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高田文夫が人生を語り始めた お笑い、映画、歌謡、雑誌編集…「芸能の申し子」 水道橋博士の藝人余録 /8

 水道橋博士がすべての表現者を「藝人」に見立て、その濃密なスケッチを試みる大反響シリーズ。放送作家の高田文夫氏を特集した『月刊Takada』が話題となったのを機に、自らの師・高田センセーへの思慕を募らせた博士が、熱い筆をさらに高揚させて、センセーのスラップスティックな半生を描き出す!

軽妙な話術を披露する高田文夫氏
軽妙な話術を披露する高田文夫氏

 ボクの最新刊『本業2024』(青志社)が6月2日に発売になった。主にタレント本および文庫本の解説など83作のボクが書き散らかした書評を一冊に纏(まと)めた664ページの大著である。

 今回はボクの余技である書評の手法を使いながら、読者の皆様のご機嫌をお伺いしたい。

 「丸ごと一冊高田文夫」(「ラジオビバリー昼ズ」放送35周年記念、高田文夫無責任編集『月刊Takada芸能笑学部』)が絶賛発売中だ。

 どこから読んでも面白い重厚320ページ、オピニオン誌『月刊Hanada』からスピンオフしたムックだ。

 この本のグラビアに若き日の高田文夫の姿がある。

「噓(うそ)じゃなかった! ホントにジュリーにそっくりだ!」

「FUMIO〜〜!」

 ボクはかつての『寺内貫太郎一家』の悠木千帆(樹木希林)お婆ちゃんのように身悶(みもだ)えた。

「オレと沢田研二は同じ日に産まれたんだよ。腹違いの双子なんだよ!」

 高田センセーのお馴染(なじ)みのギャグだ。終戦から3年に満たない1948年の6月25日――。沢田研二と高田文雄(本名は雄)はこの世に生を受けた。

 かたや鳥取、かたやTOKIOの渋谷区富ケ谷、NHKの近くに。

「危険なふたり」が世に放たれた瞬間だった。

 トレードマークは「目玉とタイガース」さしずめ「Eye of the Tiger」、言わずとしれた『ロッキー3』のテーマ曲、歌っていたのはサバイバー。

 そういえば、センセーもその後、心肺停止からサバイブしたっけ。

 父・栄三は映像(エイゾー)関係者ではなく出版関係、それもお堅い思想、史学系の国文社の経営者。

『映画評論』のオーナーである高田俊郎はセンセーの伯父だった。

『戦メリ』の大島渚監督、迷作『シベリア超特急』の水野晴郎監督も、この雑誌のコラム陣であった。

『月刊Takada』の大々的な広告(飛鳥新社)
『月刊Takada』の大々的な広告(飛鳥新社)

深夜放送の既成概念を一変させた

 もちろん高田センセーだって編集長歴としては負けてはいない。

 『カジノ・フォーリー』『キンゴロー』『笑芸人』『落語ファン倶楽部』などなど、今でも一級の資料価値を持つ貴重な演芸雑誌の数々を出版してきた。

 76歳にして、芸能、映画、歌謡は昭和の頭から令和のケツまでインプット済み。

 日々、早朝のラジオから深夜放送までアンテナの朝夜ダチを維持して「YOASOBI」と「新しい学校のリーダーズ」まで分かる76歳はなかなかいない。

「芸は一流、性格三流」の神田伯山がせせら笑いながら「芸人世界のハブ空港」と揶揄(やゆ)しただけのことはあって、飛鳥新社の〝右曲がりのダンディ〟花田紀凱編集長の『月刊Hanada』に連載を持ちながらも、今日もセンセーのラジオは、右、左、ノンポリ、インテリ、無思想、ただの馬鹿……。との「問わず語り」が続く。

「だから言ったろう、マルコポーロとコロンブスだけはやめとけって!」

 高田センセーなら、ラジオのゲストに花田編集長が来ようが、Mrs. GREEN APPLEが来ようが、きっと昼ズだけに、朝飯前なのだ。

 少年時代のボクが高田センセーを初めて見たのは、NHK『600こちら情報部』のレポーターとしてだった。そしてテレビ東京『三波伸介の凸凹大学校』での、夏井いつきならぬ〝デカい目つき〟の俳句のセンセーでもあった。

