週刊エコノミスト Online サンデー毎日
『Timer 世界の秘密と光の見つけ方』刊行記念 作家・白石一文インタビュー
大人の恋愛小説を数多く執筆してきた白石一文さんの新刊『Timer 世界の秘密と光の見つけ方』は、生と死、そして死の「先」にまで深く分け入った書き下ろし小説。白石さん自身の人生観、死生観を物語として昇華した意欲作だ。今このテーマを描いた理由、年齢を重ねたからこその実感などについて聞いた。
◇89歳までの健康長寿を保証する〝世紀の発明〟に込めた思い
89歳までの健康長寿を約束する夢の装置「Timer」。開発者であるサカモト博士は、謎のメッセージを残して失踪。装着者は人口の3分の1を超え、その時限設定を解除した者は不老不死になるという噂(うわさ)もある。カズマサの妻カヤコは来年の5月にTimerの消滅日=死を迎えることになっており、「博士を捜し出してTimerの秘密を知りたい」と言う。認知症をかかえたカズマサは、カヤコとともに人生究極の問いの答えを追い求めていく。
―『Timer』は、もともと予定していたテーマを変更した作品だそうですね。インスピレーションに導かれて執筆されたと聞きました。
白石一文 僕も長く小説を書いてきたので、このあたりで〝お話(はなし)お話(はなし)〟したようなものじゃなく、伝えたいエッセンスをそのまま小説として形にしてみようと思ったんです。それで、編集者に黙って方針転換しました(笑)。
―主人公のカズマサと妻のカヤコは、ともに前のパートナーを亡くしています。そしてカズマサは認知症をわずらっていて、命の終わりが近いと自覚している。以前書かれた『神秘』(毎日文庫)でも、死を大きなテーマにすえていました。
白石 カズマサの最初の奥さんは早くに亡くなっているでしょう。彼は彼女をとても愛していて、失ったことでものすごく悲しむんだけど、その悲しみで彼の命は終わらなかった。昔から不思議だったんですよ。大切な人を失ったらあまりに悲しくて生きているのが辛(つら)いはずなのに、どうして人間の命は保持されるんだろうって。僕は、他人と関わることで自分を認識できると思っているけれど、その関係が失われても自分が滅びることはないとすると、「自分」って一体何なんだろう、何によって自分が作られているんだろう、何と対峙(たいじ)しているんだろうという疑問がわいてきたんですよね。そのことへの僕なりの答えを、この小説で書こうと思いました。
―一方、妻のカヤコには、重度障害を持つ息子の人生を支えるため「Timer」を装着したけれど叶(かな)わなかった、という過去があります。「たとえ分身のような我が子であっても(中略)決して同化などできない」とカヤコはさとります。
白石 カズマサと同じように、大切な息子が亡くなってもやっぱりカヤコは生きているから、息子と「同化」できていない。ということは、どんなに親しくてもどんなに愛していても、自分という存在の根っこは、その大切な人とは別のところにある。だから、自分が究極的に対峙しているのは「自分」ということになるんじゃないか。自分の中には「自分」しかいないんじゃないか。「いや、そんなことはない」って言う人もいるかもしれないけれど、そういう考え方をしたら、もしかしたら生きる上でのいくつかの苦しみが軽減されるかもしれません。死ぬほど悲しいと思っても、実際に命が終わらないのなら、死ぬほど悲しいことなんてないのかもしれない。そんな思いで書いた小説なんです。
―ラストに近いところで、博士がカヤコに、自分などちっぽけな存在だと思い込まされてきたのだろうけれどそうではない、「あなた自身が世界なのだ」と言います。その言葉が象徴的です。
白石 自分という存在は、何か大きな流れにからめとられているように感じるかもしれないけれど、もっと自分の選択や判断、考えや意識に力があるという自信を持っていい。そのためには、この世界は自分が作っている、自分ひとりしかいないと考えないと難しいんじゃないかな。でも、実際そうなんだと僕は思っています。全部自分で考えることができるし、いいも悪いも判断することができる。他人の経験は自分の経験とまったく関係ないんだから、気にしなくていいと思うんです。
―それは、孤独で寂しいということとは違いますね。
白石 そう、本来は人とつながっているはずなのに孤独、という話ではなく、そもそもひとりなんだし、みんなもひとりだということ。だから、もっと自分のこと、手元にあることを考えていていいと思うんです。世界にはいろんな問題があって、なんとか良くしたいと思うけれど、自分はその問題から遠いところにいる。自分なりに何かできる人もいるけれど、やりたいと思ってもできない人もいる。だからといってやましさを感じずに、自分の手元のことを大切にすると決めて集中したっていい。僕はまさにそうなんですけど、年を取ると本当に大切なものがしぼり込まれてくるんです。
