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水道橋博士 芸人の流儀でエライ人を斬る 翼賛の時代 テレビと文化人たちの奇妙な生態

「サンデー毎日5月30日号」表紙
「サンデー毎日5月30日号」表紙

 森羅万象、特に人物を、鋭く観察し、丁寧に批判するお笑い芸人「浅草キッド」の水道橋博士が、『サンデー毎日』初登場! 強い者におもねる空気に席巻されるテレビ界、芸能界、文化人たちを、エンターテインメントな筆法で生々しく描き出す――。

『サンデー毎日』に一筆書かせて頂くことになりました、浅草キッドの水道橋博士です。今回、芸能人として取材されるのではなく、執筆者として、この伝統ある週刊誌に自分の名前を刻めることは光栄の至りです。

 僕は、今年4月から、ついに30年ぶりに地上波のレギュラー番組がゼロになった、テレビ界に影響力のないお笑い芸人です。自嘲的な書き方ですが、そこは現状であります。今回、僕の最新作であり、ライフワークだと思っている『藝人春秋』(文藝春秋)が、今年2月に「2」、そして3月に「3」と出版されました。そして、『サンデー毎日』の編集子より「水道橋博士の文庫、とても面白かったです。余人の気づかない微細な言動や、自らが接した様々な場面から、その人物の人間性の発露を見事に捉え、コクのある独特の文体で描写していく展開に、すっかり読み入ってしまいました。1篇ごとに仕掛けられた謎を追うことは人を深く知ることにつながるし、2冊の凝った構成は芸能界と世間のダブルスパイのような水道橋博士の立ち位置を示していて、魅力的です。芸能やテレビが『翼賛の時代』の浸食を受けていく過程のドキュメントとしても貴重であり、時代批評を、人を介したエンターテインメントとして成り立たせる水道橋博士の力量に感嘆した次第です」と過分な批評を頂きました。

 そこで、今回、僕のタレントではなくライターとしての経歴を語るとともに、昨今の翼賛の時代のテレビ事情について書き記したいと思います。

 この文庫シリーズで僕がとっているスタンスは、1作目は「テレビタレントではなく芸能界に潜入したルポライター」、そして2作目、3作目では「芸能界に潜入したスパイ」という設定になっています。そして芸能人の芸能に関する芸論だけでなく、テレビに映る影響力あるテレビ人、政治家、経営者に対して重大な告発を行っています。

 何故、芸人の僕が、そのような「エライ人を斬る」文章を書くのか?

 読者の素朴な疑問にも答えていきたいと思います。

 僕は芸人になる前、思春期に最も憧れた職業はルポライターであり、亡くなられた竹中労氏を師匠として私淑していました。そして「弱いから群れるのではなく、群れるから弱いのだ」という竹中氏の言葉を座右の銘にしてきました。

石原慎太郎氏にスパイ呼ばわりされた

 まず、そのキッカケから。

今からもう10年以上前、TOKYO MXテレビで石原慎太郎都知事と共演していたときのこと、慎太郎・裕次郎兄弟と親交のあった赤坂ニューラテンクォーターの元用心棒で、「PRIDEの怪人」としても知られる作家の百瀬博教(ひろみち)さんについて、僕が書いた文庫解説文が石原都知事の目に止まりいきなり携帯電話に直電してくるや「君の文体は三島由紀夫に似ている」とまで買い被(かぶ)って頂き東京都の広報誌にエッセイを連載していたことがありました。

 石原都知事からは、会う度に「小説書いてるか!」と発破を掛けて戴き、文章修行を促されましたが、僕は僕で、『藝人春秋』のようなノンフィクションエンターテインメントの執筆に勤(いそ)しんでいました。

 転機は、2011年。震災の1カ月後に、東京都知事選挙が行われたのですが、ここで石原都知事と、こともあろうに、我が「たけし軍団」の兄弟子、東国原(ひがしこくばる)英夫さんが激突することになりました。その時の石原都知事の不機嫌ぶりたるや……。僕への評価は、「三島由紀夫の再来!」から「東国原のスパイ!」にまで急落しました。芸能界への潜入するスタンスは冒頭書きましたが、本当に政治家からスパイ呼ばわりされるとは思ってもみませんでした。