 もちろん、フジ『オレたちひょうきん族』のスタッフロールにて三宅デタガリ恵介などと共に現れる、「高田ギョロメ文夫」にも目を奪われ、そして何よりニッポン放送『オールナイトニッポン』での、史上最速の投手・ビートたけしの豪速球を受ける捕手役としての高田文夫の存在に心を奪われた。

 後に松村邦洋くんの持ちネタになる「バウバウ」と聞こえる合いの手に放つ、多彩な言葉の数々。キャッチングの正確さだけではなく、その返球も速いことに、宮藤官九郎少年のように「適切に」気がついていた。

 「ビートたけしと高田文夫」。

 この名コンビによる(ボクに言わせればラジオ界の王・長嶋!)速射砲トークの応酬は深夜放送の概念を一変させ、その後のボクの人生を狂わせた。

 親に一言も相談することなく明治大学進学を口実に上京し、ビートたけしに弟子入りしようという人生目標を与えてくれた。毎週木曜日の深夜、正座して写経のようにふたりの福音をノートに記していた。

 果たして上京が叶(かな)うと一度は挫折したものの、23歳の時、意を決して、毎週、ニッポン放送前で出待ちを続け、6カ月後にお目通りが叶い、土下座の末に入門に成功、ストリップ小屋の「フランス座」に預けられた。

 といっても、弟子入り順としては、「たけし軍団」、「たけし軍団セピア」に続く、余剰人員集団である「浅草キッドブラザーズ」、つまりは17番目の末弟だった。

謎に包まれた高田センセーのプライベート

 1985年、『ビートたけしのオールナイトニッポン』の出待ちの身からスタジオに入れる身分となると、高田センセーの姿を間近に窺(うかが)えるようになった。

 ボクと玉袋筋太郎がフランス座で「浅草キッド」というコンビ名で漫才を開始すると、いきなり若手の有望株へと躍り出た。どこへ行っても連戦連勝。コンテストでは常勝を続けて、1988年にはテレビ朝日『テレビ演芸』を10週連続勝ち抜いた。

 この時、高田センセーに神楽坂のステーキ屋に呼ばれて、ふたりきりで食事した。

「大瀧詠一って知っている?」と問われて「あの一水会の鈴木邦男に似た人ですね」と応えると「イイね!!」と笑って見立てを褒められた。「ボク、一水会の機関誌の『月刊レコンキスタ』を読んでいます」と言うと更に爆笑され「イイね!」のサムズアップの連発だった。俺の話を5分以上も聞いてもらってあんなに受けてもらえたのは生まれて初めてだった。

 そして、食事の後、ハイライトを立て続けに吸いながら「オレにまかせろよ!」と言われて、たけし軍団初の本格的漫才コンビとしてプロデュース役を承諾して頂いた。あの日以来、高田文夫とは、「ボクの好きな先生」であり「あなたに褒められたくて」であり、そしてボクにとっての徒弟制度とは、武と文夫を師匠に戴く「文武両道」がモットーなのだ。

 1990年、オールナイトが終了し、その前年からソロデビューし、『ラジオビバリー昼ズ』が始まると、センセーとの付き合いもさらに濃厚になっていった。

 立川流家元・立川談志の命により、東京の若手芸人、落語家、漫才師、色物を横断的に束ねた「関東高田組」を旗揚げした。関東高田組では、続々と異種格闘技戦形式のライブが開催され、春風亭昇太や立川ボーイズ(談春・志らく)などなど、現在ではすっかり大立者に出世した落語家たちと切磋琢磨(せっさたくま)の時を過ごした。

 そして1997年から2013年まで新宿の紀伊國屋ホール・サザンシアターの一流の舞台で、『我らの高田〝笑〟学校』が開催された。

 ボクがそれ以前に「高田文夫vs.立川藤志楼ひとり時間差落語会」(山藤章二企画)の舞台にどれほど憧れて、新人時代にこの舞台に立てたことがどれほど自信になったか。その後継企画なのだ。このライブはセンセーをして曰(いわ)く「漫才師・浅草キッドにトリを取らせるためのキッドのライブ」だった。定席を持たなかった流浪の芸人だったボクたちは、この舞台を唯一漫才師として本腰を入れる本場所として位置づけ、20年にわたってトリを務め、毎回30分を越える一回きりの新ネタを下ろし続けた。

