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昭和天皇を最も悩ませた寬仁親王の皇籍離脱宣言 成城大教授・森暢平

毎日新聞の単独インタビューに答える寬仁親王(2005年12月18日)
毎日新聞の単独インタビューに答える寬仁親王(2005年12月18日)

◇社会学的皇室ウォッチング!/129 これでいいのか「旧宮家養子案」―第31弾―

 三笠宮家の寬仁(ともひと)親王(2012年逝去)が男系継承維持派を政治的にバックアップしていたことについて前回触れた。寬仁親王は、旧宮家の皇籍復帰について、「まったく違和感などありません」と述べているが、かつて自身が皇籍離脱宣言をして世間を騒がせたことはどう総括していたのだろうか。(一部敬称略)

『毎日新聞』(1982年4月24日)は、当時36歳の寬仁親王が「皇籍離脱を申し出ている」と伝えた。「宮中行事が忙しく、ライフワークとして取り組んでいる身障者問題等に全力が傾けられない」という理由である。

 この1週間前の4月17日午前2時、寬仁親王は宮内庁宮務課長の小川省三に電話をかけ、「皇室会議を開いて、皇族を辞める手続きを取ってくれ」と伝えた。酒に酔った上での電話だった。寬仁親王は当時、一晩でウイスキーのボトル1本をあけるなどアルコール依存症と言っていい状態だった。

 その1年半前、寬仁親王は、麻生セメント会長の娘、信子と結婚した。信子は政治家、麻生太郎の妹である。信子は82年4月21日午後6時55分、静養のため青森県の酸ヶ湯(すかゆ)温泉に到着した。しかし、宮家と連絡をとり、午後10時45分には東京にトンボ帰り。翌4月22日、宮内庁長官の富田朝彦が、宮邸に呼ばれ、寬仁親王から離脱の希望を伝えられた。

 皇室典範では、天皇の曽孫以下の「王」、および女性皇族は、15歳以上なら「意思」で皇族身分を離れることができる。しかし、天皇の子、孫までの「親王」は「意思」での離脱はできない。寬仁親王はメディアの力で、離脱を実現しようと画策した。親しかった毎日新聞宮内庁担当、畠山和久を呼んで、情報を流した。報道の翌日、寬仁親王は渋谷区広尾の日赤医療センターに入院した。入院は約2カ月に及ぶ。

 5月13日、衆院決算委員会で、社会党議員の質問を受けた宮内庁次長、山本悟は「世襲制度としての象徴天皇制」を維持するため、天皇に非常に近い皇族は皇籍離脱に制約を受けると明言した。

◇神宮前で人身事故 英国で「逮捕状」

 当時、寬仁親王は皇位継承順位第7位。三笠宮家の長男として宮家を継ぐことになっていた。宮家の継嗣についてどう考えていたのか。自分より年下の男子皇族は、天皇家の浩宮(現天皇)、礼宮(あやのみや)(現秋篠宮)および寬仁の2人の弟しかいなかった。離脱により皇位継承がいつか危うくなる可能性は考えなかったのか。福祉の仕事への情熱と、皇統の問題をどう天秤(てんびん)にかけたのか――。結局、離脱は断念される。

 もっとも、父親が山階宮家出身の筑波常治(ひさはる)(当時、早大助教授)はこの時、皇弟の宮家は一代限りで廃止すればいいという立場で、三笠宮家が永遠に続く議論にはくみしないと発言した(『週刊現代』82年7月17日号)。旧皇族でも意見は多様であるから、議論を呼んだのは意義深かったのかもしれない。

 寬仁親王は23年後、女性・女系天皇を認めるぐらいなら旧宮家復帰をと主張し、右派勢力と結び付いていく。そののちも過去の離脱発言に触れないまま、66歳で亡くなってしまった。

 若き日の寬仁親王は破天荒さで知られた。75年10月28日午前1時から3時、ニッポン放送の深夜放送「オールナイトニッポン」の特別DJを務め、「5回、結婚したい女性がいました。……すべてダメになったんだけど」「中学から……グレかかったようなことがあって、勉強なんてクソ食らえということになり……成績は最悪だった」「(大学4年生では)16科目も残っていました。……ボクは勉強をしなかったし、頭も良くなかった」と語っている。

 20歳だった66年9月15日午前10時50分、渋谷区神宮前で、自分の乗用車を運転していたところ、後方を注意せずにUターンしたため、オートバイに追突された。食品を配達中だった17歳の少年に左大腿骨(だいたいこつ)骨折の大けがをさせてしまった。

 英オックスフォード大に留学中だった68年11月27日、駐車違反をし、警察官に反則切符を渡された。12月3日に、2ポンド(当時の日本円換算で約1700円)の支払通知書が発出されたが、オーストリアに約1カ月滞在していたので、出頭命令に気が付かなかった。69年1月7日、支払わなければ逮捕してもよいという権限が裁判所から警察に出されてしまい、日本のメディアは1月8日、「交通違反のため寬仁親王に逮捕状が出された」と報じた。

◇ウーマン・リブは「くだらない」と批判

 それらは若き日の過ちだったのかもしれない。芸者遊び、スナックやバーの女性との付き合いは自ら公言し、スキャンダルとして報じられた。それもご愛敬なのかもしれない。

 ただ、彼の女性観はいただけない。「我が国の近頃の若い女ども……のいっているウーマン・リブなどというくだらないブームは……もともとギブ・アンド・テークのルールを身体でも脳ミソでも知り得ていない我々の中でいったって始まらん」「懇談会の女性参会者の多くが、平然と、自分の考え方の中に、間違った平等思想やウーマン・リブ理論を入れているばかりか、信じて口に出す点を心配する」(『諸君!』73年7月号)。

 男尊女卑である。女性・女系天皇に反対する指向は、こうした思想傾向から発していると指摘されたとき、完全には否定できないだろう。

 2007年10月20日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、寬仁親王のインタビューを掲載する。「私は、近くの朝鮮学校の生徒と小競り合いをするような非行少年でした。私たちは、彼らとよく戦ったものです。学習院の制服を見ると彼らは私たちに向かってきました」。武勇伝を語るのはいいとしても、排外主義的行動を肯定的に述べるのは、皇族としていかがなものか。

 昭和天皇を最も悩ませたのは寬仁親王だと言ってよい。皇位継承者を多く確保したほうがよいと考える人がいる。だが、継承順位が下がれば下がるほど、モラルは低減し、皇室の尊厳も併せて低下することは、知っておいたほうがよい。

<サンデー毎日10月13日号(10月1日発売)より。以下次号>

■もり・ようへい

 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など

サンデー毎日2024年10月13日表紙(表紙・北山宏光)
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