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皇族は常に天皇を支えるか 久邇宮朝彦親王の場合 成城大教授・森暢平
◇社会学的皇室ウォッチング!/122 これでいいのか「旧宮家養子案」―第24弾―
皇族は常に天皇を支える存在であるというのが、皇位継承候補が多いほうがよいと考える男系継承維持派の議論の前提だろう。しかし、皇族はときに、天皇に反抗し、天皇を困らせる。政治的であることさえある。江戸末期から明治に活動した久邇宮朝彦の例を挙げて、そのことを考えてみる。(一部敬称略)
久邇宮朝彦(くにのみやあさひこ)は1824(文政7)年、伏見宮家の継嗣、邦家の子として生まれる。邦家は21歳で、正式な妃(きさき)をもらう前だった。側(そば)に仕える女性に手を付け、産ませたのが朝彦だ。当時の貴族社会の感覚では、身分が相応(ふさわ)しくない女性の子である。そのため、出生は隠され家臣の家で育てられることになった。当時の名前は「熊千代」。7、8歳のころ、本能寺に引き取られ、「小僧」として使われていた。
36(天保7)年、一乗院門跡、尊常(伏見宮家出身、朝彦から見れば叔父)が若くして病となり、死期が近くなった。奈良にある一乗院は、宮家、五摂家から門跡(住職)をとることが慣例であるが、後継者が見つからない。そのとき、伏見宮家の秘子が本能寺にいることが分かり、当時の仁孝天皇の猶子(ゆうし)(養子)となったうえで、一乗院門跡の座に就いた。朝彦はこうして「皇族」に復する。12歳まで、伏見宮家王子であることは隠されて市井で育った異例の皇族である。
朝彦は52(嘉永5)年、京都の青蓮院(しょうれんいん)の門跡に転じる。ペリーが黒船で浦賀に来航する前年である。ペリー来航時、朝彦は29歳、ときの孝明天皇は22歳である。朝彦は、攘夷(じょうい)祈祷を通じ、孝明天皇に接した。年齢が近いこと、攘夷の信念が一致することが2人の関係を密にした。何よりも、朝彦が臣下ではなく、宮家出身であったことは、天皇が心を許した要因であったろう。
◇政変を主導した「陰謀の宮」
江戸時代の皇族は、朝廷の決定には関与できない存在だった。朝議に参与できるのは、関白などの上級貴族であり、伏見宮など四親王家は、朝廷中枢からは外されていた。
朝彦は、右の状況を変えた重要な皇族である。安政の大獄に連座して、「隠居永蟄居(えいちっきょ)」を命じられたが、大老、井伊直弼(なおすけ)が桜田門外の変で暗殺されたあと、1862(文久2)年に許され「国事御用掛(ごようがかり)」に任命され、正式に朝政に参画できるようになった。
朝彦の政治的行動力がもっとも発揮されたのは、63年の「八月十八日の政変」だろう。公武合体派の主力人物であった朝彦は、長州派公卿(くぎょう)と長州藩勢力を朝廷から駆逐する主導役を務めた。志士たちは、朝彦を「陰謀の宮」と呼んだ。
通説的な理解では、幕末の混迷のなか、朝彦は一貫して、孝明天皇から信頼を得ていたとされる。ただ、「国事御用掛」任命などを、天皇が積極的に進めていたかというと疑問は残る。宮家皇族の朝議参与は、近世的秩序を崩壊させるものであり、孝明天皇は実はそこまでは望んでいなかった。
◇保守強硬思想で欧化政策に反対
明治維新後、朝彦は「佐幕派」と見られ、親王の肩書は剥奪され、1868(明治元)年には広島藩預かりとなった。広島で謹慎する身である。のち許されて京都に戻り、75年には「久邇宮家」の創設を許される。この時、朝彦は51歳。他の皇族とは異なり、京都に居を構え続け、明治政府や明治天皇とは距離を取った。
朝彦が、明治天皇に反抗的な態度を見せたのは、子女教育に関してである。88年、明治天皇は、朝彦に対し、朝彦の子である邦彦(くによし)(15歳)、多嘉(たか)(13歳)の両王、および、安喜子(18歳)、晴子(16歳)、素子(11歳)の3内親王を東京で勉強させるように命じた。学習院や華族女学校で学ばせたかったのであろう。しかし朝彦は、理由を付けて多嘉、安喜子を東京に行かせず、いったん上京した邦彦も京都に連れ帰った。これには、明治天皇も怒り、朝彦は、邦彦を再上京させざるを得なくなったが、学習院には通わせず成城学校に通学させている。
89(明治22)年、65歳となった朝彦は大きな政治的アクションに出る。この年、東京は騒然とした状況にあった。欧米との不平等条約の改正問題で、国論が割れ、政界は混沌(こんとん)としていた。首相の黒田清隆のもと条約改正作業を行っていた大隈重信がテロにあった。閣議を終えて馬車に乗っているところを、国家主義組織玄洋社のメンバーである来島恒喜から爆弾を投げつけられ、右脚を切断する大けがを負ったのである(10月18日)。黒田は辞任する。
こうしたなか東京に向かった朝彦は12月14日に明治天皇を訪問する。「衆議を集め、人の能力を察して、その任に耐える職を授けてください。皇族一同を召し、事を諮問してください」。朝彦は、条約改正問題を皇族に諮問してほしい、それも自分が在京中に会議を開いてほしいと迫ったのである。これを伝える『明治天皇紀』は「天皇は黙って聞き、一語も発しなかった」と記す。長老皇族からの陳情といっても立憲政治下、皇族を政治に関与させるわけにはいかない。宮中と府中を区別し、皇室の政治介入を防ごうとした憲法構想と反するためである。
朝彦は、明治政府が進める欧化政策に反対し、日本の国体思想を守ろうとした。保守強硬派として、「軟弱」な明治政府の政策に反対し、民間の対外硬派と連携して活動したのである。伊勢の地に皇學館大学を開いたのもそうした考えからだった。幕末と同じ感覚で、政治に口を出し、年老いてもなお策動を繰り広げる朝彦に、明治天皇は閉口した。
それは明治の話だろう、と思う読者もいるかもしれない。ただし、現行皇室典範も、皇族の政治活動を禁じてはいない。皇族自身が政治活動を慎んできたから、皇族の非政治性が自明に見えるだけだ。時代が大きく転換するなか、政治に介入する皇族、天皇に協力しない皇族の出現は十分にあり得るだろう。それを制度的に阻むものは、現在、存在しない。<サンデー毎日8月11日号(7月30日発売)より。以下次号>
◇もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など