週刊エコノミスト Online サンデー毎日
ガザの惨劇 哲学者・鵜飼哲が語る「大量殺戮の時代」の核心【倉重篤郎のニュース最前線】
国際法と国際世論と平和憲法で戦争を終わらせよ
イスラエルによるガザ攻撃が凄まじい。短期的に見ればハマスからの攻撃に端を発しているとはいえ、パレスチナ人の死者は3万7000人を超えた。この暴虐に対して、ユダヤ人を含めた国際世論が非難の声を高めるいま、「行動する哲学者」鵜飼哲氏が、殺戮の時代を終わらせるための世界的な展望を語る――。
この不正義に国際社会は、いつまで無力なのか。
すでに発生から8カ月以上経過したガザ地区におけるイスラエル軍と、同地区を実効支配する反イスラエル武装組織・ハマスとの戦争だ。最初に仕掛けたのはハマスだ。越境攻撃により、251人の人質を拉致、約1200人を殺害した。一方でイスラエル軍の報復攻撃によるガザ地区の死者数は、計3万7000人に達している(ガザ地区保健省 6月15日現在)。半数以上が女性と子供という。
6月8日にガザ地区中部で行われたイスラエル軍による人質救出作戦では、パレスチナ側の274人が死亡、約700人が負傷した。人質4人が救出されたが、イスラエル軍の特殊部隊が無人機や戦闘機で無差別空爆したという。水・食料不足、衛生状態も深刻だ。国連世界食糧計画(WFP)は14日、100万人が避難を余儀なくされているラファなどガザ地区南部で飢餓が迫っている、と警鐘を鳴らした。
どうみても過剰報復ではなかろうか。パレスチナ人の命の値段はイスラエル人の10分の1以下なのか。ハマスの盾になっているとはいえ、非戦闘員である女性、子供をここまで殺(あや)めたことを誰がどう正当化できるのか。ユダヤ人のイスラエル建国については、約600万人のユダヤ人がドイツ・ナチ政権の下で虐殺された歴史があり、西側を中心に総じて同情的であるが、先住の民であるパレスチナ人に対する苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)ぶりは非道を極めている。国際世論からの孤立化、という意味で、一連のガザ攻撃はむしろユダヤ民族の安全保障を損なっている、とさえ見える。
もちろん、国際社会も手をこまねいているばかりではない。6月に入り米国が停戦に向けた新提案(全面的かつ完全な停戦、ハマスに拘束されている人質の解放、死亡した人質の遺体の返還、パレスチナ人囚人の交換)を示し、これを国連安保理が支持する決議を採択した(6月10日)。ロシアが拒否権を行使せずに棄権し、中国を含める残り14カ国すべてが賛成した。
二つの国際司法機関も動き出した。戦争犯罪など個人の犯罪を追及、処罰する国際刑事裁判所(ICC)が、ネタニヤフ首相らイスラエル側指導者2人、シンワル・ガザ地区最高指導者らハマス側3人の逮捕状を請求(5月20日)した。国家間の紛争解決にあたる国連機関である国際司法裁判所(ICJ)は、南アフリカによる「イスラエルの行為はジェノサイド(国民的、民族的、人種的、宗教的な集団殺害)である」との2023年12月29日の訴えを受け、ラファ攻撃を即時中止するようイスラエルに暫定命令を出した(5月24日)。
民族浄化を完成しようという意図
果たして、米主導の和平が成功するのか。国際司法機関により正義は体現されるのか。日本への教訓は何か。パレスチナ問題に詳しい哲学者の鵜飼哲(さとし)氏(一橋大名誉教授)と考える。
昨年10月7日のハマス側の突然の越境攻撃の背景に何があったのか。
「手がかりの一つが1月21日、ハマスが越境作戦について発表した見解だ。昨年9月22日の国連総会におけるネタニヤフ演説に言及、『イスラエルという国が、ヨルダン川から地中海まで、西岸とガザを含めて広がっている【新しい中東】なる地図を示したが、このパレスチナ人の権利に関する傲慢と無知に満ちたネタニヤフの演説に対して、国連総会の会場では全世界が沈黙していた』と怒りを表明している」
「ネタニヤフ演説の前段もあった。昨年9月9、10日ニューデリーで行われたG20で、米国がインドと欧州を鉄道や航路で結ぶ大規模な『インド・中東・欧州経済回廊(IMEC)』構想を打ち出した。明らかに中国の『一帯一路』構想に対抗するもので、貿易コストを下げて雇用を創出、温室効果ガスの排出も削減する、との触れ込みで、イスラエルとサウジを中心としたアラブ諸国との関係正常化、和解を促進するだけでなく、中国の影響力拡大をも牽制(けんせい)しようという一石二鳥のプロジェクトだ」
「こういった米国バイデン政権のヘゲモニーによる対中国包囲網の一環としてのイスラエルを軸とした中東戦略が、パレスチナ側の権利を無視して進められたことと、ハマスの作戦決行が無関係とは思えない。実際の経緯はいずれ資料が公開されれば判明するだろうが、直近の政治情勢として考慮に入れておくべきだ。バイデン政権の選択肢はこの枠組みの中にしかない」
米中覇権対立が底流に?
