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新潟・湯沢 フジロックフェスティバル25年の歩み 音楽フェスで築くまちづくりの今後
野外音楽フェスの先駆者である「フジロックフェスティバル」が、今年も7月26~28日の3日間、新潟県湯沢町の苗場スキー場で開催される。苗場開催は25年目だ。そこで、四半世紀を振り返るとともに、今後の課題や湯沢町のまちづくりについても考察してみた。
1997年7月、第1回の「フジロックフェスティバル」は富士山の麓(ふもと)の山梨県・富士天神山スキー場で開催された。主催は国内外のアーティストのコンサートなどを企画・制作・運営する会社「SMASH(スマッシュ)」だ。同社執行役員の石飛智紹(いしとびともあき)さん(65)は語る。
「当社は、新しいライブの楽しみ方を提供してきた。1980年代には後楽園ホールで観客席を取り外し、土間部分で観客が自由に踊れるスペースを設けたり、お酒を飲みながら楽しめるようにしたりとか。その自由の延長線上が大自然の中で音楽を楽しめる空間としてのフジロックでした」
オールスタンディング、いわゆる「立ち見」は、定員300~500人規模の狭いライブハウスに限られ、1000人以上のホールでのコンサートは客席での鑑賞が当たり前の時代だった。
そのような試みを続ける中で、大自然の中で自由に音楽を楽しめる場を提供したいと考え、フジロックを開催するに至ったという。その〝お手本〟となったのが、英国で開催されている「グラストンベリー・フェスティバル」だった。
70年から始まり、現在も毎年6月に行われているグラストンベリーは、3日間の開催で15万~18万人の来場者で賑(にぎ)わう世界最大規模の野外音楽フェスで、昨年は約21万人を動員したという。その特徴は、世界のトップアーティストが揃(そろ)うとともに、東京ドーム約77個分の約3・6平方㌔㍍という広大な農場で開催される点だ。
しかし、富士天神山での開催は台風9号の直撃を受け、2日目は中止に追い込まれた。元はスキー場で、標高約1300~1500㍍の場所。しかし、野外ライブといっても環境が整った平地での会場が当たり前の時代、観客はTシャツに短パン、女性はハイヒールという軽装の人たちも多かった。その中での台風直撃は、惨事に等しい出来事になった。
『平成のヒット曲』(新潮新書)、『ヒットの崩壊』(講談社現代新書)などの著書があり、幅広く国内外の音楽シーンを解説する音楽ジャーナリストの柴那典(とものり)さん(47)は、当時音楽好きの京大生として会場に足を運んでいた。
「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン(以下、レイジ)など海外の有名なアクトが一堂に会するイベントはこれまでなかったので、とても高揚して行ったことを覚えています」
しかし、〝伝説のライブ〟を見た満足感よりも這這(ほうほう)の体(てい)で逃げるように会場を後にした柴さんには、「また来年もここで会いましょうとは思えなかった」という苦い記憶として刻み込まれてしまった。
スキーバブルの〝遺産〟を活路に
翌98年は会場を東京・豊洲に「緊急避難的に移して」(石飛さん)開催された。現在の豊洲市場がある場所である。野外ではあるものの、「自然との共生」とはかけ離れたものとなった。
2年連続で悔しい思いをしてきたSMASHに新潟・湯沢での開催の提案が持ち込まれた。
「富士天神山スキー場でやる前、実は全国100カ所くらい視察していた場所の中に苗場もありました。しかし、会場にするには狭くて不適切だと判断していた」(石飛さん)
つまり、当初は乗り気ではなかった提案だった。湯沢町の苗場プリンスホテル敷地内にあるスキー場のコースではフェス会場にならないと見ていたのだ。しかし、ホテルの敷地はそれだけではなかった。ヘリポートや駐車場、ゴルフ場、テニスコートなど広大な敷地があったのである。
「私たちにとって盲点でした。〝スキーバブルの負の遺産〟が目の前に広がっていたのです。それらを改良、整備してもらえればフェス会場にできると提案し、湯沢開催に至ったのです」(同)
一方、人口9000人ほど(当時)の町に突如浮上した音楽フェスの開催を、地元の人たちはどう受け入れたのだろうか。湯沢町役場の南雲剛・子育て教育部長(59)は通算21年間、観光課に所属していた〝観光のエキスパート〟で、99年の苗場初開催時も観光課に在籍していた。苗場プリンスホテルとSMASHとの協議がまとまった99年、地元町内会や商工関係者らを集め、SMASHによる説明会を町役場で開催。その場に南雲さんも出席したという。その時の様子を南雲さんはこう記憶していた。
「説明を聞いた地域の方々は『受けてみようじゃないか』と賛同しました。実は88年から93年まで湯沢中央公園の野球場で『POP ROCKETS』という野外音楽フェスのはしりのようなイベントが行われたことがあったので、抵抗は少なかったのだと思います」
しかし、POP ROCKETS2年目の89年、デビューしたてのX JAPANが出演した時、町内はビジュアル系ファッションの若者で溢(あふ)れた。ロックフェスでまた違和感だらけの人たちが町内を闊歩(かっぽ)するのではないかという懸念が地元の人たちの頭をよぎった。
「とはいえ、湯沢は観光の町なので、ものすごい抵抗感というものはなかったと記憶しています」(同)
受け入れには好意的だったものの、一つの問題が生じたという。
「7月最終週の湯沢町は、高校生、大学生、社会人のスポーツ部やブラスバンドの合宿があり、宿泊施設は多忙な時期。その兼ね合いが問題になりました」(同)
