知識は天然資源である 担う者に相応の支払いを=ブレイディみかこ
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借りたものは返せない。
栗原康著『奨学金なんかこわくない! 「学生に賃金を」完全版』(新評論、2000円)の帯に書かれた挑発的なスローガンを見ると、デヴィッド・グレーバーやMMT(現代貨幣理論)や東京都知事選や英首相が言い出したポスト・コロナ・ニューディール(財政支出拡大方針)や、いろんなことが一気に頭を駆け巡る昨今だが、すべての根っこは同じである。
経済がおかしい。おかしくなり過ぎた。現代の若者は大学に行けば数百万円の借金を背負い、さらに国民として君たちは1人当たり800万円の借金を抱えている、と言われる。つまり、特に何をしなくても、すでに各人が1000万円以上の借金を背負っていることになる。そんなバカな。
ふざけるな、と立ち上がったのが本書だが、いつもの栗原ワールドとは異なる文体で、真摯(しんし)に「学生に賃金を」と訴える根拠を論じる。そもそも知識とは長い年月をかけて培われた共同財であり、人々が次々と更新し、豊かにしていく天然資源だという見解には膝を打つ。それを企業に独占させ、値段をつけて売り買いさせたら、社会の知的豊かさは摩滅する。そんな迷惑行為をしているやつらは、ショバ代としてまず学問をする者にカネを払えという著者の叫びは、突飛などころか、まったく時宜を得たものに聞こえる。
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マルクス・シドニウス・ファルクス著『奴隷のしつけ方』(ちくま文庫、800円)には、ローマ時代の貴族たちの奴隷マネジメント法がこと細かに書かれていた。とは言え、意外に人間的な部分もあり、ブラック企業みたいなサステナブル(持続可能)でない奴隷の使い方は推奨していない。そりゃそうだろう。「ローマでは奴隷を石臼につないで粉を挽(ひ)かせるが、かの国ではなんと机につなぐそうだ」という日本語版文庫化にあたっての著者挨拶に笑ったが、先日読んだ栗原本に照らし合わせて言えば、かの国の奴隷たちは多額の借金にもつながれている。そう思えば、ローマ時代の「自由人」と「奴隷」という人間の分類も違った意味を帯びてくる。「奴隷も精神は自由なのだ」というローマ時代の貴族の信条を、現代の借金取りたちはもっているだろうか。
もう4年前になったEU離脱国民投票の直後の英国を書いたアリ・スミスの『秋』(新潮クレスト・ブックス、2000円)を読む。コロナ禍、ブラック・ライヴズ・マター(アフリカ系アメリカ人に対する警察の残虐行為に抗議する運動)と報道の移り変わりが激しい現在、EU離脱はすでに古典的テーマにすら見える。
コラージュのような文体で英国社会の行方を暗示するような小説は、薔薇(ばら)が咲いているシーンで終わる。薔薇は労働党のシンボルだ。労働党が政権を取り、EU離脱はなくなって、みたいな希望のメタファーだったのだろうか。でもそうはならなかった。それすらもう過去の話だ。
(ブレイディみかこ・保育士、ライター)
■人物略歴
ブレイディみかこ
英国ブライトン在住。託児所等で働きながら執筆してきた。著書に『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』など。最新刊は『ワイルドサイドをほっつき歩け』。
この欄は、荻上チキ、高部知子、孫崎享、美村里江、ブレイディみかこ、楊逸の各氏が交代で執筆します。