「昨年3月に中国の仲介でサウジとイランが外交関係正常化で合意したことが大きい。米国は中東での影響力低下という失地回復のため、『一帯一路』に『経済回廊』を対置、サウジを説得してこの構想に引き込みたい。軍事同盟締結や原発開発支援といったカードをちらつかせているのもそのためだ。サウジとしてはガザ停戦とパレスチナ国家承認が、国内世論との関係でも合意の最低条件だ」
「その米国では大学のキャンパスでパレスチナ連帯運動が盛んだ。この動きは9・11やイラク戦争の時期に思想・表現・学問の自由が脅かされたことに対して形成された学生、教員一体の抵抗運動まで遡(さかのぼ)れる。その後ブラック・ライヴズ・マターのような新しい黒人の人権闘争とユダヤ人主体の平和運動が連携していった。こうした異議申し立てを受けている米民主党政権は、大統領選が数カ月後に迫る中、何とか今回の国連決議の線で事態収拾しようとしているが、ネタニヤフ政権の極右閣僚の反対に遭って前に進めない。イスラエルのリベラル系の日刊紙『ハアレツ』には、彼らが米国の中東戦略を台無しにしているという記事も出た」
ネタニヤフ内閣も一枚岩ではない。ガンツ前国防相が9日、ガザ戦争の戦略欠如を理由に戦時閣僚ポストを辞任、ネタニヤフ首相は16日戦時内閣を解散した。
「ますます右に引きずられるとの見方がある。いずれにせよ、ネタニヤフ政権がこの際ガザのパレスチナ人はシナイ半島に、ヨルダン川西岸のパレスチナ人はヨルダンに押し出して、民族浄化を完成しようという意図を持っていることは明らかだ。依然としてラファやガザ中部に攻撃を続け、日々膨大な死者数が記録され、西岸でも入植者が暴れ、多くの犠牲者が出ている」
イスラエル国内世論は?
「ここ数十年和平派の社会的発言力を削(そ)ぐために、日本の共謀罪よりはるかにハードな法規制が積み重ねられ、反戦運動はほぼ圧殺されてきた。むしろ宗教右派がユダヤ教の戒律の文字通りの適用を求めて力を増している。『ハアレツ』英語版はイスラエルの現状を示す世界にむけた窓のようなメディアだが、『今のイスラエルの政策は自殺的で破滅への道だ』という見方が増えている。10月7日以前にすでに、『将来のイスラエルがアフガニスタンのタリバン政権並みの宗教国家になる』ことを憂慮する見方が出ていた」
軍事力に従う時代を終わらせるために
二つの国際機関、特にICCに注目したい。日本人で初めて所長になった赤根智子氏が先日来日し会見、「我々としては法の世界で正義を貫く、という姿勢を真っすぐに突き進め、他の方面の方々とも呼応した形で、最終的には平和な世界を目指すということに尽きる」と抱負を語っている。
「パキスタン系英国人のカリム・カーン主任検察官がすでに5人の逮捕状を請求、赤根さんら裁判官が逮捕状を出すかどうかを判断するという重要な局面だ。この裁判が仮に実現したらどうなるか。難民の子供であるハマス側の3人の指導者が被告席でどんな陳述をするかに全世界の注目が集まる。イスラエルの監獄を経験した彼らにとって、ICCのあるオランダ・ハーグの監獄など、ガザの地獄と比べれば天国だ。モサド(イスラエルの諜報(ちょうほう)機関)に暗殺される恐れもない。一方イスラエル側の2人には有罪判決は地獄になる。イスラエル国家の今までのやり方が通用しなくなり歴史的危機に陥るだろう」
「押さえておくべきは、ハマス側は先の1月の声明でICCに対し、10月7日の事態について公平な調査を求めていたということだ。それが全く報道されていない。ICCは国連からも独立した機関で、その協力関係は『国連と国際刑事裁判所の地位に関する合意』を締結することによって成り立っている(締約国は日本を含め124カ国)。米国とイスラエルは非加盟で、テロリストとされるハマスの方に、ICCから見れば、国際法規範へのリスペクトがより強く感じられるという、転倒した関係になっている」
「関連して言うと、我々はハマスについての知識が薄すぎる。1987年に結成されたパレスチナ解放運動の一番若い組織で、指導者崇拝を避けるため交代制、任期制で指導部の一新を図るなど、パレスチナ解放運動の過去の誤りの一定の反省を踏まえている。イスラエルがPLO弱体化のために育てた側面もある。米国が対ソ連戦略のためアフガニスタンでアルカイダを育てたのとやや似た関係だが、ひたすらパレスチナ解放のためにイスラエルと闘う組織で、いわゆる『国際テロ』とは無縁だ」
ICJはどう見る?