 石原都知事は再選、そして2012年末、猪瀬直樹都知事へとバトンタッチされました。

 その翌春、僕は『週刊文春』で、芸人エッセイ『藝人春秋2』の連載を開始しました。

 連載は1年、50回。橋下徹大阪市長から始まり、順調に予定の人選で連載を進めていたのですが、12月に猪瀬都知事が辞任したことを受け、僕は急遽(きゅうきょ)、猪瀬元都知事を俎上(そじょう)に載せ、続いて辞任のきっかけとなった、徳洲会についても書きました。

 もちろん徳田虎雄理事長については、政治とカネに傾倒する金権体質部分は批判しつつ、しかし徳洲会が医療界の規制に風穴を開けてきた実績は好意的に書きました。その思いに至ったのは、再現VTRから病名を推理するNHKの医療バラエティで共演した、徳洲会の若き研修医たちの姿からでした。近年、問題を起こした企業や組織に対して、安易にスマホで指先一つでバッシングに参加する風潮ですが、例えば企業トップの問題発言でも社内や工場で働いてる人々、ましてやその家族まで同一視することには、抑制的でなければならないと徳洲会の経験から感じています。

 今ここに、石原慎太郎、猪瀬直樹、徳田虎雄と名前を書きましたが、僕はすべて仕事でこの方々と会い、直接話を聴いてきました。

 会う前には、書籍を読んで、人となり、してきた仕事について、しっかり学んでから挑んだつもりです。

 石原氏の小説すべてを読破するほど詳しくないのですが、昭和の芸能界、政治、スポーツ界、弟・裕次郎について書かれたエッセイの数々は読み通しました。

 猪瀬直樹氏については、全集を読むほどの大好きなジャーナリストであり、僕の著作における猪瀬氏への表現、事実関係を巡って自宅に招かれ、話し合ったこともありました。しかし、その上で書くべきものは書かせてもらいました。

 相互批判はもっとも重要なマスコミのルールです。それはやはり、石原氏のみならず、猪瀬氏、橋下氏、徳田氏と、政治家になった以上、「エライ人」になった以上は、人間性の精査が必要となるからです。芸能人とは違って、好きだけではいられないからです。ただし、観念上の嫌悪ではないことは、僕の本を読んでいただければわかるはずなのですが。

忖度、差別…テレビは進歩していない

 猪瀬直樹氏は、昭和13年の国家総動員法成立以来、戦後廃止されるも、日本を実質的に支配してきた官僚組織という、この制度の問題点を、わかりやすく、革命的にデータとともに斬り込みました。都政でタッグを組んだ、石原氏、猪瀬氏に共通した才能は、文系の文人でありながら細かいデータや会計といった〝数字を読める〟ところにありました。 そして、竹中労氏の特徴は、一刀両断。偉い人本人から、マージナル、昨今で言えばアッキー問題のような、総理夫人といった周辺人物まで撫(な)で斬り、そして知識が横走りしすぎて、政治から、芸能、歌謡、性風俗まで、評論の対象としていました。

 僕は政治を観察、批判しつつも、笑いをまぶして袋小路ではない、出口のある表現をしたいと思っています。政治と笑いの距離感は、難しいものです。

 師匠ビートたけしがよく言うのは、「ジャストミートを避けろ」です。

 芸人とは王の道化であり、皮肉と本音のギリギリを突くコントロールこそが芸であるという意味です。

 西部邁(すすむ)氏は、「政治が笑うべき状態になっているのは、国民の民度の低さに由来するのだということを国民がペーソスまじりに自認するなら諷刺(ふうし)は政治の健康にとって不可欠の精神的栄養である。しかし国民がみずからの責任を回避するために政治家への揶揄(やゆ)を下品にやりまくるとなると民主主義の病理状態である」と、一流の民主主義懐疑の立場からこう喝破しましたが、とはいえ、まさに僕が憧れたのは、この〝揶揄と下品〟をためらわない竹中労氏であったのです。『文春』連載中には、様々なことが起きました。

