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皇族という「血のスペア」「かかし」と扱われる苦悩 成城大教授・森暢平
社会学的皇室ウォッチング!/121 これでいいのか「旧宮家養子案」―第23弾―
現皇室典範での男子皇族の存在意義は、究極的には「血のスペア」、すなわち皇位継承予備者であることであろう。過去、多くの皇族がスペア(補充者)であることに悩んできた。旧宮家養子案は、苦しみから解放された家系にある人たちを苦悩の世界に再召喚するプランである。今回は、久邇宮邦彦を中心に戦前の皇族たちが、苦悩にどう向き合ったのかを考えてみる。(一部敬称略)
久邇宮邦彦(くにのみやくによし)は1873(明治6)年生まれ。父の朝彦が91年に亡くなったため、18歳で宮家2代目当主となった。99年、26歳で、薩摩島津家の俔子(ちかこ)と結婚。昭和天皇の后(きさき)、香淳皇后は、邦彦・俔子夫妻の長女であるから、邦彦は、現在の天皇の曽祖父にあたる。
邦彦は日露戦争に出征したが、褒章に不満だった。1906(明治39)年12月28日、家令である角田敬三郎に、自分の気持ちを次のようにつづった。「日本国内にいると、皇族としていかにも尊敬されるように扱われるが、実際の手柄は、その手柄を立てた人が取り、表面だけで皇族として尊ばれるのは、この上ない不快なことである」。こう考えた邦彦は3年ほど、海外に出て、過去の不快を一掃しようと決意した。「西洋に行って、初めて人間並みの幸福に浴することができる」と考えたためである。
1907年から2年半、邦彦は欧州に派遣される。ドイツ・ベルリンに滞在中、邦彦は、宮内省が個々の皇族の能力や実績を評価せず、平等に扱うことに不満を抱いた。再び、角田への書簡である。
「(宮内省は)我々(皇族)の賢愚、善悪を論じないで平等に扱い、その日をやり過ごすために費用を与える。実に、皇族に対する扱いは、ほとんど社会主義の平等論と少しの差異もない」「実に日本の皇族ほど『かかし』のような無用の長物として扱われるものは、世界の王族にはもちろんないし、平民にもないだろう。私はときとして、皇族たる肩書があるのを残念に思うことがある」(08年8月22日付)
当時皇太子であった嘉仁(よしひと)(のちの大正天皇)には3人の子ども、裕仁(のちの昭和天皇)、雍仁(やすひと)(のちの秩父宮)、宣仁(のぶひと)(のちの高松宮)がいた。伏見宮家、山階宮家という久邇宮家より皇位継承順が上位にある宮家にも複数の継嗣がいた。邦彦に皇位継承の順番が回ってくる可能性はほとんどなかった。
◇臣籍降下には反対 煙たがられる存在
右の書簡が書かれた12年後(1920〈大正9〉年)、「皇族の降下に関する施行準則」が定められる。大正天皇は皇子に恵まれたため、皇族数を整理する必要があり、宮内省が臣籍降下の原則を定めた。影響が大きかったのは、伏見宮家系の皇族たちである。久邇宮家でいえば、邦彦の孫世代までは長男ならば皇族であることが保障されたが、その下の世代は、情願または勅旨によって華族に降下させると定めた。
邦彦は施行準則に反対した。「準則のとおりでは、皇統の断絶の懸念がある」として、皇族の一人として案に賛成することはできないと強調した(『倉富勇三郎日記』20年4月19日条)。邦彦はさらに、伏見宮家系の皇族に対し反対に回るよう説いて回った。施行準則は皇族会議を通さなければならず、皇族の賛否は半々の情勢だった。反対の急先鋒(きゅうせんぽう)が邦彦である。
元老の山県有朋は、「皇族である方々は、現今の時勢を達観し、大処高処に着眼して意見を定めなくてはなりません」「もし皇族で、この案に反対したというようなことが世間に分かれば、皇族自身の不徳のみならず、皇室の不徳ともなるでしょう」と説得したが、邦彦は聞く耳を持たなかった。
結局、「皇族全体が、自己の利害に関する問題」であるとして、皇族会議(5月15日)での議決はしないことになった。施行準則案は枢密院会議の決議を経ていたから、こののち天皇の裁可を経て、実際の制定に至る。
邦彦は皇族が「血のスペア」であることに苦しみながら、一方で、臣籍降下の原則には反対した。なぜか。それは、自身が宮内省のロボットではなく、主体的な存在、考える皇族でありたいと考えたためであろう。邦彦は宮内省や元老の考えには従わず、宮内省にとって厄介な存在となった。
皇族は血のスペアである。しかし、それだけでは生きる意味がない。だから、意味を見出(みいだ)すために、主体的に行動したい。ところが、そうすると、宮内省から煙たがられる存在となる――。皇族は矛盾を抱えた存在だ。
◇苦悩を引き受ける旧皇族がいるのか
その矛盾については、高松宮も日記に書いている。
「日本が、万世一系の天皇の統(す)べたまう国であるために、その嗣継のために皇太子が必要であり、そのまた予備の人がほしいことも否定できないところであるが、しかし、無数無限の予備を意味しない」「生きていて、悪いことをしないのがスペアとしての全生命である」(『高松宮日記』1929年補遺欄)。皇族がロボットであることを拒否した高松宮は戦時中、盛んに政治的な動きをし、のちに昭和天皇から遠ざけられた。
チャールズ英国王の次男ヘンリー王子の自伝『スペア』が発売されたのは昨年である。王室官僚は「ヘンリー皇子の継承順が5位や6位になれば、飛行機事故のときぐらいしか出番がなくなるだろう」と彼を話題にしていた。自伝にはそれに傷つく王子の屈折が描かれる。兄が子だくさんとなれば、兄一家全員が事故で亡くなったときぐらいしかヘンリーの継承可能性はないという意味である。
今のままでは断絶する常陸宮家、三笠宮家、高円宮家の三つの宮家すべてに、旧宮家の男子の養子を入れる。場合によっては、すでに断絶した秩父宮、高松宮、桂宮を、養子によって復活させてもいい――。男系主義者たちはそんな案を語っている。
市井で暮らす旧皇族の一部を、苦悩と葛藤と屈折の暮らしに引き戻すプランが本当に妥当であろうか。それ以前に、そもそも「かかし役」を引き受ける旧皇族がいるだろうか。
『久邇宮家関係書簡集―近代皇族と家令の世界』(吉川弘文館、2024年)を参照した。
<サンデー毎日8月4日号(7月23日発売)より、以下次号>
■もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など
[写真]久邇宮邦彦王妃俔子=1939年(昭和14年)3月撮影