「アパルトヘイト(人種隔離政策)で苦しんだ南アフリカが音頭を取って、国際法を平等に適用しようという流れが出てきた。この戦争を終わらせるための十分条件ではないが、重要な貢献になっている。国際法をどう実効化するか。軍事力が強い国の意志に世界が従う時代を終わらせるためには避けられない課題だ」
イスラエルこそユダヤ人にとっての危険
日本への教訓は?
「日本国憲法の平和主義は、武力行使や武力による威嚇を禁じた近現代の国際法の実効性が発揮されればされるほど価値が高くなる。侵略戦争をすれば犯罪者として処罰されるという恐れを大国の指導者が抱くようにならないとその方向には進まない。日本では憲法と国際法の関係をこれまであまり重視してこなかったが、国際法が改善され実効性を持つようになれば9条の思想は生きてくるというつながりをもっと強調すべきだ。その流れの中で、日本人が国際刑事裁判の所長であることにも貴重な意義が認められることになる」
「パレスチナ国家の承認とジェノサイド条約への加盟が緊急の課題だろう。パレスチナ国家は世界で140カ国以上が承認している。それと同時に、国内の人権違反を国際法に準拠して防止するシステムを作るべきだ。そのためには国内法の整備が必要だ。赤根さんも日本について『ICC最大拠出国なのに人道に対する罪を裁く国内法がない。法整備を進めてほしい』と訴えていた。好戦的な米国に追随するのではなく、多極化する世界で多角的・全方位的外交にシフトすべきだ」
ガザ戦争の本質とは?
「『入植植民地主義』は必然的に民族浄化の大量殺戮(さつりく)に至るということだ。日本の満洲侵略も入植植民地だった。地元民と入植者の間で土地の奪い合いになり悲劇が生まれる。1948年の世界人権宣言以降、人権侵害を重ねる植民地支配は原理的に不可能になり、50年代、60年代にアジア、アフリカを中心に世界で植民地解放が進んだ。その流れに逆行するのがイスラエルだ。48年のイスラエルにとっての独立戦争がすでに民族浄化であり、67年以後は第3次中東戦争の占領地からの撤退を求める国連決議を無視し、パレスチナ人から奪った土地にユダヤ人専用住宅地を作り続けてきた。国連によると入植者は約72万人でこの10年余りで約20万人増えたという。イスラエルの現閣僚は何人も入植地に住んでいる」
「ガザでは自分や家族がまもなく殺されることが分かっている人々が、最後の言葉を映像に託してスマホで世界に発信している。人類史的に全く新しい、想像を絶する状況だ。これまでも植民地解放闘争では民間人が多数犠牲になった。アルジェリアのフランスからの独立戦争では、100万人から200万人の死者が出たと言われている。パレスチナは痛ましいことに21世紀もその時代を生きることを強いられている」
「世界史的意味でもう一つの特徴は、イスラエルを批判するユダヤ人が膨大に出てきたことだ。米国、カナダなどを中心に、次第に欧州でも、ネタニヤフのイスラエルこそがユダヤ人にとって最大の危険であり、世界中のユダヤ人の安全を脅かしているという声が大きくなった。イスラエルで自国中心の『洗脳教育』を受けた若者が、米国でパレスチナ人との連帯を表明するユダヤ人が多いことに驚き、強烈なアイデンティティ・クライシスを経験する。そういう例がいくつも報告されている。ユダヤ史の中でも決定的な局面だ」
◇ ◇
「法の支配」というのは、軍事大国・米国の十八番のセリフだが、軍事に頼らぬ国際法の実効化・支配、という道を日本はもっと模索すべきではないのか。
うかい・さとし
1955年生まれ。哲学者。一橋大名誉教授。フランス文学・思想研究。国家の枠を超える根本的な民主主義の実現を目指して思考し、行動する。著書に『いくつもの砂漠、いくつもの夜』、訳書にジャン・ジュネのパレスチナ体験が凝縮された『恋する虜』ほか多数
くらしげ・あつろう
1953年、東京都生まれ。78年東京大教育学部卒、毎日新聞入社、水戸、青森支局、整理、政治、経済部を経て、2004年政治部長、11年論説委員長、13年専門編集委員