「格差は誰のせいなの?」母のスナックでこずえちゃんが教えてくれたこと=井手英策
格差社会で人は幸せになれるのか。気鋭の財政社会学者、慶応大教授の井手英策さんは「格差はキミのせいではない。幸せになるチャンネルは身近に幾つもあって、それに気づく力をもっているかどうかだ」という。
そんな思いを小学生にも伝えたいと、「ふつうに生きるって何? 小学生の僕が考えたみんなの幸せ」(毎日新聞出版)を2月に出版した。格差社会を生き抜くために必要な力とは――。井手さんに聞いた。
家族といると楽しくてしょうがなかったコロナ禍の生活
――コロナ禍の生活はどうでしたか。
井手 4人の子どもたち(小学6年、3年、未就学児2人)がずっとうちにいるじゃないですか。楽しくてしょうがなかったんです。仕事をしていて、ちょっと疲れたら、子どもたちの顔を見にいってたくさん話しました。家族といるとこんなに楽しいんだと、骨身に染みた。6人家族で生活は厳しいですが、これからは仕事を減らそうと、本気で思っています。
――お子さんたちに変化はありましたか。
井手 子どもたちは何も変わりません。家庭によって事情は違うでしょうが、うちはみんなで楽しそうに遊んでました。
井手 むしろ学校ですね。1月、中学入試を控えて、新型コロナウイルスの感染を恐れて学校を休むお子さんがでてきました。学校も悩んだのでしょう。「給食費をどうされますか」と電話がかかってきたんです。学校に来られないなら給食費を払わなくてもいいですよ、という趣旨でした。
息子は驚いてしまって、「みんな、行かないの?」と。息子は「行く」という決断をしましたが、学校に行かないことにした家のお子さんが、毎朝窓から通学する友だちを眺めていたと聞きました。こんなことをさせないといけない親の気持ち。それに配慮せざるを得ない学校。僕にはみんなが加害者であり、みんなが被害者に見えました。社会がおかしくなっていると思いました。
父親がいない子を探した日
――この物語では、主人公の愉太郎が、障害のある/なし、塾に行ける/行けない、夏休みの思い出をつくれる/つくれないなど、さまざまな「格差」に気づいて、その都度悩み、もがき、考えます。ご自身も子どものころ、「格差」を感じられたことがあったのでしょうか。
井手 当時、小学校のクラス名簿は両親の名前も書くようになっていましたが、うちは母子家庭だったので、ものすごくいやだったんです。父親がいないことは分かっていましたが、それが目に見えた。僕はどうしたか。あわてて父親がいない子を探したんです。そうしたら、1人いたんです。僕が小学4年生のとき、母がスナックを始めたのですが、彼の母親もスナックのママだった。強烈なライバル心を抱き、いつも口論していました。
「おれはあいつとは違う」ということにものすごいエネルギーを割いていました。
貧しい者たちの目につく小さな差
格差といえば、勝ち組と負け組、お金持ちと貧しい人と分けます。ところが、貧しい僕にとってお金持ちは住む世界が違うからどうでもよく、貧しい人の中の小さな差が目についた。
子どもの心を傷つけるのは、大きな差ではなく、ものすごく小さな差なんです。近くにいる、似たような境遇のやつには絶対に負けたくない、という気持ちが僕を突き動かしていたような気がします。
「努力しない人が貧乏になるの?」
――コロナ禍の教室で「格差」を感じている子どもが少なからずいると思います。子どもたちはどう考えるべきなのでしょうか。
井手 その格差は誰のせいなのでしょうか。世の中の人はすぐ「格差は本人のせいだ」という。「努力しなかったから落ちこぼれたし、努力しなかったから貧乏になった」という。でも、僕に父親がいないのは僕のせいではない。
格差は実は、運と努力の双方で決まるのだと思います。努力した結果、上に行く人、行けない人がでてくる。これは仕方のない格差だと思います。頑張った人がよりいい所に行ける。そうでないと誰も努力しない。
格差は君のせいじゃない!
