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教養・歴史 コレキヨ

小説 高橋是清 第93話 奉天会戦=板谷敏彦

(前号まで)

 日本軍は旅順要塞(ようさい)を攻略、ロシア国内では革命運動が高まり、日露講和について、ドイツ皇帝が米大統領に親書を送ったといううわさが持ち上がるなど、戦争終結の観測が広がる。

 是清がもう一度欧米に資金調達の旅に出ることは既定の路線だった。明治38(1905)年2月、あらためて「帝国日本政府特派財務委員」に任命された。

 この役職は国際財務官、または政府財務委員として、是清の後はのちに首相になる大蔵官僚若槻礼次郎に継承されて続いていく。

「最後」の外債募集

 出発前のある日、是清と深井は横浜の金沢にあった伊藤博文の別宅に呼び出された。

 海が見える客間は、障子が開かれて、ガラス越しに冬の日差しが入り込み暖かだった。是清と深井にはそれぞれ小さな火鉢があてがわれた。和室である。

 伊藤は深井とは日清戦争の時に面識があったが、よく覚えてはいなかった。

「深井君とは君だったのか」

 顔を見てようやく思い出した。

「高橋君、残念なことだが、我が国はまだ細かな財政処置で、どうこう変わるような成熟した国ではない」

 是清は黙って聞き入る。

「戦争が終了すれば、大方針を立て直して国の力に見合った計画を立てねばならない」

 伊藤が立ち上がり、腕を組みガラス戸越しに遠いまなざしで海を見つめる。そこには夏島やその奥に要塞(ようさい)化された海堡(かいほう)や富津岬が見える。

「海軍は戦後の拡張計画を既に立て始めている。だが、このままでは正貨が流出して我が国は金本位制の維持すら困難になるだろう」

 正貨獲得の苦労を知る是清にすればまさしく同じ意見であった。

「東清鉄道(のちの南満州鉄道)のハルビン以南から大連まで、ロシアは既に2億円から3億円ほど投資していると聞く。もし仮にこの戦争で日本がロシアから獲得しても、各国から文句は出ないと思う。米国にいる金子からの情報では、今回はドイツも干渉してこないそうだ。

 この鉄道は、当面利益は出ないだろうが、将来性がありそうだから外国人の投資家は喜んで投資してくれるだろう」

 是清は伊藤が広く海外の投資家から資金を募ろうと考えていることに感心した。日本が軍事公債を海外の投資家に広く募りながら、その成果物を独り占めにするのであればのちに軋轢(あつれき)を生みかねない。彼らのロジックでいくならば、あつかましすぎるということになる。

「高橋君にはご苦労なことだが、次回2億円の外債を募集すれば、帝国の公債は内外合わせて7億円にも及ぶ。利息だけでも毎年3500万円も支払わなければならない。

 これは簡単なことではない。次回の外債募集を最後としなければ我が国は非常な困難に陥ってしまうだろう。

 政府としては次回の募集をもって戦争を終結させるつもりだ」

 是清も深井も今回の公債募集が最後だと決意を新たにした。

 2月17日、是清は今回、深井ともう一人、日銀の横部書記を新たに加えた3人で横浜港を発つ。

 横浜で開催された送別会の席で、元老松方正義は是清を呼び寄せてひそかに語った。

「もしも戦争が長引くならば、今回の第3次の募集を終えるとともに国内の兌換(だかん)を中止せねばならぬ」

 現状の戦費の支出とそれに伴う正貨の海外流出は想像以上に大きなものだったのだろう。また松方としては伊藤博文と同じように、今回の公債発行が日本の国力の限界だと認識していたことになる。これ以上の借金ではもはや利息が支払えないと。

    *     *     *

 是清たち一行は、英国資本カナディアン・パシフィック社のエンプレス・オブ・インディア号でバンクーバーへと向かった。バンクーバーから大陸横断鉄道に乗り継いでニューヨークに到着したのは3月6日のことである。

 是清が日本から米国に移動している間、奉天では、日露両軍が激突していた。3月1日、日本軍は中央からの全軍総攻撃を開始し、ワーテルローのナポレオン軍ですら7万人規模であったが、奉天会戦の日本軍25万人対ロシア軍29万人は当時世界史上最大の会戦だったのだ。軍の規模が大きいとそれだけ金がかかる。

 戦況は一進一退を続けたが、3月7日に至ってロシア軍総司令官クロパトキン将軍は、日本軍による包囲殲滅(せんめつ)を警戒、包囲される前に撤退を決意した。突然の後退命令にロシア軍は北方へと、まるで敗残兵のように列をなして撤退していったのである。

 10日に日本軍は奉天を占領、逃げるロシア軍の大軍を目前に、もはや日本軍も追討するだけの戦力は持っていなかった。

 日本軍としては遼陽の会戦に続いて、またもや包囲殲滅を果たすことができず、戦争は継続していくことになったのだ。

 この敗戦の報にニコライ2世はクロパトキン将軍を解任、後任にリネヴィチ将軍を任命して捲土重来(けんどちょうらい)を決意した。まだあきらめていなかったのだ。

 ロシア軍側の死傷者は約9万人、シベリア鉄道を使い欧州からいくら兵員を補充しようとも、秋までの戦力の回復は不可能だった。

 一方で勝利者である日本側も死傷者は7万人、特に下級将校、下士官の損耗率が高く、もういちど大きな会戦を戦う戦力はもはや残されてはいなかった。

ウィルヘルム2世の人質

 ちょうど奉天会戦が戦われている頃、ロシア蔵相ココフツォフはペテルスブルクでフランス銀行団と3億ルーブル規模の公債発行の交渉をしていた。銀行団を呼びつけていたのだ。

 ところが、まさに仮契約に調印しようかというその日、奉天陥落の報に接したフランス銀行団は、ロシア大蔵省にあいさつもなく、撤収してしまったのだ。

「前代未聞の非礼」

 ロシアの歴史家はそう記した。戦費がないという点では日露同じだが、少しロシアの方が不利になった。

 ココフツォフは4月に入ってニコライ2世に財政の報告書「委細書」を提出、開戦以来13カ月間の戦費は10億ルーブルであったこと、今後ロシア国内での起債は不可能であることが記されていた。

 それでもニコライ2世はまだ戦意を失わず、極東へと向かうバルチック艦隊に一縷(いちる)の望みをかけていたのだった。

 ココフツォフはその後ドイツで1億5000万ルーブルを調達したが、それは公債ではなく、当初是清が苦しんだ短期の大蔵証券で、利率は7%もあった。その上「ウィルヘルム2世の人質」と呼ばれるほど、ドイツからは恩着せがましくされたのだった。

 のちの第一次世界大戦開戦の原因の一つに、この時のドイツ側の態度が数えられることがあるほどのものだった。

(挿絵・菊池倫之)

(題字・今泉岐葉)

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