旅館やホテルが満員になりやすく、駐車場も混みやすい。その〝交通整理〟が最初の課題だったという。このような問題も石飛さんたちは一つ一つ丁寧にクリアし、何とか無事開催に漕(こ)ぎ着けた。
湯沢でロックフェス文化根付く
第1回にも出演したレイジや、ブラー、ZZトップなどの海外有名アーティストがヘッドライナー(主役)を務め、国内アーティストも忌野清志郎や東京スカパラダイスオーケストラ、奥田民生など錚々(そうそう)たる面々が出演し、観客は延べ7万人を超えた。
前出・柴さんはこう語る。
「日本のロックフェス文化は、湯沢で2回目以降となる2000年から始まったと言えるでしょう。これまで野外イベントとしては全日本フォークジャンボリー(通称・中津川フォークジャンボリー)や箱根アフロディーテなどありましたが、同じ場所で毎年行われる野外ロックフェスはなかったからです」
全日本フォークジャンボリーは、69年から71年までの3年間、岐阜県の椛(はな)の湖畔で開催されたものの、運営上のトラブルなどで打ち切りとなり、定着には至らなかった。
71年に開催された箱根アフロディーテは、箱根芦ノ湖畔にある成蹊学園所有の乗風台で開催された野外音楽イベントで、海外アーティストを招へいした日本初の大規模野外フェスだ。プログレッシブ・ロックで人気を博したピンク・フロイドの初来日で話題となったが、単年で終わっている。
一方、フジロックは場所を変えながらも毎年続け、湯沢に会場を移し定着させたことで、日本に新たな音楽フェス文化が根付いたのだと柴さんは指摘する。
しかも、「従来のイベントは野外であっても椅子が用意されていたり、ブロック分けされているコンサートで、オールスタンディング形式のフェスは初めての試み」(柴さん)だった。
地元小中学生招待で地域密着を
そうした中、継続可能なイベントとして取り組んだのが環境問題だ。台風で中止に追い込まれた第1回の教訓は、散乱したゴミの山だったと石飛さんは振り返る。分別はもちろんのこと、リサイクルにも積極的に取り組み、今や世界から「世界一クリーンなフェス」との称賛を得ている。
また、地域とのつながりを重視し、地元の小中学生を毎年招待している。
「私たちが子どもの頃、洋楽に心ときめかせたのと同じ体験を今の子どもたちにも経験してもらいたい」(石飛さん)
地元との共生が、フジロックが四半世紀続けられてきた秘けつなのか。さらに、行政も積極的に取り組んでいるという。湯沢町企画観光課の富沢雅文課長(54)はこう語る。
「会場内の環境整備を支援しています。昨年は、トイレ整備や熱中症対策などで水不足が指摘されたことを受け、地下水を利用するため井戸掘削を進めているところです」
また、ふるさと納税の返礼品として昨年からチケットを出している(今年分は6月末まで受け付け中)。
「昨年から始めた試みで、昨年は約1億円のふるさと納税が集まりました」(同)
観光資源として十分に機能している証左の一例だろう。それだけではない。
町と連携して就職・転職サポート(職業紹介)および移住サポートサービスを行っている「きら星」の伊藤綾社長(38)は、東京から移住して起業した〝フジロッカー〟である。
「私は新潟県柏崎市の出身で、大学進学を機に上京しました。バンドサークルに入っていた学生時代の2004年にフジロックを観たのが最初です」
大学卒業後に就職、結婚して子どもにも恵まれた。しかし、2人目の妊娠をした18年、「このまま東京で働いて暮らしていっていいのかって、モヤモヤした気持ちがもたげ始め」(伊藤さん)、地方に移住して起業することを思い立ったという。
「東京から電車で90分圏内で移住先を探し、熱海(静岡)や那須塩原(栃木)、軽井沢(長野)などを調べている中、湯沢に勝機があると思って決めた」(同)
JR越後湯沢駅は東京まで新幹線で約1時間20分。候補地の中では一番遠い場所だったが、「空き部屋のリゾートマンションが豊富で、若い世帯には住みやすい環境が整っている」ことが決め手の一つとなって、19年に伊藤さんは会社を辞め、湯沢町で起業した。
観光資源のメインはウインタースポーツだ。町内にスキー場は計12カ所あり、用途や環境に合わせて選べる利点がある。加えて、夏のフジロックも魅力の一つになっているという。
難関は「円安」「海外フェス」か
伊藤さんは昨年、湯沢町と新潟市の中間に位置する三条市に支店を出し、事業を拡大。これまで232人の移住を手がけた。このうち約8割が20~40代の若い世帯だという。
「今後、フジロッカーの移住促進にも力を入れていきたいが、そのためには行政との連携が不可欠。就労支援とともに、教育、医療、福祉や介護など暮らしやすい町への政策提言を積極的に行っていきたい」(同)
官民協働のまちづくりが進められることに期待が寄せられる。
そして、フジロックが今後も継続し続けるためには何が必要なのか。前出・柴さんはこう語る。
「やはり、旬の海外トップアーティストがヘッドライナーとして出演し続けることが一番大切」
しかし、時勢を見回すと厳しい状況も否めない。
「近年、マレーシアやインド、インドネシアなどでもフェスが増えています。世界のトップアーティストの〝奪い合い〟が激化する中、円安の影響で招へいが困難になっている」
それでも大自然の中での音楽の祭典は続けられる。今後、半世紀にわたる永続的な開催に向け、フジロックのあくなき挑戦と湯沢町のまちづくりを見守り続けたい。
(ジャーナリスト 山田厚俊)
やまだ・あつとし
1961年、栃木県生まれ。建設業界紙記者、タウン紙記者を経て、95年黒田ジャーナル入社。阪神・淡路大震災取材に従事。主宰する黒田清氏逝去後、大谷昭宏事務所に転籍。2009年からフリー