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「時代の歌姫」の新たな伝説 中森明菜が復活する! 中森明夫
『少女A』『TATTOO』『飾りじゃないのよ涙は』…
音楽への熱情を抱いて雌伏していた中森明菜が、ついに動き始めた。歌手が孤高の芸術家であり、時代の表現者であることを誰よりも体現する明菜を、デビュー時から見つめてきた中森明夫氏が、そのパフォーマンスの尽きない魅力と、再び時代に響く歌の予感を語る――。
中森明菜が7月13日、ファンクラブのイベントに出演する。彼女が観客の前に姿を現すのは、実に7年ぶりのことだ。10年ほど、テレビ番組にも出演していない。メディアの一線から完全に姿を消した。いったい何が起こっているのか?
中森明菜は傑出したスターだ。その軌跡を振り返ってみよう。1982年5月、16歳、『スローモーション』でデビューした。キャッチフレーズは、なんと〈ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)〉!
それは新人アイドル大豊作の年で、〝花の82年組〟とも称された。明菜をはじめ、小泉今日子、早見優、堀ちえみ、石川秀美、三田寛子といった面々である。デビュー当時のジャケット写真を見ると、見分けがつかない。みんな聖子ちゃんカットをしていた。
1980年4月にデビューした松田聖子は、80年代アイドルのレジェンドだ。
〈アイドルは南からやってくる〉というテーゼがある。日本のアイドル第1号は、南沙織だった。71年6月、『17才』でデビュー。南の島・沖縄からやってきた。
70年代終盤、アイドルのブームは衰退する。その時、忽然(こつぜん)と九州・福岡から現れた松田聖子が80年代アイドルの扉を開いたのだ。
その後、アイドル冬の時代を経て、90年代半ば、やはり南の沖縄からやってきた安室奈美恵とSPEEDが日本中の少女たちを踊らせた。アイドル史は奇妙にも反復する。
ディケードの初頭に南からやってきた少女(南沙織/松田聖子)が扉を開き、半ばに現れたモンスター的なグループ(ピンク・レディー/おニャン子クラブ)がヒットチャートを消費し尽くして、やがて冬の時代へと至る。
その意味で、かつて私は中森明菜の軌跡を「十年遅れの山口百恵」であると説いた。
〈73年と82年というほぼ十年遅れのデビュー、横須賀と清瀬という東京近郊都市出身、母子家庭と今どき子だくさん家庭という特異な出自、『スター誕生!』でデビューし新人賞は逸するが、デビュー数曲後、ツッパリ少女風の危うさが印象的な歌でチャート1位のヒットを飛ばす(百恵『ひと夏の経験』、明菜『少女A』)、そして映画での共演相手である男性とのロマンス……。さらに件(くだん)の相手と70年代末に百恵が結婚・引退を決意したように、80年代末に明菜もまた結ばれることができたなら、ほぼ完璧な形で「十年後の山口百恵の物語」は完結するはずだったのだろう〉(中森明夫『アイドルにっぽん』2007年)
◇この国の急激な失墜とパラレルに
中森明菜は幼少時から山口百恵を尊敬していた。百恵と同じく中学生で『スター誕生!』に挑戦したが、二度も落選している。三度目にして合格、デビューを果たした。その時、彼女が歌ったのが、百恵の『夢先案内人』であったのは、あまりにも暗示的だ。
レコード大賞新人賞こそ逸したが、『少女A』のヒット以降、シンガーとしての明菜は卓越していた。1980年代、当時は毎日のように歌番組があって、誰もがテレビでアイドルの歌う姿を見ていた。TBSの『ザ・ベストテン』では聖子と明菜が激しくランキングを競う。80年代半ばに聖子が結婚・出産して活動を休止すると、明菜の独り舞台となった。聖子も山口百恵も叶(かな)わなかった日本レコード大賞の大賞を、明菜は2年連続で受賞している(85年『ミ・アモーレ』、86年『DESIRE―情熱―』)。そう、たしかにかつて〝中森明菜の時代〟が存在したのだ。