 関西のキングメーカー、ええ声で鳴く汚い鳥(©島田紳助さん/今話題の)こと、やしきたかじんさんが2014年1月に逝去。

 その後のたかじん問題について思うことは、とかく右翼番組の先鞭(せんべん)的な言われ方をしますが、元気な時は「日本人はすぐわーっと傾くから」と翼賛的な話にはブレーキを掛け、ましてや三宅久之さんのような与党よりの人も含めて「一度民主党に任せてみよう」という政権交代の機運を醸成したこともありました。

 しかし、やはり転機は健康問題で、番組への欠席が続くと、利いていたそのブレーキが効かなくなりました。

 近年、永田町でも忖度(そんたく)が話題になりましたが、「部下の自主的な妄動的な行動」の責任や罪を誰にどう問うたら良いのか、その難しさを考えさせられました。

 たかじんさんが欠席がちになると、視聴率維持のため、一部のスタッフの妄動性、エッジの効きすぎた路線が顕著となりました。そして逝去後は、ノンフィクションを騙(かた)った事故本『殉愛』問題、そのスタッフによる偏向した番組が、社長自らが差別主義を標榜(ひょうぼう)するDHCと結びつき、東京で制作される事態となりました。大広告主のDHCに対し、テレビは一切の批判を今も口に蓋(ふた)をしたままです。

 結果、「ニュース女子」問題などが起きるわけですが、番組のトップが事情説明しないというテレビ業界の悪習が際立つことになりました。

 それは、昨今でも、リアリティショーで出演者が自殺してしまったり、芸人が完全にアウトなネタを口走ったときでも、プロデューサーとは別の誰かが謝ってるだけといった有り様で何も進歩していません。

闘うときは闘わなければならない

 問題は、正義のコストです。

 竹中労氏は、多額の借金をし、家族にも苦労をかけ、本人は63歳で若くして亡くなった。芸人で言えばさしずめ、破滅型芸人です。人生訓としては反面教師の側面も見えてきます。

 僕は『週刊文春』で過去3度、連載をしたのですが、毎回、連載を終える頃には精根尽き果て、直近の連載では、全芸能活動停止のドクターストップ宣告にも至りました(まぁ心労の中にはビートたけし事務所移籍問題もあったわけですが)。

 きっと古市憲寿(のりとし)くんなんかに言わせれば「〝芸能界のスパイ〟ってコスパ悪くないですかぁ?」って感じで呆(あき)れられることだと思います。

 正義のコスト以外にも、自問自答は続きます。

 竹中労氏のように、右も左もなく、保守も革新もなくというマインドを僕自身、貫けているか?  右的なもの叩(たた)きに矮小(わいしよう)化していないか? 自分の住んでいる芸能界、テレビ界という〝村〟に対してまでどこまで書く勇気、損得勘定があるのか? エライ人、権力者の監視ではなく「スキャンダルのためのスキャンダル」になっていないか?

 ライターとしての悩みは尽きません。

 むしろ芸能者である僕が本来、やるべき仕事であろうか?

 何故、ジャーナリストやルポライターや記者が、この矛盾に?(か)みつかないのか。

 あなたは、長いものに巻かれる人生のために、この職業を志したのか!?と問い掛けたい。

 澁澤榮一は、「男はどんなに丸くとも、角(かど)を持たねばならない」と言いました。

 闘う時は闘わねばならないということです。

 竹中労氏の時代にはなかった、SNS、コンプライアンス、ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)といった様々な要因が、ジャーナリズムの、ルポルタージュの界隈(かいわい)で身動きを制している。

 報道のみならず、漫才、テレビバラエティも自由の出口はなかなか見つかりません。

 しかし書くこと、表現し続けることが漫才師の、「芸能界のスパイ」の、僕の使命だと思っています。

 再び冒頭に戻ります。

「弱いから群れるのではなく、群れるから弱いのだ」

 すいどうばしはかせ

 1962年、岡山県生まれ。お笑い芸人。玉袋筋太郎とのコンビで「浅草キッド」を結成。独自の批評精神を発揮したエッセーなどでも注目され、著書に『藝人春秋』1?3、『水道橋博士の異常な愛情』ほか多数ある

 (「サンデー毎日5月23日号」掲載)

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