◇自分のことだけ考えていていい
―カヤコが、今は、亡くなった息子のヒビキや前夫のフクミツさんがどうなったのかだけが知りたいと言う。長年生きてきた中で、いろんなものをそぎ落としてそぎ落としていった結果、自分に残ったものはそのことだけだったと言います。
白石 自分のこと、自分がこの先どうなるか、死んだらどうなるか。失った大切な人がどこへ行ったのか。それだけ考えていてもいいんです。徹底して自分というものを見極めていけば、自分にとって本当に大切なことは何か、大切な人は誰か、そういうことがわかってくるんですから。
―いくつになっても好奇心を持つことが大事とか、人への気遣いを忘れてはいけないとか言われるけれど、そうじゃなくたっていいんだ、と。
白石 僕はまだ生きていたいと思っているけれど、10年後にどこそこに高層ビルが建つと言われても興味が持てない。じゃあなぜ生きていたいのかと考えたんだけど、そんなに大きな理由があるわけじゃない。ただひとつ、相撲を見るのが好きなんだよね。僕も妻も。昼の3時くらいからBSで十両の取組が始まるわけ。ずっとこうして二人で相撲を見ていたいとは思う。あとは、一緒においしいものを食べるくらい。ぜいたくをしようにも、ぜいたくの仕方がわからないんだから。若い時とはまったく違います。今は、人生の欲望ってそれで十分なんだよね。
―ある小説の解説で白石さんは、「実用に耐え得る」小説と「娯楽」小説との対比に言及されていました。
白石 小説が廃れていると言われる中で、エンタメ小説で稼がなきゃというのはあるでしょうけれど、犯人捜しや謎解きのミステリー、あるいはパッと読んで面白いとか爽快感を得る娯楽ばかりで、それ以外の〝読み味〟というのが求められていないし、なかなか生み出されない。小説は一冊2000円近くするのに対して、ネットフリックスなんて1カ月千円前後で際限なく見られるでしょう。話題になったミステリー小説も片っ端から映像化されるから、原作があることすら今の人たちは知らない。
―確かに、映像は見ても原作は読んでいない人が多い気がします。
白石 そういう戦い方だと、小説に勝ち目はないでしょう。活字を読むこと自体、面倒な作業ですから。だからこそ、ただ楽しいだけじゃない本の意義を追求したいんです。謎が解けてスッキリするとか、「わかるわかる」と共感するとか、この年になるとそういうのはもういいよねっていう気持ちもあって。だって、60歳も過ぎて、結婚にも失敗してですよ、子どもとも生き別れて、恥をさらして生きている人間なんだから(笑)。共感って今の自分を肯定したいということだから、その場に立ち止まっているわけですよ。でも読書の良さは、共感できないものを読むことだと思うんです。どうしてこの人こんなこと考えているんだろうとか、こんなこと考えもしなかったとか。人の思考を超えるものが書かれているのが小説だとすると、共感を超えていかないとこれからの小説は厳しいと思う。
◇読書は今見ている景色を変える
―白石さんはXで、一人一人の人生の戦いに「確かな得物を与えられる小説」というのがあるんだ、と書かれていました。小説は、逃れがたい孤独の中で共感を味方につけられない人たちの得物(=武器)になりうるということでしょうか?
白石 小説もそうですが、本を読んで思考するってすごい武器なんですよ。当たり前だと思っていたことがそうじゃないとわかる、その「わかる」ということが生きる支えになることがある。ものを考えていると、自分の周りの景色を変えられるんです。僕なんか長年ものを考えることだけをやってきたようなところがあって、たとえばニュートン力学では光は光速でまっすぐに進んでいくと言っていて、そういうもんだと思っていたけれど、量子力学の本を読んだら、光は重力によって偏光するという。そうか、と。そう考えると、それまで自分が見ていた世界がまったく違って見えてくる。量子力学という得物を手にしたことでいろんな発見が得られるようになるんです。
―わからなかったことがわかるようになって世界の見え方が変わることで、日々の生活も新鮮に見えてくるんですね。
白石 電車に乗っていてもお風呂に入っていても「えっ?」とか「そうか!」と思うことが増える。パートナーとの関係にしても、大幅に更新される感覚がある。読書って、エンターテインメントだけじゃない。それまでとはまったく異なる空気を吸わせてくれるものなんですよ。
―競争力のあるエンタメがたくさんあっても、本にできることはまだまだある、と。
白石 それを体感してもらえるものを作家は書いていかないといけない。こんなことを考えつくんだ、こんなものの見方があるんだ、というものにチャレンジする、僕自身はそうありたいと思っています。
<構成/本誌・佐藤恵>