠の名曲の舞台となった異国情緒の港町をめぐり、ロマンチックな旅に出る。
◇港町のエキゾチシズムと揺れる女心
今回の「歌旅」の行き先は、東京在住の私にとってはすぐ近くだが、東京とは異なる文化を持つ港町・横浜である。私にとって大切な歌であり、高校時代に刺激を受けた特別な場所を舞台にした「ブルー・ライト・ヨコハマ」を巡ってみたい。
私は、作家・作詩家のなかにし礼の長男として生まれ、小学生の頃に父が作詩した「時には娼婦のように」「ホテル」「恋の奴隷」などの曲がヒットしたため、同級生からかなりいじられた体験がある。父の作品には独特の文学的で官能的な要素が多く、人生経験を重ねて曲の奥行きを知ることになるのだが、それは大人になってからの話。そんな小学生時代、伯母のいしだあゆみが歌い、橋本淳のメルヘン的な歌詞と筒美京平の洗練されたメロディが際立つこの歌の存在には助けられるような気がしたものだ。
橋本淳と食事をした際、「先生、名曲『ブルー・ライト・ヨコハマ』ですが、」と水を向けると、「横浜は元々青くなかった。あの歌が売れたおかげで、夜のライトがすべて青に変わったんだ」と言われていた。
それが本当なのかは知る由もないが、「ブルー・ライトに照らされる横浜」が一定のパブリック・イメージになったのは確かだろう
「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、女優・いしだあゆみの代表曲であり、彼女にとって初のオリコン週間1位、そして年間3位にランクインして、「歌手・いしだあゆみ」を確立させた歌である。作曲家・筒美京平にとっても初のオリコン週間1位であり、この後「AMBITIOUS JAPAN」まで合計39回のオリコン週間1位を獲得する第一歩となる曲であった。
いしだあゆみはそれまでビクターから4年間で23枚のシングルをリリースしていたのだが、テレビや他の仕事が忙しくて宣伝活動をほとんど行えなかった。5万枚くらいの売り上げが最高で、歌手としてのイメージはあまりなかった。そこで、「歌手・いしだあゆみ」を打ち出すためにコロムビアに移籍。プロデュースを橋本淳と筒美京平のコンビが担い、3作品目が大ヒット「ブルー・ライト・ヨコハマ」となった。
この曲がリリースされたのは1968年12月25日だ。文化でも政治でも、新たな激しい潮流が起こりつつある時期である。いしだは20歳。年齢的には若くしての大ヒットだが、これは26枚目のシングルだった。いしだあゆみは大ヒットを携えて、翌年の大晦日(おおみそか)、NHK紅白歌合戦初出場に向けて邁進(まいしん)していく。
◇港の見える丘公園とカンヌの夜景
横浜と言えば、中華街を筆頭とする異文化圏が多くあること、そして港なので海だ。ところが歌詞には、想像するような横浜はどこにもない。男女2人の恋の様子が描かれているだけで、情景描写は「ブルー・ライト」のみ。「街の灯り」という歌い出しとあいまって、夜が歌われていることが分かる程度だ。横浜の歴史を遡(さかのぼ)ると、海との縁が切っても切れない街なのに、それがどこにも出てこない。でも、「ブルー・ライト」とは海が照らされて光る色なのかも知れない。
橋本淳は、港の見える丘公園から見た夜景と、フランス・カンヌの夜景を重ね合わせて詞を書いたそうだが、なぜか私には、夜の山下公園から見える波止場が浮かんでくる。中華街での食べ歩きの後や、コンサートや野球を観た帰り、余韻に浸りながら山下公園を歩く個人的な思い出が多いせいかもしれない。その時、頭の中にはこの歌が流れていた。具体的な情景描写がなくとも、いやないからこそ、個人的な記憶が曲のイメージを深めていく。これは流行歌の醍醐味(だいごみ)だろう。
