教養・歴史

コロナ騒動の裏側で麻生太郎の家業が「葬儀場利権」に触手を伸ばすワケ(前編)=坂田拓也

    東京博善の町屋斎場
    東京博善の町屋斎場

     火葬場は全国に約1500カ所を数えるが、99%は地方公共団体などによる公営事業として行われている(日本環境斎苑協会、18年8月)。

     しかし東京23区内の9カ所に限れば、そのうち6カ所は民間企業の「東京博善」が経営し、7割のシェアを占めている。著名人が火葬される「桐ケ谷斎場」(品川区)、皇族が火葬されてきた「落合斎場」(新宿区)など、その火葬場は江戸時代までさかのぼれるところが多い。

     東京博善は、明治期に実業家が創業して大正期以降は僧侶による経営が続いたが、80年代に入りフィクサーが買収。その後、旅行会社HISの澤田秀雄氏、経営陣による買収(MBO)と“村上ファンド”の参戦、中国系資本…と買収に名乗りを挙げる企業が次々と現れた。今年に入り、名前が出てきたのは麻生太郎・財務相である。

    コレラ流行で牛鍋屋「いろは」の創業者が火葬場

     日本の火葬は古く、法相宗を開いた名僧・道昭が亡くなった700年に弟子たちが火葬したのが始まりという。3年後に持統天皇を飛鳥岡に火葬して奈良の都では貴族や僧侶の間で火葬が普及し、平安朝に続いた。江戸期の火葬場は各地の寺の境内に設けられた小規模の荼毘(だび)所だった。その中の「落合」「代々木」(現・代々幡)「桐ケ谷」の3カ所は現在に続いている。

     明治新政府は廃仏毀釈(きしゃく)を進めて火葬を一時禁じたが、現実には難しくすぐに解禁し、落合、桐ケ谷など5カ所を火葬地に指定した。

     その一つ、小塚原火葬場(荒川区)は19の火葬寺を廃して共同火葬場にしたものだが、人口増とともに衛生問題が起きる。明治19(1886)年には東京でコレラが流行して小塚原火葬場に死体が累積し、移転の請願運動が起きた。翌年に小塚原火葬場が日暮里に移転した時、東京博善を設立して大規模な火葬炉を建てたのが実業家の木村荘平氏だった。

    東京博善の創業者・木村荘平氏の銅像(東京・町屋斎場)
    東京博善の創業者・木村荘平氏の銅像(東京・町屋斎場)

     京都出身の木村氏は、明治元(1868)年の鳥羽・伏見の戦いで官軍の御用商人として活躍した。その後事業失敗を繰り返すが、警視庁初代警視総監の川路利良氏の力を得て屠牛場を経営し、牛鍋屋「いろは」を開業すると日本最大のチェーンに成長して大繁盛した。

     木村氏は業容を広げて東京市会議員に当選し、衆議院議員への立候補を視野に入れた時に亡くなった。死後の継承は成功しなかったと見られ、「落合」「代々木」「砂町」の3火葬場を傘下に収めていた東京博善は大正10(1921)年に解散した。

     木村氏が経営していた頃の東京博善についてこう書かれている。

    「オンボー(隠亡)の会社、焼場の会社と言えば聞こえは悪いが、(略)個人経営の様なものを合併し(略)立派な会社として設立せられ(略)配当はいつも1割5分という好成績(略)東京において独占的の仕事だというのが第一の強味、(略)一層文明式に改良したならばまだまだ儲かる…」(大正4年、鈴木八郎著『株式短評』より、漢字等は一部現在表記)

     冒頭の「隠亡」とは「死者の火葬・埋葬の世話をし、墓所を守ることを業とした人。江戸時代、賤民身分扱いとされ、差別された」(「大辞林」より)。

     木村氏が経営した4火葬場は、解散した日に同名の東京博善が設立されて継承した。新東京博善の初代社長に就いたのは、発起人の1人、東京慈恵会医科大・初代学長で衆議院議員の金杉英五郎氏だった。

    アジアにも輸出された東京博善の優れた火葬技術

     2004年に東京博善社長に就任した浅岡眞知子氏は、金杉氏らが新東京博善を設立した経緯についてこう述べている。

    「当時、火葬場の従業員はたいへん卑下されていたので、職業として認めさせたい一心で会社組織をつくったと聞いています」(『フューネラル・ビジネス』14年3月号)

     金杉氏の引退後は経営陣による紛争が起きたとされ、仏教各宗派の株主の意向で宗教事業に立ち返り、経営は僧侶に委ねられた。

     2代目社長に就任したのは、後に日蓮宗・法華経寺貫主となる宇都宮日綱氏。監査役には、東大哲学科出身で国際派の仏教者と言われた浄土真宗・法善寺住職の中山理々氏と、日蓮宗・堀之内妙法寺住職の藤井教詮氏が就任。第3代社長に中山氏、第4代社長に宇都宮氏につながる宇都宮鐵彦氏が就任し、僧侶による経営が60年続いた。

     その間の1927年に「四ツ木斎場」、29年に「桐ケ谷斎場」、遅れて61年に「堀ノ内斎場」を合併して現在の6火葬場体制となった(砂町火葬場は65年に廃止)。

     特筆すべきは、東京博善の火葬技術が大変優れていたことだろう。

     初代社長の金杉氏は公衆衛生の向上を訴えていた人であり、火葬燃料を薪から石炭に変えて火葬時間の短縮と燃料費の低減に成功し、無煙無臭火葬炉の開発を進めた。

     火葬は夜間に限られていたが、昭和に入ると警視庁が昼間火葬を許可。そして東京博善は全国64の市町村に324基の火葬炉を構築した。海外にも進出し、戦前は韓国、台湾、満州、戦後にビルマ(ミャンマー)、中国で計34基を築炉したという。

