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戦前結婚の悲劇を忘れた愛子さまと旧皇族「縁組」案 成城大教授・森暢平

閑院宮春仁の妻・直子が家を出たことをスキャンダルとして報じる新聞、雑誌
閑院宮春仁の妻・直子が家を出たことをスキャンダルとして報じる新聞、雑誌

◇社会学的皇室ウォッチング!/119 これでいいのか「旧宮家養子案」―第21弾―

 男系継承維持派のなかには、愛子さまや佳子さまと旧宮家で同世代の若者を縁組すればよいと主張する人までいる。戦前、皇族の婚姻相手は、皇族か華族に限られた。望まない結婚を強いられ、戦後、スキャンダルで世を騒がせたケースもある。内親王と旧皇族を結び付ければよいという安直な案は、過去の悲劇を忘れた暴論である。(一部敬称略)

 1957(昭和32)年2月5日の『東京タイムズ』に「〝斜陽名門〟乙女妻の悲劇」「消息絶つて四カ月」「元教務課長の隠れ家へ」などの見出しが並んだ。前回取りあげた閑院春仁(当時54歳)の妻、直子(同48歳)が夫の元を飛び出した顛末を伝えるものだ。

 閑院家があった小田原では戦後、短期大学を設立しようという機運が起こり、認可が下りる前の56年、小田原女子学院(現・小田原短大)として開学。社会的活動に関心が高い直子は名誉学長に就任するだけでなく、得意の中華料理を実習として教えるなど中枢的な役割を果たしていた。この学院の教務課長となったのが、相模女子大教授(国文学)の経験もあった高橋尚民(当時37歳)であった。

 直子と高橋は、名誉学長と教務課長という職責上、短大認可の手続きのため一緒に上京して文部省を訪問することもあった。電車待ちの間、一緒に映画を見たこともある。そのうち、2人が男女の関係にあるという流言が起こった。この話には、もう一人の登場人物がいる。春仁から全幅の信頼を置かれていた閑院家の家令、西口弘兼である。直子と高橋の関係を疑ったのが西口だった。

 56年8月28日、西口が、直子の部屋の机の引き出しを物色しているのを直子が見つけた。「高橋とどんなことをしていらっしゃるか、証拠品を探しているところです」と平然と答える西口。その顔を直子が殴る。殴り返す西口。修羅場となった。間に立った春仁は西口の肩を持った。

 春仁と直子が結婚したのは1926(大正15)年。17歳だった直子は五摂家のひとつ、一条家の出身だった。五摂家は華族の最上位である公爵家である。明治後期から大正期、宮家の跡取りとなる男子皇族のすべては、皇族か公侯爵家の娘と結婚した。同等性の原則と呼ばれる婚姻規則により、結婚の範囲が限られたためだ。皇族の結婚は、宮内省の斡旋(あっせん)により、家格がすべてで、当人同士は「アクセサリー」にすぎなかった。

夫の性的指向を雑誌手記で暴露

 直子はのちに新婚生活のことを語っている。「宮さまと私の事実上の夫婦としての生活は、結婚後二年あまりで打ち切られてしまったのでした」(『婦人倶楽部』61年2月号)。直子は、夫との性的関係は2年で終わったと赤裸々に述べる。

 当時の新聞、雑誌は、すべての若い皇族カップルを「仲睦(なかむつ)まじい」と描写し、閑院宮の若宮夫妻も同様だった。それは「虚飾」と直子は言う。「(春仁は)人を容(い)れぬ性格で、あたゝか味の感じられない人でございます。ですから、くつろいで面白おかしくお話したことは、ほとんどございませんでしたし、〝私は主人に愛されている〟と感じたことは、一度もございません」(『主婦の友』57年4月号)

 青春時代を小田原で過ごし、軍隊での生活が長い春仁は、貴族的生活を嫌う無口な男だった。一方、一条家の「お姫(ひい)さま」として育った直子は、快活で外交的。自分の意見をしっかりと持つ直子を、春仁は遠ざけた。周囲からは「宮家の継嗣を」と望まれるが、そもそも夫婦生活がないのだから、かなうはずがない。一方、対外的には婦人会などで要職を務め、明るい性格から若手の女子皇族のまとめ役となっていた直子。和歌を作ることを趣味とし「虚飾」を生きる術(すべ)を身につけていく。

 42(昭和17)年、春仁は陸軍戦車部隊の連隊長として旧満州に赴任し、直子を帯同する。直子の手記によると、ここで初めて夫の「生理の秘密」を知ったという。「同性愛というものについては、うすうす知ってはおりましたが、現実の問題として、しかも、それを夫である宮さまに直結した問題として受け取ったときは、地上のあらゆる現象が変貌してしまったような、おどろき、とまどいと混乱に突き当たって、ほんとうに苦しみました」(『婦人倶楽部』56年2月号)

 旧皇族がバイセクシュアルでも構わないし、それを好奇の目で見るのも間違っている。夫の性的指向をアウティングした手記は今のスタンダードでは容認されないだろう。ただ事実として、この暴露は反響を呼んだ。そして、旧満州での春仁の相手のひとりが、当番兵で春仁のお気に入りであった西口である。

 戦後、宮内省から切り離された閑院家は、家を切り盛りするために、郷里に戻った西口を呼び出し、小田原の敷地内に住まわせた。西口は次第に、閑院家の実権を握っていく。

「すぐに離婚なさるべき」助言を胸に家を飛び出す

 西口に殴られた3日後、直子は高橋に相談し、すべてを告白した。高橋はこう言った。「率直にいって、何もかもただ唖然とするばかりです。(略)ご夫婦だけの問題ならともかく、西口が加わったそういう状態というものは、人間じゃありませんね」「すぐに離婚なさるべきです。その後のことは私がご相談に乗りましょう」(『婦人倶楽部』61年4月号)。率直な助言に直子の心は動き、56年9月29日、家を飛び出す。親類宅を転々としたあと、千葉市にあった高橋の元に身を寄せた。

 直子はその後、東京家庭裁判所に離婚調停を申し立てる。6年間の泥沼の裁判はときにメディアの耳目を集めた。春仁は頑として離婚を拒否するが、結局、財産分与として400万円を渡し、協議離婚となった。

 66年、離婚の手続きがなされ、間もなく直子は高橋と再婚した。直子は91(平成3)年、82歳で亡くなる。皇族華族の階層内結婚の犠牲になった直子は後半生で初めて本当の幸せを知った。

 こんな悲劇を今の女性皇族に味わわせるわけにはいかない。内親王と元皇族との縁組を、という基本的人権を無視した主張が公然となされるのは、どう考えてもおかしい。

(以下次号)


もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

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