でも僕の経験でいえるのは、運で決まる格差と努力で決まる格差は分けられない。僕は東大に行きました。でも頭の良し悪しって運じゃないですか。もちろん努力もしましたが、努力だけではなく、そこには運も絶対に入っている。運で決まるのか努力で決まるのかは、絶対に分けられない。
だから、差をつけられている子どもがいるとしたら、「絶対に自分を責めてはいけないよ」と言いたい。
貧乏な家に生まれたとか、障害があるとか、それは君たちの責任じゃないだろう。親が勉強をさせてくれなかった、塾に行かせてくれなかった、それは君たちのせいじゃないじゃないか。
差を感じたときにはもっと自分に優しくなっていい。
悲しみを背負っている人の話の中に可能性がある
――「自分は何のために勉強しているのか」。愉太郎がゴミ集めをしている公園のおばさんに尋ねようとする場面があります。
井手 今、大人の成功体験と子どもの現実がずれてきています。右肩上がりの経済成長時代は、いい大学、いい会社に入れば一生涯安心だと思い込んでいられた。
僕らの学生時代、金融業界では「30歳で1000万円」と言われていた。しかし今、「30歳でいくらもらうの?」と学生に聞くと、「700万円ぐらいかな、600万円ぐらいかな」と言うわけです。
みんな、高い山に登ろうと一生懸命競争するんだけれど、残念ながら日本経済がずぶすぶ地盤沈下していて、山自体が低くなってきているから、てっぺんにきたはずなのに風景が変わらない。そこで、子どもたちは愕然とするんです。
今までこんなに頑張ってきたのにこの程度か、と。でも、頑張ってきたプライドはもっているから、自分の下とか低いとみなしている人に対してものすごく冷淡なんです。
答えのない時代、結局、上を見て幸せになるのではなく、下を踏み潰して幸せを感じる社会になり始めている。そうなると、誰も幸せになれない。誰かを踏み台にしないと幸せになれない社会はおかしな社会です。大人たちも苦しんでいる。
そのとき、自分の周りにいる大人たちの成功体験だけを聞いていても役に立たない。
答えのない時代からこそ、失敗した人とか、悲しみを背負っている人とか、そういう人の話を聞いたほうが新しい可能性に触れることができるのではないだろうか。そんな願いですよね。
いろいろな価値観、多くの可能性に触れていないと、選択肢があまりにも狭くなって、幸せをつかみとれないような気がするんです。
幸せを見つける力
この社会はいろいろな価値観で成り立っています。
公園のおばさんのような人も、その人なりの生き方があって、その人なりの頑張りがあって、その人なりの価値観があるんですよ。
本の最後で愉太郎はおばさんが幸せそうにパン屋さんに勤めに行く風景に出会って、「ああ、おばさん、幸せそうでよかった」と思ったときに、おばさんのような生き方もあるんだと気づくわけじゃないですか。
閉じられた、限られた価値観だけで物事を考えると、その中で幾つかで失敗すると、ぼきっと背骨が折れてしまう。そうでなくて、いろいろな価値観があれば、その中の一つ二つが挫折したとしても、他の価値観でまた頑張れますよ。
幸せになるチャンネルはこの世界にはたくさんある。幸せが見つけられないのは、たくさんの価値観に出合っていないからです。幸せは必ず自分のすぐ側にあるんですよ。それを見つける力を養うには、さまざまな価値観に触れることです。
運が悪くても貧乏な家に生まれても頭が悪くても、必ず幸せはある。この世の中に幸せなんていくらでも転がっている。それをきちんと発見できる心を社会全体でつくってあげてほしい。
金髪のパンチパーマのこずえちゃんが教えてくれたこと
――どうすればさまざまな価値観に触れることができるのでしょうか。
井手 僕の母がスナックやっていて、ホステスさんがたくさんいたわけです。その中にはいい人もいたし、悪い人もいたし、いろんな人がいた。
金髪のパンチパーマのこずえちゃん。客の酒に手をつけてざぶざぶ勝手に飲むような人だった。そのこずえちゃんに旅行のお土産をあげようとしてね。いつも「こずえちゃん」と言っていたのだけれど、思春期の僕はプレゼントを渡すときは「こずえさん」と呼ばなくてはいけないかと悩んで、「はい、こずえさん」とお土産を渡したんですよ。そうしたら、こずえちゃんがぼろぼろ涙を流してね、「ママ、聞いたね、聞いたね。えいちゃんがうちのことば、『こずえさん』って呼んだとよ。どんだけかわいかね、かわいかね」と言ったんです。
あのこずえちゃんがこんなに優しい人だったんだ、と気づいた瞬間に、ホステスさんを見る目が180度変わったんです。
いつも酔っ払い相手にいちゃいちゃしていたお姉さんが、その男性客がトイレに立った瞬間に、絶望的な表情をした一瞬に気づくんです。ホステスさんに偏見を持っていたら、あの表情に気づくことはなかった。僕が気づいていないだけで、「僕の知らない優しさ」が人間にはいっぱいあるんだということが分かったからこそ、その一瞬に気づけたわけです。
母の店に行くのは最初はつらかったけど、だんだん楽しくなりました。親しく話しかけるようになったら、ホステスさんがみんな僕のことをかわいがってくれるようになり、とってもいい場所に変わった。こずえちゃんとの出会いがあったからです。
ところが、こずえちゃんは酒を飲みすぎて倒れちゃいました。植物人間になって、何度もお見舞いに行ったけど・・・ひとりぼっちで死んでいきました。そんな悲しい思いも経験しました。
いろんな体験があってこその今の僕だと思う。そしてそんな体験のチャンスは、日常のくらしのなかにいくらでも転がってるんです。
