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幕末、悪評の伏見宮家 駆け落ち事件で当主隠居 成城大教授・森暢平

皇居
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◇社会学的皇室ウォッチング!/123 これでいいのか「旧宮家養子案」―第25弾―

 旧宮家養子案で、復帰が取り沙汰されるのは、伏見宮家系の旧皇族である。ただ、江戸時代後期、伏見宮家は大きな問題を起こした。宮家出身の皇族が「妹」と「駆け落ち」し、当時の天皇を激怒させたのである。伏見宮家は当主が交代し、しばらく参内を禁じられた。(一部敬称略)

「駆け落ち」事件を起こしたのは、のちに山階宮晃(あきら)となる、当時は済範(さいはん)と呼ばれた皇族である(以後、名前は「晃」で統一する)。1816(文化13)年、伏見宮邦家の最初の子として生まれた。邦家は驚くことに満13歳。さすがに邦家の子とするのははばかられたのか、当時の宮家当主、晃から見ると祖父にあたる伏見宮貞敬(さだよし)の子とされた(明治時代に系譜は訂正される)。

 晃は生後10カ月で、京都山科の勧修寺(かじゅうじ)の門跡(住職)を継ぐことが決まり、3歳で入寺した。光格上皇の猶子(ゆうし)(養子)となり、7歳で親王宣下を受けた。その晃が25歳となった41(天保12)年10月、「駆け落ち」事件を起こした。

 相手は2歳年下の隆子(幾佐宮(きさのみや)、当時23歳)。隆子は貞敬の子だから晃の叔母にあたるが、表向きは「妹」とされた。当時、伏見宮家では隆子の妹、直子(つねこ)(東明宮(とめのみや)、当時10歳)が一橋徳川家に嫁入りする直前であった。しかし、隆子は嫁ぐ先、あるいは門跡となる寺院が見つかっていなかった。

 前年、晃が隆子と「密通」しているという噂(うわさ)があった。晃は出家の身であり、結婚することも、女性と交わることも許されない。それに加え、「兄と妹」、実際には甥(おい)と叔母の密通であっても人倫に反する。このため、関白の鷹司政通(まさみち)が、晃と伏見宮家に注意を与えた。ところが、関係が続いていたのだ。

 晃は10月8日、高野山に詣でると嘘を言って、お付きの者1人を連れて勧修寺を出た。隆子も10月12日、闇夜に紛れて、直子の婚礼準備中の伏見宮家を出た。乳人(めのと)を連れていた。2人はどこかで落ち合い、京郊外の伏見から船に乗り、西に向かったようだ。「兄と妹」にどのような見通しがあったのか。西国のどこかの大名を頼って、身を隠して暮らすつもりだったのだろうか。

晃の無頼の所業 親王称号の剝奪

 伏見宮家は王女が行方不明になり大騒ぎになったが、事件を隠した。ただ、密告があり、朝廷に知られてしまう。10月18日ごろ、姫路(現在の兵庫県)の旅館、浜田屋にいたところを発見され、京都に連れ戻された。

 ときの仁孝天皇が激怒した。晃は、「無頼の所業」をなしたとされ、親王の称号、上皇猶子の資格を取り上げられた。京都の東寺に移される蟄居(ちっきょ)処分である。隆子も蟄居となり、最終的には近江八幡(現在の滋賀県)の瑞龍寺に移送された。隆子は生存中、罪を許されることなく、42歳で亡くなっている(1860年)。晃も長い間、蟄居のままであったが、58(安政5)年、17年ぶりに蟄居が解かれ、勧修寺に戻ることが許される。ただ、晃は仏門にあること自体に不満があった。

 ここで、幕末という時代が晃に味方した。63(文久3)年、薩摩藩の最高実力者、島津久光が晃に目をつけたのだ。薩摩藩は朝廷内部での協力者を求めていた。晃は、密かに接触した薩摩藩士から、西洋事情を聞き、政治への野心を燃やす。

 久光は会津藩主の松平容保(かたもり)らと連携し、晃の還俗(げんぞく)を願う書状を朝廷に提出した。これに対し孝明天皇は「いかに賢く、才能がある人だからと言って、先帝(仁孝天皇)からお咎(とが)めを受けた者を、武家が申すからと言って、復権させ違例の登用をするのは実に不本意だ」(『孝明天皇紀』64年1月9日条)という気持ちを吐露している。しかし、大勢には逆らえず、晃の還俗と皇族復帰が決まった。「山階宮」の宮号を与えられ、孝明天皇の猶子となる。

 65(慶応元)年、朝廷内は、幕府と足並みをそろえたい公武合体派と、王政復古を見据える討幕派に分かれ対立していた。晃の弟、久邇宮(くにのみや)朝彦(当時は中川宮)は前者、晃は後者である。2度目の長州征伐をめぐり、朝彦は当時の関白二条斉敬(なりゆき)とともに、速やかに征伐を実施することを主張。長州藩にも近い晃はこれに反対した。

 孝明天皇は、朝廷内では朝彦や斉敬を信頼していた。晃はそれを否定する討幕派であったので、天皇は晃を煙たがった。66年10月、晃は人生で2回目の蟄居処分を受け、朝議から外された。その2カ月後、孝明天皇は急死し、晃は再び赦免される。明治にも生き延び、亡くなったのは98(明治31)年である。

22年間の謹慎生活 「18人」の子をなす

 話を「駆け落ち」事件当時に戻す。実は、伏見宮家自体も大きな痛手を負った。宮家では事件の8カ月前に当主、貞敬が亡くなっていたが、不祥事を鑑み、一周忌法要を遠慮することになった。さらに、宮家を継いだばかりの邦家(当時38歳)は1842(天保13)年8月、5歳であった嫡子、貞教に当主を譲り、出家して隠居の身とならざるを得なかった。

 監督不行き届きを問われた邦家は、晃同様、仁孝天皇の怒りを買った。天皇が在位中は、一度も宮中に参内することが許されていない。46(弘化3)年に仁孝天皇が亡くなり、翌年、孝明天皇の即位の大礼が挙行されるにあたり、参内が許された。しかし、最終的に還俗が許され、伏見宮当主に復帰したのは幕末の64(元治元)年、61歳のときである。問題を起こした当人、晃より復帰が遅れた。宮家自体が、晃の不祥事により、評判を落としていたのだ。

 邦家は隠居していた22年の間に正室、側室(家女房)の計4人の女性に18人の子を産ませた。このうち男子4人(彰仁(あきひと)、能久(よしひさ)、博経(ひろつね)、智成(さとなり))は仁和寺、輪王寺、知恩院、聖護院に入っていたが、明治初年頃、還俗して皇族に復帰する。明治となり、宮家皇族が門跡となる慣行をやめることになったためである。皮肉なことだが、謹慎が邦家を子だくさんにし、それによって伏見宮系皇族の繁栄につながったのである。

(以下次号)

もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

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