    (この項は主に『東京博善株式会社五十年史』(1971年刊)より)

    筆頭株主となった廣済堂・櫻井義晃氏

     寺の境内に作られた荼毘所を源流とした火葬場が合併されていく過程で、東京博善の株主は多数の寺院・僧侶で占められたと見られる。

     1983(昭和58)年、フィクサーと呼ばれた櫻井義晃氏(本名・文雄)が東京博善の株を買い取って筆頭株主となり、3年後に代表取締役会長に就任した。

    廣済堂の創業者で東京博善の株を買い取り筆頭株主となった櫻井義晃氏(本名:文雄)
    廣済堂の創業者で東京博善の株を買い取り筆頭株主となった櫻井義晃氏(本名:文雄)

     京都出身の櫻井氏は、商業高校卒業後にさまざまな職を経て28歳だった戦後49年に印刷業の櫻井謄写堂(現在の廣済堂)を創業し、97年に東証2部に上場した(現在は1部)。東京博善は大規模増資を経て廣済堂が94年に子会社化している。

     櫻井氏は上京後に“黒幕”児玉誉士夫氏や田中角栄の盟友・小佐野賢治氏らと人脈を築いたとされ、さまざまな経済事件で名前が語られてきた。70年代に入ると他業種の買収を繰り返して業容を広げ、一時期はプロ野球・西武ライオンズの前身クラウンライターライオンズのスポンサーも務めた。

    「櫻井さんが主催する新春の集いには、毎年、政界から福田(赳夫)さん、中曽根(康弘)さんら、財界から永野(重雄=日商会頭)らの重鎮、それに芸能人も多数来て1000人を軽く超えていました。小佐野さんは実業に専念しましたが、櫻井さんは右翼を掲げて対照的だった。児玉誉士夫著作集を出版したのも廣済堂です」(当時を知る出版社元幹部)

     田中角栄が74年にインドネシアを訪問した時、経済攻勢を強める日本企業に反発した学生の反日デモが暴動に発展し、日本車が焼き討ちに遭った(マラリ事件)。

    「背景にはインドネシアの石油利権を巡り、米国とその意を受けた日本の政治家と田中角栄の激しい政争があり、暴動は“田中潰し”とも見られました。この時に櫻井さんの名前が収拾役として出てきました」(同)

     80年代に入るとゴルフ場が次々と造成されて高額の会員権が飛ぶように売れはじめた。櫻井氏はその走りとなり、国内外でゴルフ場を展開して女子プロトーナメントを開催するまでになる。その“力”を見せつけたのが、85年に開場したザナショナルカントリー倶楽部(静岡県)だった。

    「東京から車で2時間以上かかる富士宮市に開場するのに、銀行やゼネコンなど大企業がこぞって数千万円の会員権を購入しました。ある出版社の代表が購入を希望すると“上場企業に限っている”と断られたほど。一方で、ゴルフ場建設を前に暴力団が土地の一部を買い上げてトラブルになりましたが、これを収めたのも櫻井氏だった」(同)

    小佐野賢治の株買い取りと民営の維持

     廣済堂の元社員はこう振り返る。

    「廣済堂の事業には櫻井さんの利権と言われたものがいくつもありました。一つが、特許庁の印刷物を一手に引き受けていたこと。特許庁の書類は機密のものが多く、印刷を担当する部署だけは本社とは別のビルに入っていました。しかし櫻井さんが亡くなった後はこうした影響力もなくなり、普通の会社になってしまいました」

     櫻井氏が東京博善の株を取得した経緯はハッキリとしない。火葬場が公営化されていく中で東京博善だけが民営を維持できたのは、「厚労族の大物代議士の後ろ盾があり、それを櫻井氏が手に入れた」(前出・出版社元幹部)と言われる一方、小佐野賢治氏との関係だったとも言われる。

     東京・品川区の葬儀業者はこう話す。

    「火葬場はもうかると知った晩年の小佐野氏が東京博善の株を買い取り、火葬するだけではなく、付帯事業を付けてビジネスを拡大しようとした。しかし株を買った途端に小佐野氏の周りで不幸な出来事が続き、周囲にも保有を反対されて手放すことを決めたのですが、買い手が付かなかった。小佐野氏のために買い取ったのが櫻井さんだと語られています」

    政財界に強い影響力を持った小佐野賢治氏も一度は東京博善の株主となっていた
    政財界に強い影響力を持った小佐野賢治氏も一度は東京博善の株主となっていた

     櫻井氏自身も火葬業は“特殊”な事業だと考えていたが、火葬場の近代化に相応の貢献をした。

     櫻井氏は後に社長になる前出の浅岡眞知子氏に、「職員が堂々と『東京博善で働いている』と言える会社にする」と言い、こう続けたという。

    「煙突をなくして火葬場のイメージを変える。畳の部屋ではなく、すべて椅子席にして、なおかつエスカレーターを付ける。庭には噴水をつくって近代的なイメージにする。建物は重厚で落ち着きのある雰囲気に」(前掲『フューネラル・ビジネス』14年3月号)

     実際に四ツ木斎場の煙突撤去と無煙化を皮切りに、老朽化していた傘下の火葬場すべてを2000年までに建て替えた。

     櫻井氏が04年に83歳で亡くなった後、廣済堂は買収の対象になった。(ライター・坂田拓也)

     後編につづく

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    コロナデフレの恐怖14 サービス業に「デフレの波」 失業増で負のスパイラルも ■桑子 かつ代/市川 明代17 市場に問われる開示姿勢 ■井出 真吾18 図解デフレ大国ニッポン ■編集部19 デフレ圧力は過去にない水準に ■永浜 利広20 コロナで「上がった下がった」ランキング ■編集部21 インタビ [目次を見る]

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