 そんななか、永らくボクは高田文夫の評伝、人物伝を書きたいとセンセーにも直接言い続けてきたが、許しをいただけたことはなかった。

 今はまだ人生を語らずなのか、なにかそこには踏み込んではいけないタブーのようなオーラが充満していた。

 しかし、7年前にはボクが主催するライブで『高田文夫20世紀年表 20万字版』(相沢直・作)を自主出版(無料)で配布することを許可してくれたが、センセーのプライベートは知らないことばかりだった。

 本書によるとセンセーは姉3人兄1人の末っ子だが、あまりご兄弟の話は聞かない。その家族の爪痕を残さない様は、かの「アイアンクロー」のエリック一家より悲劇的ではなく喜劇的に謎に包まれていた。

 ところが、コロナを超えて来た辺りからであろうか、センセーがラジオで半生を語りだすようなことが多くなった。ボクはセンセーから聞いたどんな細かいことでもメモに取っていたが、最近のラジオでは、公にはほとんど言ってないような初出の思い出話がポロポロと溢(あふ)れ出ていた。

伝説の不良・花形敬から野球をコーチ

 そもそも根っからの、あれだけの〝笑い欲しがりさん〟である。ジャニーズ問題が湧き起こると、もう耐え切れなくなったかのようにラジオでジャニー喜多川氏との知られざるエピソードを語りだした。

 友人と少年野球チームを結成していた頃、コーチ役を買って出てくれたのが渋谷の安藤組の右腕、本田靖春『疵・花形敬とその時代』でも知られる伝説の不良・花形敬であったりしたのだが、その時、対戦したチームがジャニー喜多川ひきいる渋谷・松濤(しょうとう)の野球チーム「ジャニーズ」で、その華麗なバットとボールさばきで二戦二敗。本書では割愛されていたが、ラジオでは、試合後ジャニーさんに「ユー、これから『ウエスト・サイド物語』観(み)に行かない?」と誘われたが、高田少年は「『社長漫遊記』の上映時間がそろそろなので」と言って断り難を逃れた。

 さらに本書でも触れられていた、放送作家/落語家の早すぎた二刀流・高田文夫を形作った恩人、日大芸術学部時代に落語研究会で知り合った後の古今亭右朝(2001年没)や、「幸福」すぎて早くに燃え尽きた直木賞作家の景山民夫との青春譚もラジオで時折語っていた。

 快活で仕切り屋のお母様のこと、若き日の青山学院大の後輩学生、後の三遊亭楽太郎(圓楽)師匠との思い出、ラジオを通じて、昨今はセンセーの半生がくっきりと輪郭を帯びてきた。

「ぜひ弟子になって下さい」の永六輔からの手紙の話は、ボクは以前にセンセーを浅草東洋館(旧フランス座)に招いて、サシでたっぷり聞き出した鉄板の噺だが、なんど聞いても活字で読み直しても面白すぎる。

 余話ですが、この本を読んでいて思い出さずにはいられないのが今から四半世紀前に出た『新潮45』別冊北野武責任編集『コマネチ!』だ。あの時、新潮社はコマネチ資金でビルを建て変えたと言われるほど増刷を続け、稼ぎに稼ぎまくった。

 翻って、高田文夫版『コマネチ!』たる『月刊Takada』も発売1週間で重版決定という快挙。『コマネチ!』はその後、パート2が刊行され、文庫化もされて長く親しまれたが「たけし新潮社版権引き上げ事件!」により今では古本でしか入手できなくなった。

 願わくば『月刊Takada』のパート2にこそ、現役の漫才師として執筆陣に名乗り出て、センセーから「勝手にしやがれ!」、そして「戻る気になりゃいつでもおいでよ!」と言われたいのだ。


すいどうばしはかせ

 1962年、岡山県生まれ。お笑い芸人。玉袋筋太郎とのコンビで「浅草キッド」を結成。独自の批評精神を発揮したエッセーなどでも注目され、著書に『藝人春秋』1〜3、『水道橋博士の異常な愛情』ほか多数ある

サンデー毎日 0707号表紙 杉野遥亮
サンデー毎日 0707号表紙 杉野遥亮

6月25日発売の「サンデー毎日 7月7日号」には、ほかにも「怒涛のステルス増税が家計を襲う」「2024年都知事選 水面下でうごめく小池百合子と蓮舫の組織票」「2024年度版 熱中症にならない酷暑対策」などの記事も掲載しています。

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