「どうして別のクラスにいるの?」と聞けなかった愉太郎
――この本で特に皆さんに伝えたい場面はありますか。
井手 自分が気に入って、心に残っているのは、本の最初のほうで愉太郎が、障害があって別のクラスで学んでいる英智に傘を返しに行ったとき、英智に「どうして別のクラスに行ったのか?」を聞けずにモヤモヤしながらも、「たぶんもうこのクラスにはこない、と感じていた」という場面です。
表面上は「また来るね」「おいでよ」と他愛もない会話をするけれど、うそですよね。本当の優しさもあるけれど、気遣いもある。だから、そこに気づいて悩むという、そのワンステップがあったからこそ、最後の最後に愉太郎は英智と和解し、「どうして別のクラスにいるのか聞きたいと思っていた。
でも、何か聞いちゃいけない気がして、どうしてもできなかった」と話すのです。
幸せというのはどこかにあるんだけれど、いつかやってくるものではなく、自分でつかみとっていくもの。そのためには何かのワンステップを踏まないといけないはずなんです。
そのワンステップが、日々の暮らしの中にたくさんあるんです。気づいて出会って考えたことが、どうせ答えは分からないけれど、頭や心の片隅にはひっかかっているんです。
ひっかかっているから、日常のさまざまな経験の中で、突然その経験と心のひっかかりがつながって、「あっ、そうだったのか」と発見する。
心の片隅に引っかかった古典の一言
大学生のとき、古典を読みまくっていました。
ニーチェの「善悪の彼岸」やルソーの『社会契約論』とか。全く意味はわからなかった。それでもなお、心の片隅にひっかかるものが一つ二つあって、それがだんだん年をとって、僕の場合、学者になりましたから、「あれ、あのとき読んだ本の中に書いてあったな」と、もう一度読んでみると驚くほどの気づきがあるんです。
若いときに読んでいなかったら、この出合い、気づきはないんですよ。だから何でもいいから触れておくこと、出合っておくことには意味がある。必ずその時の経験と昔のひっかかりがつながる。「あー、そうなのか、そういうものなのか」と思う瞬間があるんです。
英智の物語はそういう意味で書きました。
愉太郎は感じた後ろめたさを一生引きずっていく。引きずっているからこそ、何かがあったときに気づけるんですよね。
人間には失敗する自由もある
――小学生の保護者の方たちへのメッセージをお願いできますか。
井手 子どもたちにはいろいろな経験をさせてほしい。自分の価値観はワンオブゼムに過ぎない、それが正義だと思ってはいけないと思います。
親はこれまでの経験で培われた価値観でしか生きていけない。その価値観を子どもたちに押しつけていくことは仕方のないことであり、実は大切なことだと思います。だって親子なんだから。それはそれでいいんです。
ただ、親の価値観が間違っていたときに子どもに対して責任を取れるんですか、ということですよね。
社会が大きく、まれにみるような速度で変わっていっている中で、自分の価値観だけですべてがうまくいくと思うとしたら、それは傲慢ですよ。
親の価値観を子どもに伝えることは素晴らしいことだと思うけれど、その他の価値観もあることもきちんと伝えていかなくてはならない。そうでないと、本当の意味で子どもに責任を取れないと思う。
人間には失敗する自由もあるんです。まずは子どもにやらせてみて、失敗したら、そこから一緒に考えようというプロセスを大事にしてほしいですよね。だから、いろんなことにチャレンジさせてあげてほしいです。
「あんたから目を離したことは、一瞬たりともない」と言った母
―この本は毎日小学生新聞の連載がもとになっていますが、再構成されたとうかがいました。
井手 家で多くの時間を一緒に過ごした子どもたちに、考え方や発想をたくさん聞きながら、子どもたちのリアルに近づけるように直しました。また、大人たちがどれほど悩んでいるのかも、子どもたちに伝えたかった。
必ず誰かが自分を見てる
愉太郎のお母さんは、愉太郎が受験すべきかどうかを愉太郎に最後まで言えずじまいでした。大人も本当に悩んでいる。そして、親は子どもに大金持ちや超有名人になってほしいわけではない。穏やかで、ささやかでもいいから幸せを感じながら生きていけるような人になってほしいと皆、思っている。
「あんたから目を離したことは、一瞬たりともない」と母に言われて、うれしかったことを覚えています。
どんなにつらいときでも、どんなに困ったときでも、必ず誰かが自分のことを見てくれている。生きるってそんなものよ、ということを伝えたかった。
この物語に出てくる人は、えらい人ではないけれど、ちゃんと人のことを見ていて、気にかけている。大人たちは子どもたちのことを考え、子どもたちも大人たちのことを思い、みんながみんな幸せになってほしいと思って生きている。
そんな人間に対する希望を感じながら読んでほしいと思っています。
(聞き手・構成:小島明日奈)
井手英策(いで・えいさく)
1972年福岡県久留米市生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了、日本銀行金融研究所、東北学院大学、横浜国立大学を経て、現在、慶應義塾大学経済学部教授。著書に「幸福の増税論 財政はだれのために」(岩波書店)、「富山は日本のスウェーデン 変革する保守王国の謎を解く」(集英社)、「18歳からの格差論」(東洋経済新報社)など。2015年大佛次郎論壇賞、2016年度慶応義塾賞を受賞。