私にとってこの歌は山下公園を喚起するのだが、まずは素直に橋本淳がイメージした港の見える丘公園に出向いてみることにする。みなとみらい線の元町・中華街駅から徒歩5分。とはいえ、それなりに急勾配の坂を登る。眼下に広がる横浜港。まさに港の見える丘だ。ここは、平野愛子が敗戦から間もない1947年に歌ったブルース味のある流行歌「港が見える丘」から命名されたそうだ。
横浜は、神戸や長崎と並ぶ異国情緒の漂う街で、早くから港が海外に開かれ、諸外国の公館が多くたち並んでいた。港の見える丘公園の一帯は開港当時、外国人居留地で、丘の上にはイギリス軍、丘の下にはフランス軍が駐屯していたという。第二次世界大戦後、連合国による接収が解除となって、1961年から公園として整備され、翌62年に開園。その後、周りにはフランス領事館跡のフランス山地域、イギリス総領事官邸だったイギリス館、また神奈川近代文学館などが建てられ、日本近現代の歴史と文化に触れられる場所になっている。
横浜市の花はバラなのだが、イギリス館の前には「イングリッシュローズの庭」もあって、ここにいるだけで西欧を感じてしまう。橋本淳がカンヌを重ねて描いた感覚に深く納得させられる。曲名に「横浜」ではなく「ヨコハマ」とあるのは、外国文化を含み込んだハイカラな街を表現しようとしたに違いない。
◇勝烈庵のトンカツは異文化混淆の精華
夜の帳(とばり)が降りた後、ここから見える横浜の港はまさに青い。これは当然「ブルー・ライト・ヨコハマ」以前からのことだが、太陽の光がない夜空はブルーなのだ。海と空、つまり地球が持つブルーを港町が映し出す。この曲ができた頃は高度成長真っ只中である。いまのLEDの発光とは違い、ぬくもりある灯(あか)りが空を海を街を照らしていたと思う。そう思いを馳(は)せると、冒頭の「街の灯りがとてもきれいねヨコハマ」という歌詞が胸に降りてくる。「きれい」としか表現しようのない美しさとは、そこに生きる人々の暮らしの手触りでもあり、醒(さ)めた青は、実は市井の人々の存在感も包んでいたのではないだろうか。それをいしだあゆみの、クールでいてあたたかみのある声がさりげなく、たしかに、表現する。
「歌旅」のいつもの展開だが、きれいな街を見下ろして心を満たした後は、腹を満たさねば。やはり中華街か。世界最大級と言われる中華街は横浜の「中国文化圏」を形づくっていて、その象徴が崎陽軒(きようけん)の「シウマイ弁当」だろう。私も新幹線での旅には必ず「シウマイ弁当」を買って乗る。そういえば、まだ横浜の港の景色を見ながら食べたことがない。山下公園や港の見える丘公園で食べたらどんな気分だろう。心とお腹(なか)のマリアージュを想像するだけで楽しい。
余談だが、この「シウマイ弁当」の包装、東京工場と横浜工場での工程が少し違う。東京工場は箱型の蓋(ふた)になっているのだが、横浜工場では掛け紙を手作業で十字に紐(ひも)で結んでいる。この手作業がお弁当を開ける際にふと感じるぬくもりになる。これは、横浜を訪れた人への気遣いとプライドだろう。
お弁当ではなく、中華料理店で食べようかという気もしてくる。中華街に近づくと大きな門が出迎えてくれる。風水思想に基づいて作られた門は「牌楼(はいろう)」と言われ、訪れる人々を異世界に誘う雰囲気を醸し出している。この門が見えると、パスポートのいらない中国文化圏に越境だ。一時期上海にハマっていた私は、無条件で中国に行きたくなってしまう。大陸で生まれた父のDNAの影響だろうか。目に見える景色だけでなく、中国人たちの活気とほのかに香る中華系香辛料の匂いが私を刺激する。
中華街では、以前よく行っていたお店の店長が高齢になって閉店したので、いまはだいたい食べ歩きになる。老舗のお店が減り、高級店かビュッフェスタイルのお店が多くなったのは個人的には残念だが、時代の流れとして致し方ないのかもしれない。