80年代中後期、思えば、それは昭和末であった。当時の中森明菜の最高のパフォーマンスを記録した映像を、私たちは見ることができる。1989年4月、よみうりランドEASTで開かれた野外コンサートだ。〈伝説のコンサート〉と題して2年前にNHK総合で放送された。当初は6月19日に放送予定だったが、放送直前に石川県能登地方で震度6弱の地震があり、急遽中止となる。なんだか不吉な胸騒ぎがした。そして延期放送されたのが、7月9日である。前日、安倍晋三元総理が銃撃されて亡くなっていた。翌10日は、異例な状況下での参院選投開票日である。なんということだろう。日本中が揺れていた。それでも33年前のコンサート映像が放送されると、ツイッター(現X)のトレンドワードで「中森明菜」が第1位に躍り出たのだ。
1989年春の中森明菜のパフォーマンスは圧巻だった。デビュー8年目を迎える23歳である。野外ステージに肩を丸出しにしたボディコン衣装で現れると、『TATTOO』を歌い、踊る。『ジプシー・クイーン』『ミ・アモーレ』『飾りじゃないのよ涙は』……と名曲・ヒット曲が続く。『十戒』ではイナバウアーよろしくググッと背を反らせ、『AL−MAUJ』では片手を上げてくるくると旋回し、『難破船』では涙を流してみせた。
懐かしく、かつ感動的だ。あの80年代の空気が一気に甦(よみがえ)ってくる。時折、観客席が映るが、若者たちの笑顔がどこか楽観的なのだ。現在とは明らかに違う。いわゆるバブル景気が爛熟へと向かう頃である。まさかその後、長く続く不況が訪れようとは誰も想像してはいない。
これが「伝説のコンサート」と称されるのには理由がある。3カ月後、89年7月、明菜は当時交際していた近藤真彦のマンションで自殺未遂騒動を起こすのだ。彼女のキャリアは途絶えた。その年の大晦日(おおみそか)(80年代最後の日)に近藤を伴って記者会見を開く。
復帰を果たし、女優として新たな魅力を発揮するも、歌手としては苦難の道へ。仕事上のトラブルや体調不良がたびたび報じられ、やがて活動を休止してしまった。
先の「伝説のコンサート」は、歌手・中森明菜の輝きのピークを記録したものに見える。その姿があまりにもまぶしく美しいがゆえに、それ以降の彼女の苦節が思いやられ、暗い気分に沈む。しかもそれは、バブル崩壊後の急激なこの国の失墜とパラレルに見えるのだから。やはり中森明菜は宿命的な〝時代の歌姫〟なのだ。
◇「82年組」小泉今日子との同志的な絆
一度だけ、中森明菜と会食したことがある。93年初夏のことだ。『スター誕生!』の番組終了10年となるその年の暮れ、日本テレビが特番を企画する。番組卒業生の中森明菜と小泉今日子の共演ドラマをやろうというのだ。その原作の執筆が私に依頼された。
顔合わせということで、麹町の旧・日本テレビの近くの和食屋で昼食会をやった。中森明菜と小泉今日子が同席する。二人は共に意外なほど小柄だ。それでいて異様なオーラを発している。お店の若い仲居の女性が、中森と小泉の2ショットを見て「ひっ」と奇妙な声を上げ、目を丸くして固まってしまった。
個室の座敷にテーブルを囲んで座る。自己紹介した。私のペンネームは明菜にあやかったものだ。彼女がデビューした82年春、ミニコミ雑誌の編集長がつけてくれた。「すみません、勝手にお名前を拝借して……」と私が謝罪すると、「あっ、いえ、全然」と彼女は笑って受け流した。
目の前で見た実物の中森明菜は、美しい。しかし、ひどく痩せている。顔色もすぐれない。和食のお膳が運ばれてきたが、まったく手をつけなかった。「食べたほうがいいよ」と小泉が心配そうに声をかける。
二人は同志的な絆で固く結ばれていた。『スター誕生!』の昔話になると、明菜の表情が急に明るくなる。懐かしい話に花を咲かせて、キャッキャと笑っていた。まるで無垢(むく)な子供のような愛らしさである。
