教養・歴史コレキヨ

小説 高橋是清 第92話 ウィルヘルム2世の密書=板谷敏彦

(前号まで)

日本軍は旅順要塞(ようさい)を攻略、奉天会戦が迫る。ロシア国内では革命運動が高まり「血の日曜日事件」が勃発した。是清は1年ぶりに帰国をはたし、家族と再会する。

「西方国境は安心していい、ドイツはロシアに何もしないから」とロシア皇帝ニコライ2世を日露戦争へと誘導したのは、従兄弟であり、ドイツの皇帝であるウィルヘルム2世だった。

 ドイツはこうした経緯からロシアの戦費調達に応じていたのである。

 またロシアはフランスとの間で露仏同盟を締結していた。当時成長著しいドイツを東西で挟んで牽制(けんせい)するためである。フランスがロシアに向けてパリの金融市場を開放して軍資金調達に応じていたのもこのためだ。

 ところがロシアが日露戦争のために戦力を極東へとシフトした結果、ドイツと対峙(たいじ)するフランスとしては、心細くなった。

 さらに日本は英国と日英同盟を締結している。日露戦争が始まると、フランスは、事によっては参戦して英国と戦わねばならぬという不測の事態を招きかねない。そこで日露戦争が始まった1904年4月に英仏協商を締結し、フランスは英国との距離を縮めたのである。

 こうした事情でロシアが負ければ負けるほど、フランスは英国に近づいて行く必要があった。

金子堅太郎とルーズベルト

 明治38(1905)年2月、是清が日本に帰っている頃、ワシントン外交筋ではとあるうわさ話が持ち上がった。革命が起き始めているロシアは戦争をやめるのでないかという観測から来たものだ。

 ワシントン駐在の高平小五郎駐米公使はニューヨークにいる金子堅太郎に電報を発してワシントンDCまで来てもらった。

「ドイツ皇帝が日露講和に関して、ルーズベルト大統領に親書を送ったらしい」

 駅からの馬車の中で、

「それはこのくらいの大きさで、封蝋(ふうろう)でシールされ、ドイツ皇帝の印が押してあるそうです」

 高平は指を広げて封筒の大きさを示した。

「それを実際に見たという人がいて、それがうわさになっているのです」

 高平もいろいろと探ってはみたものの、何も出ない。仕方がないのでルーズベルトに直接問い合わせたが、

「断じてそのような親書などない」

 と、にべもないのだ。

「そこで、大統領と親しい金子さんであればと思い、わざわざご足労いただいた次第です」

 金子は公使館に到着するとすぐにホワイトハウスに電話をかけて大統領との面談を求めた。すると外交団の晩餐(ばんさん)会の後であれば時間を作れるということだった。

 夜になって金子がホワイトハウスを訪ねると、ルーズベルトが自ら玄関先に迎えに出てきて「何の用だ」と聞いた。

 金子は「ここでは話ができない」と答え、2人は2階の書斎へと移った。

 ルーズベルトはサイドテーブルにあったウイスキーのデキャンタを片手に、

「何か飲むか?」

 と、金子に聞いたが、金子はクビを横に振った。

「そうか、ケンタロウは下戸だったな。では私もソーダにしよう」

 2人はソーダを飲みながら話を始めた。ルーズベルトは外交団の晩餐会に疲れていた。

「ちょっとソファに横にならせてもらう」

 ルーズベルトがくつろぐと、金子が切り出した。

「ドイツ皇帝から親書をもらったか?」

「いや、何も」

 金子は、ルーズベルトの目を見ながら、ワシントン外交筋ではそのうわさでもちきりだと迫った。

「では聞くが、そのうわさとやらでは、手紙には何と書いてあるのだ」

 金子はこの質問とルーズベルトのそぶりで、どうやら親書はあったに違いないと確信した。

 そこで金子はかまをかけた。

「そこにはドイツ皇帝ウィルヘルム2世と君の間で日露の講和をまとめる代わりに膠州(こうしゅう)湾はドイツの勢力下におくと書いてある」

「そんなことは書いていない」

「そんなことは書いていないと言うからには、やはり君は親書をもらったな」

 少しの沈黙をおいてルーズベルトは答えた。

「確かにもらっている。しかし膠州湾のことなど書いてはいない。日本人にとっては大変良いことが書いてある」

「親書を見せてくれたまえ」

「ケンタロウ、この手紙は国務長官のジョン・ヘイにすら見せていないのだ。しかしお前は友達だ、話だけは聞かせてやろう」

「友達だと言うなら、お願いだから見せてくれ、私は日本を背負ってここに来ているのだ」

 ルーズベルトは金子の粘りにとうとう負けてしまった。「絶対に秘密」とだけ念をおすと親書を金子に見せた。ところが親書はフランス語で書かれていた。金子はフランス語の単語を追いかける程度は読めたが重要な親書となるとそうはいかない。

「おい、悪いが翻訳してくれ」

 ルーズベルトはあきれた。

「ケンタロウ、読めもしないのであれば親書を見ても仕方がないだろう」

 ルーズベルトは外交団の晩餐会で疲れていたが、金子とともにデスクの前に座って逐一英語に翻訳をして聞かせた。その夜、ホワイトハウスの書斎は深夜まで煌々(こうこう)と灯りがついていた。

奉天会戦へ

 親書には次のように書いてあった。

「余は支那に寸地も希望せず。又山東省をも希望せず。平和回復のことは一に貴下に委ねるのでよろしくお願いしたい」

 ドイツは日露講和に容喙(ようかい)(口出し)しないので米国が仲介の労をとってくれというものだった。力でねじふせるには日本は強くなりすぎた。ドイツとしては極東の新しい実力者にここで良い顔をしておきたい。

 日清戦争の際の三国干渉の事例に神経質になっていた日本にとってドイツが何も要求しないことは朗報であった。また同時にこれは軍資金を提供しているドイツがロシアを見限ったことも意味していたのである。

「ケンタロウ、ニコライ2世はいまだ負けたとは思っていない。とにかく全ては奉天の会戦が終わってからだ」

 金子はルーズベルトに深く感謝すると、ホワイトハウスを後にした。

 玄関口には新聞記者が14、15人たむろしていた。

「講和談判の話ですか?」

「いや、旧友と夜話をしていただけだ」

 と、金子は答えて振り切った。

 金子は日本公使館に戻ると、親書の内容を暗号化して東京の小村外務大臣宛に電送した。公使館も徹夜だった。この電報を読んだ桂太郎首相はよほどうれしかったのだろう、すぐさま明治帝に報告している。こうして次に予想される日露の大激戦、奉天会戦に世界の耳目は集まっていたのである。

(挿絵・菊池倫之)

(題字・今泉岐葉)

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