シウマイ弁当、中華街と巡った末、今回の「歌旅」は港の見える丘とカンヌの夜景からインスピレーションを受けた歌が起点ということに思い至り、中華ではなく、ヨーロッパ伝来のものを食べたくなって「カツレツ」を選択した。「カツレツ」は明治期に伝わってきたフランス料理の「コートレット」から来ていて、英語で言うと「カットレット」、それが日本人には「カツレツ」と聞こえたようだ。元のフランス料理では薄くスライスした仔牛(こうし)肉にパン粉をまぶしてバターで炒(いた)め焼きにしたもの。これが日本風にアレンジされて豚(トン)を使った「カツレツ」、つまり「トンカツ」となった。まさに異文化混淆(こんこう)、横浜を代表する料理だろう。
訪れたのは1927年創業の馬車道「勝烈庵」。外国人コックがもたらした「カツレツ」を、初代庵主が工夫を重ねて作り上げたものだ。勝烈庵は芸術や自然にも傾倒していて、棟方志功と交流があって店内には多くの作品が展示されているし、お箸は熊野古道の杉の間伐材などを使用している。そんな多くのこだわりを持つこの店の一番の売りはソースだ。野菜や果物を丁寧に2日間煮込み、1日寝かせて完成させたもの。ソースの美味(おい)しさは他に類をみないもので、私は毎回、カツレツに行く前に、ソースだけでキャベツを平らげてしまう(キャベツとご飯はおかわり自由)。
キャベツでお腹を落ち着かせた後、カツレツの登場だ。ソースをたっぷりとかけ、カラシを少し乗せていただく。このソースの味わいは、日本のトンカツとは違う異国を感じさせてくれる。世界に認められた棟方志功の板画(志功は一貫して木版の特性を活(い)かした作品作りをしていたため、版画ではなく板画)に囲まれながら食す「カツレツ」は、開港後、異なる多様な文化を受け入れ、新たなものを生み出してきたヨコハマだからこそ完成された芸術作品だと言えるだろう。
◇ヨコハマは恋人たちの聖地になった
満たされたお腹で、再び夜の山下公園へ。
中華街やカツレツなどの食を一瞬で忘れてしまう。テレビのチャンネルを変えて、ドラマのロマンチックな場面に入り込んだような気分だ。そして、自分は歌の中にいるという錯覚に陥った。立って眺めるのではなく、歩きたくなる。港には大きな船が何隻も停泊しているが、小舟は一艘も見当たらない。
なぜ歌詞に「小舟」が出てくるのか。そう、小舟は女性の揺れる女心そのものなのだ。山下公園を歩く恋人たちが小舟に見えてくる。
父は、筒美京平が亡くなったとき、こう言った。
「『ブルー・ライト・ヨコハマ』はいしだあゆみの半拍遅れたような歌い方が新鮮で、それが男女の揺れる関係を暗示してもいたんだけど、京平ちゃんの曲自体に、揺れとタメが含み込まれてるんだよね。それが彼の天才だよ」
横浜が恋人たちの聖地になったのは「ブルー・ライト・ヨコハマ」があったからこそではないだろうか。たんに、港町であり、マリンタワーがあり、ベイブリッジが見えるからではなく、この歌が人々の潜在意識に染み入り、恋人たちはヨコハマに向かうようになったのではないか。
30年後の1998年に大ヒットしたサザンオールスターズの「LOVE AFFAIR〜秘密のデート」は不倫の渦中での愛の切なさを歌っているが、歌詞には「ブルーライトバーで泣き濡れて」の一節があり、サザンの曲の恋人たちも「ブルー・ライト・ヨコハマ」を胸に宿しているように聞こえる。
「ブルー・ライト・ヨコハマ」は最小限の言葉で、シンプルに、美しく、愛し合う二人の姿を描き出した。異文化が交わり、空と海の青さが際立つヨコハマで。人々はそこにそれぞれの夢と現実を託したのである。
揺れる女心を普遍的に表現し続けた、いしだあゆみの歌唱力に改めて感嘆する。
横浜の景色は年々変わっていくが、どんな時代にも愛と青春は必ずある。私も、秘めた恋の数々を走馬灯のように思い出そう。青い光は、私たちの未来も照らしてくれるはずだ。
<音楽プロデューサー 中西康夫>
なかにし・やすお
1972年生まれ。音楽プロデューサー。演出助手、舞台監督として、「レ・ミゼラブル」などのミュージカルに数多く携わる。2004年から日音で新人アーティストのプロデュースやイベントなどを行っている