ステージ上で圧倒的な存在感を発揮するスター・中森明菜はそこにはいない。囁(ささや)くように声は小さく、かぼそく、さながらガラス細工のようにきらきらとした危うく美しい生き物である。この無垢な子供のような女性(ひと)が、どうやって芸能界の荒波の中を生きてこられたのか? 今でもあの日の彼女の姿を思い出すと、私は胸が締めつけられそうになる。
2010年、中森明菜は無期限休養を発表した。体調不良によるという。それでも14年末のNHK「紅白歌合戦」にサプライズ出演した。ニューヨークからの生中継だったが、痩せてやつれた姿に心配の声が上がる。その後10年、まったくテレビには出ていない。
17年のディナーショーが、観客の前で歌った最後である。これには私も駆けつけた。ホテルのステージに現れた明菜に、目を見張る。真っ赤なドレスを脱ぎ捨てると、肌もあらわなボディコン衣装で往年のヒットメドレーを歌い上げた。あの「伝説のコンサート」の姿が甦る。大ヒット曲『十戒』では、やはりイナバウアーばりにググッと背を反らせてみせた。彼女の歌声には懐かしい〝星の匂い〟がする。
私と同じテーブルの中年男性客が「明菜――っ!!」と絶叫して泣きじゃくっていた。すごい。これほど大人の観客を熱狂させるアイドルは、彼女ただ一人だろう。そうだ、中森明菜はやはり特別なのだ。彼女の歌の一曲一曲が、あの頃、そう、昭和末の時代と緊密に結びついている。
◇美空ひばりを継承する「孤高の歌姫」
中森明菜は〝昭和最後の歌姫〟だ。彼女のキャリアが途絶えた89年、6月に美空ひばりが亡くなった。享年52。明菜はその年齢を超えた。美空ひばりを継ぐのは、中森明菜なのだ。これは私だけの見解ではない。
アイドル論の画期となった『山口百恵は菩薩である』(1979年)の批評家・平岡正明の著作集(月曜社)が先頃、出版された。そこに収録された「中森明菜、自殺未遂時点での芸術的飛躍の予感」は、平岡の最後のアイドル論である。
〈美空ひばり「哀愁波止場」と(西田)佐知子「アカシアの雨」が六〇年安保の中ですれ違ったのは象徴的だ――「飾りじゃないのよ涙は」をもって、中森明菜が山口百恵からバトンをひきつぐ位置につけた〉
美空ひばりを筆頭に昭和の歌姫たちのバトンをひきつぐ最終継承者(ランナー)として、平岡は中森明菜を指名した。
令和の今、アイドルはほとんどグループだ。中森明菜は最後のソロアイドルである。彼女の歌声の秘密――それは美空ひばり以来の戦後歌謡曲を継承し、平成以後の安室奈美恵、宇多田ヒカル、椎名林檎らJポップのディーバへと受け渡した。孤高の歌姫である。
7年ぶりに観客の前に姿を現わす7月13日は、実は明菜の誕生日だ。59歳になる。
現在、YouTubeには彼女の歌う最新映像が次々とアップされている。『北ウイング』『TATTOO』『ジプシー・クイーン』等のヒットナンバーがジャズ調やクラシック調にアレンジされて歌われた。再生回数は数千万回にも及ぶ。「歌手・中森明菜、復活」の待望の声は大きい。
そうして2024年、令和6年の今は……実は昭和99年(!)でもあった。昭和99年の大晦日、「紅白歌合戦」のステージで〝昭和最後の歌姫〟中森明菜の歌う姿が見たい。
いや、それだけではない。来年、昭和100年に、彼女は60歳になるのだ。
〝昭和100年の中森明菜〟の歌声に耳を澄ますこと、そこから新たな伝説が始まる!!
<サンデー毎日7月14日号(7月2日発売)より>
なかもり・あきお
1960年、三重県生まれ。評論家。作家。アイドルやポップカルチャー論、時代批評を手がける。著書に、『東京トンガリキッズ』『アナーキー・イン・ザ・JP』『午前32時の能年玲奈』『青い秋』『TRY48』など多数。最新作は、自身のアイドル評論人生の集大成たる『推す力』
<サンデー毎日7月14日号(7月2日発売)より>